力道山とデストロイヤーの4の字固め | 日本の歴史と日本人のルーツ

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子供の頃、学校の休み時間や放課後、いじめられっ子の著者は4の字固めを掛けられたことがある。掛けられると自分では外すことは出来ず、足の関節に強烈は痛みが走った。

テレビのプロレスは娯楽番組でしかなく、どうせ裏取引のある八百長だろう!と考えられるが、力道山とデストロイヤーの死闘を当時の子供達は学校で再現し、とんでもなく危険なものであることを理解していた。

とにかく、エキサイティングな時代であった。


参考

「日本は敵国で憎んでいた。でも恋に落ちてしまった」 デストロイヤーさんの日本愛

文春オンライン(2019.3.18、参考)

門馬 忠雄


“白覆面の魔王”の異名で力道山やジャイアント馬場と死闘を繰り広げた米国の人気レスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名、リチャード・ベイヤー)が3月7日、米国内の自宅で亡くなった。死因は公表されなかったが、実際には老衰であった。享年88。


日本のファンにこれほど愛されたガイジン・レスラーはいない。まぶしかった昭和プロレスのレジェンドだ。

デストロイヤーは1963年5月、覆面レスラー初のWWA世界ヘビー級王者として初来日した。東京体育館での力道山との防衛戦では得意技の足4の字固めを仕掛け、血みどろの攻防を展開。結果は28分15秒、両者レフェリーストップでデストロイヤーが辛うじて王座を防衛した。

両者4の字固めの応酬でスネを痛め、顔面も真っ赤。その凄絶なシーンを、当時として初の試みである天井から吊るしたカメラが捉え、新聞紙上の写真をよりセンセーショナルなものにした。日本テレビの中継放送は視聴率64%をマーク。これはテレビ史上4位の高視聴率である。

「日本は戦争した敵国で憎んでもいた。でも日本と恋に落ちてしまった」

プロレスは社会の合わせ鏡。60年9月から本放送が開始されたカラーテレビの普及で、プロレス興行がパワーアップ、人気に拍車をかけた。

63年といえば、日本初開催となるオリンピック東京大会の前年で、列島全体がお祭りムードに揺れていた。高速道路工事の槌音は日本の高度経済成長のダイナミックな鼓動であった。日本プロレスの総本山、渋谷のリキ・スポーツパレスの界隈は五輪施設が多く建てられ、ブルドーザーの地響き、トラックの往来で、まるで五輪狂騒曲なのだ。

その五輪熱に浮かされた市場にタイミングよく現れ、さらに熱を加えたのが「インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー」だった。

シラキュース大大学院で教育学を学んだ彼は、頭の回転が早かった。アスリートとエンターテイナーの2つの顔を使い分け、テレビ番組「金曜10時!うわさのチャンネル!!」に和田アキ子と出演。70年代、人気絶頂の時だ。

大の親日家であり、「日本は戦争した敵国で憎んでもいた。でも日本と恋に落ちてしまった」とも語っていた。

「モン(筆者の愛称)、ゲンキ!」。今でもデストのお父さんのダミ声が耳元で騒ぐ――。

(門馬 忠雄/週刊文春 2019年3月21日号)