現在の防府の国衙跡地
昭和20年の三田尻駅周辺、左下に桑山がある。
昭和13年桑山からの眺望、七十七年前、桑山から右田岳を撮影した珍しい景色
参考
① 防府国府(参考)
周防国は、国府研究者にとって特別な国である。それは後に山口大学の教授になる三坂圭治が昭和8年(1933)に著した「周防国府の研究」が、我が国の国府研究の嚆矢となったからである。
三坂は現地を精査し、古文書にあたり、現在の地名、遺存地割りによって、防府市の国衙地区に八町(870M)四方の国府域と、二町(218M)四方の国衙域を推定し、古代の国府プランを復元したのである。
周防国は文治二年(1186)に、源平合戦で焼失した東大寺を復興するために、東大寺の造営料国とされ、東大寺から派遣された僧が国務をとった。南北朝時代になると大内氏が勢力を伸ばし、東大寺の権益を侵すようになる。そこで、応永六年(1399)東大寺は大内義弘と交渉し、協定を結んだ。その文書の中に、「土居八町」は東大寺領として、治外法権を認めるという一項がある。三坂はその土居八町という言葉に注目して、周防国府の復元を試みたのである。