老女の泣いた来福寺
「米福寺など申す寺は山寺ゆえ誠に誠にかべ(壁)はぬけ、湯殿もなく日々御行水等、土間に板渡し青空にて御二一方様あらせられ候御事、雨天には御かさをあけ候て御行水めし候位の御事、誠に誠になさけなく、私共は申すに及ばず、棒を建て、雨ふりには夫へかさを結付風呂焚候 ……」
これは文久三年(一八六三)馬関戦争のとき、長府櫛崎御殿から勝山井田の来福寺に避難された、毛利藩主の奥方に仕えていた腰元の老女が書いた手紙の一節である。
女中だけでも二十二人もおり、六畳の部屋 へ十一人も押込められ、夏のこととてむれきり候とあり、突然、田舎のお寺に乗り込んだ大奥の、脂粉なまめかしいはなやいだ混雑ぷりが、映画の一場面のように想像される。
食事は「三度のたべものは御家老はじめ黒椀に一ぱい、梅干に沢わん二切、女中も同様にて実もってこれには当惑いたし候、誠に何もっての違いんえんやらとあきれはて申し候」と記され、粗末な食べ物に対する女性の恨み言が述べてある。
入浴については、雨天のときには、奥方がかさをさして風呂に入ったとあるが、天気であれば月や星も見え、雨天のときのかさも、風流でいいではないかと思うのだが、大奥の人たちには通用するはずはなく、ただただ誠に誠にこのようなくるしき難儀の事は涙にて困り候と訴え、戦争はもうごめんだという女性の腹立たしさが、ぐちとなって強く訴えられている。
このような老女のぐちを想像して、来福寺を訪れたが、なかなかどうして禅宗の立派なお寺である。
本堂は大正七年(一九一八)に再建され、シノで葺いてあった方丈はトタン葺きに変っているが、それでも当時をしのぶことができ、入口の苔むした石垣や井戸は昔のままであり、以前には当時の駕範(かご)も二通り残っていたそうである。
桜並木の参道に続いて、山門に栗とさるすべり、そして境内には梅、かりん、つつじ、もくせいの大樹が繁っており、老女の涙した難儀な心情をしの ぶには、あまりにも美しく静かなたたずまいであった。
(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)