周防国府のあった防府市は美しい条里制地割の都市であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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8世紀、日本中に国府が定められ、また国分寺が開かれたが、防府市街は当時のままの美しい条里制地割であり、国府は条坊制を維持して来た。
 
以下、昭和初年までの防府市街の写真などで、元々美しい町であったことが確認できる。

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防府市のグーグルマップ、防府天満宮、国分寺、佐波神社、防府国衙あたり

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防府市の案内図

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現在の防府の国衙跡地

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昭和50年、防府の国衙跡地と周辺

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昭和20年の三田尻駅周辺、左下に桑山がある。

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昭和13年桑山からの眺望、七十七年前、桑山から右田岳を撮影した珍しい景色


参考

① 防府国府(参考)

周防国は、国府研究者にとって特別な国である。それは後に山口大学の教授になる三坂圭治が昭和8年(1933)に著した「周防国府の研究」が、我が国の国府研究の嚆矢となったからである。

三坂は現地を精査し、古文書にあたり、現在の地名、遺存地割りによって、防府市の国衙地区に八町(870M)四方の国府域と、二町(218M)四方の国衙域を推定し、古代の国府プランを復元したのである。

周防国は文治二年(1186)に、源平合戦で焼失した東大寺を復興するために、東大寺の造営料国とされ、東大寺から派遣された僧が国務をとった。南北朝時代になると大内氏が勢力を伸ばし、東大寺の権益を侵すようになる。そこで、応永六年(1399)東大寺は大内義弘と交渉し、協定を結んだ。その文書の中に、「土居八町」は東大寺領として、治外法権を認めるという一項がある。三坂はその土居八町という言葉に注目して、周防国府の復元を試みたのである。


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② 防府国分寺(参考)

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真言宗周防国分寺は、国府から北西1km程の所に位置します。

国分寺は、聖武天皇により、奈良時代の741年に出された「国分寺建立の詔」により建てられました。
この詔では、国府の近くに国分寺を建てるように指示されています。

創建当初の境内に伽藍を残す珍しい例という(参考)。

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山門は仁王門


③ 大宰府、福岡県(参考)  ーーー 条坊制は見られない


④ 多賀城、宮城県(参考) ーーー 条坊制はあった


⑤ 平安京や平城京より古い、由緒ある美しい条坊制の都であった(参考)


⑥ 防府市の古代からの土地と開拓地(参考)

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防府国府あたりは昔からの土地である


⑦ 元の防府との説もある光市(参考)