鬼ヶ城山に住む牛鬼と蝿は製鉄に従事しながら日本を守った | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関市の鬼ヶ城山には、白村江の戦いの敗戦後、日本列島防衛の為に長門城の一つが築城されたと目されている。しかし、山名の鬼ヶ城山からは長門城と推定出来ない。

鬼ヶ城山にまつわる伝説は製鉄に従事するタタラ職人に関するものであった。タタラ職人達を鬼ヶ城山周辺に居住させ、付近の砂鉄での製鉄の権利を安堵する代わりに、唐や新羅の連合軍が攻め来た時に備え、海岸の監視を怠りなく勤め、さらに兵士として従軍する義務を課したと思われる。


参考

① 鬼ヶ城山と製鉄(参考)

下関市豊浦町の鬼ヶ城山には「片目の蝿」伝説が伝わっている。「鬼ヶ城山に棲む牛鬼が黒井の長門三の宮・杜屋神社の宮司の娘に懸想し、毎夜山を降り塀の穴から覗きを繰り返していた。これに気づいた宮司が弓で射たところ、牛鬼の片目を射抜いた。翌朝、血の跡をたどって行くと鬼ヶ城山中で絶命している牛鬼を発見した。そしてその死骸に群がっていた蝿はみな片目になっていた」というものである。この話は、火熱に焼けた赤ら顔で縮れ髪、褌一枚の裸は鬼同然であり、長年、火を見つめることで目を悪くし、ついには失明にいたる、たたら職人を題材にして創られたものだという。たたら職人のうち最下級の番子とよばれる吹子ふみは、食いつめ者、あぶれ者が多く、竹矢来などで囲われ地下と隔離された山内とよばれるこの一角で、半奴隷的な生活を強いられていた。その生活も衣服はお仕着せ一枚、小銭が入れば酒とバクチにふけり、女性関係も悪質だったというから、村人たちは、夜な夜な山内を抜け出しては村の女を漁っていた番子たちの姿を、「鬼」にたとえて恐れていたのである。

杜屋神社近くには川棚たたら遺跡や涌田浜の砂鉄採取場も確認されている。多々良、福万、金塚、鍛冶屋、梶畑、小森など、鉄冶業に関連した地名とともに、川棚小野、福江(福江八幡宮合祀、参考、内日(王子神社相殿)に人丸神社もあった。『神社明細帳』には、貴飯村の美栄神社(菊川町楢崎)と下保木村の白山神社(同下保木)にも、人丸神社を境内末社へ合祀とあるが、今、両社とも祭祀伝承は途絶しているとのことであった。


② 鬼ヶ城山頂あたりは花崗岩地質では無く砂鉄によるタタラ製鉄に向かないが、北西の山麓にあたる黒井、室津、涌田、川棚あたりは花崗岩地質で良質な砂鉄が産出した。

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ピンク色が花崗岩地帯、鬼ヶ城山は緑岩


③ 綾羅木川支流の砂子多川あたりも砂鉄によるタタラ製鉄、さらに製銅が行われていた(参考)。彼ら職人達も、長門国府である長府を守る兵士の役割があったかも知れない。