エピローグ 人麻呂の死 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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エピローグ 人麻呂の死(コピー元)

大宝二年(702)正月、従四位上大神(大三輪)朝臣高市麻呂が長門国司守に任じられた。ところが、その高市麻呂は長門国司守に任じられた後、すぐに病気になり、長門国へ赴任が出来なくなった。当時、長門国司守は朝鮮半島に対する防衛や大宰師に対する牽制などの理由により、陸奥国国司守と同様の特別職として国司守の中でも四位相当の者が任官される国であった。このため、長門国の事情を知り、また、銅鉱山経営に詳しく、官位も適う正五位上中務省大輔の柿本朝臣人麻呂が大神朝臣高市麻呂の後任に任命された。

長門国司守に任命された柿本人麻呂は、大宝三年春、長門国大津郡の国衙に赴任した。

朝廷は、朱雀年間の時と同様に、人麻呂の手によって新たな銅鉱山の開発が進み、その長門国での銅の製錬を開始することを期待した。不思議に奇跡は再び起きた。人麻呂はこの期待に応え、昔、人麻呂が開いた大津郡の鉱山で働く人々に周防国、長門国、石見国に渡る広範囲での探査を行わせ、その後の東大寺大仏の銅を一手に受ける日本最大の銅鉱山となる長登鉱山の発見とそれを取り仕切る周防鋳銭司設置へと繋いだ。

慶雲二年(705)の初夏、柿本朝臣人麻呂は三年ぶりに長門国大津から藤原宮に戻って来た。その人麻呂の帰京を待ちわびるようにして、去年の秋に大唐から帰国したばかりの山上臣憶良が尋ねた。

今、長門国司守である人麻呂は朝廷に中上がりの報告を終えると、穴師の里にある柿本の鍛冶屋敷に入った。その鍛冶屋敷に憶良が尋ねて来た。人麻呂と憶良とは朱鳥五年(690)の紀国御幸以来の顔見知りである。憶良は人麻呂に大和歌について相談事があると云う。遣唐使の書記として大唐に赴いた憶良は、その地で文化を文字化する必要性を痛感させられた。大唐では宮廷の詩歌から庶民の雑謡や笑談までが収集・採録され、出版されている。対する大和では国風の大和歌が興隆期を迎えているが、その大和歌を収集・編纂すると云う機運は未だない。

憶良はそれを憶良自身がすると云う。そこで、大和歌の第一人者で、高市大王の下、大和の国造りに関わった人麻呂に大和歌の収集・編纂の相談に来た。憶良は「国史に関わる古き大和歌や歌謡は古事記や日本紀の編纂の過程で収集され、その資料は朝廷の内記にある。だが、飛鳥浄御原宮や藤原宮の宮中で詠われた“娉(よば)ひ歌”とも称された求婚歌や恋愛歌をテーマとした歌会の歌の資料が乏しい。特に、その宮中で有名であった人麻呂と巨勢媛との相聞歌の資料は、是非、必要だ」と云う。ついては、宮中の歌会の歌の収集、特に人麻呂と巨勢媛との相聞歌の収集に人麻呂の手を患わせたいとの申し出であった。

人麻呂は了承した。大和歌の類聚編纂を文官系の山上臣憶良が担えば、場合により、朝廷の事業になる。技官系の柿本人麻呂ではそこまでは発展しない。人麻呂は憶良に巨勢媛が残し人麻呂が引き継いだ歌集と人麻呂自身が残して来た歌集の閲覧や書写を許し、人麻呂が国司守として長門国に行き留守をしていても穴師の鍛冶屋敷での書写を認めた。そして、人麻呂は任地の長門国へと帰って行った。

和銅元年(708)三月、長門国大津郡油谷で人麻呂は六年の長門国司守の任期を終えた。任を終えた人麻呂は、その帰京に際し便の良いルートである長門大津から海上、筑紫娜の大津、多田羅浜へ向かい、そこから陸路、香春岳を越え、豊前国京都郡の草野津から難波御津への船旅となる順路を選んだ。

三月十八日、人麻呂は大津から多田羅浜へと帰京の船出をした。

その航海の途中、船は嵐に遭遇し石見国美濃郡小野郷の神山(山口県萩市須佐高山)の荒磯へと流された。そして、そこで難破し人麻呂は水死した。その遭難死の知らせは、四月二十日に藤原京の太政官の下にその遺髪と共に届いた。

官務での死亡の為、人麻呂に対し従四位下の贈位と賻物が降し渡された。そして、人麻呂の死は太政官において彼の本名により「和銅元年四月二十日、従四位下柿本朝臣佐留(猿)卒」と記録された。享年六十二歳。

山上憶良は、人麻呂の死後、和銅五年(713)頃になって人麻呂に陳べた志に従い大和歌を集めた類聚歌林七巻の編纂を畢えた。その後、その憶良の集めた資料は彼の死を看取った丹比真人国人に引き継がれた。そして、その資料の集大成が、万葉集の編纂へと継って行く。

天平勝宝年間になって、丹比国人は左大臣橘諸兄に命じられ万葉集巻一と二の原万葉集の編纂責任を執った。この時、本来あるべき人に誄となる挽歌が奉げられていないことを悼み、故ある歌の中から相応しい歌を択び挽歌として、編纂し奉げた。そして、石見国で海難死し、誰もその死を看取っていない柿本人麻呂に対しても、挽歌に相応しい歌を人麻呂歌集の中から択び奉げた。

鴨山之磐根之巻有吾乎鴨不知等妹之待乍将有

訓読 鴨山し岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹し待ちつつあらむ

意訳 鴨山の岩を枕として死のうとしている私のことを知らないで妻はまっているであろう。


長いエピローグであったが、ここで物語を終える。


参考