ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会、近松門左衛門出生地の謎 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)



近松門左衛門のこと 出生地の謎


近松門左衛門は、承応2年(1653年)に生まれたとされていて、今から330年前の人である。ご存じのとおり、歌舞伎、浄瑠璃の作者であり、元禄年間を中心として、江戸前期興隆時代を代表する劇詩人で、あまりにも名だかい人物である。


ルネッサンス(文芸復興または学芸復古)とは、文化の復興を意味する。15世紀から16世紀の間、ヨーロッパ、ことにイタリアを中心とする経済、宗教、文学、美術など、人間生活全般にわたる革新運動で、あらゆる意味において近世史の夜明けとされている。この時代に文芸界に登場してくるのが、かのイギリス第一の劇作家、世界に不朽の名を残したシェークスピアである。


余談だが、昭和のはじめに早稲田大学の坪内逍遙博士の訳によるシェークスピア全集数十巻が刊行されているが、日本でこのシェークスピアとならび称される人で、史上最高の水準にあるものとして、近松門左衛門の名があげられているのである。その近松門左衛門は、本名を杉森信盛といい、通称は平馬、平安堂、不移山人、巣林子という。 


さて、これだけの世界的な文芸者が、だれの子でどこで生まれたかがはっきりしていない。今日の学界でも、てんやわんやと騒がれている。出生地にしても全国で10数か所があげられており県内でも山口・萩・内日・豊田・長門の5ケ所があり、史家がその研究にとり組んでいる。しかし、その謎はいまだに解けていない。


この「近松」のことについては、豊田町史の第五編第8章第2節に「神上寺前の近松屋敷」にある。この記事は、故人となられた史家藤井善門先生の研究であり、たいへん貴重なものである。中央の学界においても高く評価されたもので、以下このご研究を基本として述べてみることにする。


豊浦山神上寺の山門前に、「近松門左衛門誕生之地」と書かれた木の標柱が建っており、木川家の向かいの川に沿って、40坪ほどの宅地跡がある。ここで、わが国の文芸史上不朽の名を残した文豪近松門左衛門が生まれたのである。


(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)



江良の木川家


文豪近松門左衛門の生まれたという40坪ばかりの雑草地がある。この雑草地のすぐ上に木川さん宅がある。木川さんの家は、今から約500年前に神上寺の寺侍として、長府からこの地にこられた家で、地行16石の旧家である。この近松屋敷は、木川さんが大切に管理されていたため、雑草がはえる程度で残っている。


木川家に残っている伝承がたいへん貴重なことになるので、ここで以前に調べさせていただいた木川家の系図を下に紹介しておこう。この系図の最後にある仁太郎といわれるかたが、昭和6年ごろ当時豊田下小学校長を勤めておられた故藤井善門先生に、次のことを話され頼まれた。そこは、藤井先生が神上寺に参詣の途中で、ちょうど木川家の前だったそうである。仁太郎さんは嘉永元年生まれだから当時(昭和6年)84歳。


その仁太郎さんが言われるには、「私が2歳 (安政6年ころ) のときに、父親(機平)が西市で催された、国性爺合戦の芝居を見に連れていってくれました。そのとき、父親がこの芝居はうちの前で生まれた人がつくった芝居だよ、と話して聞かせました。この近松屋敷は、近松門左衛門さんが生まれられたところといって、私の家に古くから言い伝えられ草がはえるまま荒地にして保存しています。まちがいなく近松門左衛門さんが生まれたところですから、先生のお力でなんとか碑を建ててもらうようにご心配くださいませんか。」との話をされたそうである。


当時、藤井先生は30歳の青年教師で、この方面のことにはうとく、また、まもなく遠方へ転任されたので聞きとどめるだけになっていた。しかし、何年か経過して、あの話はほおっておけないことだと思い起こされて、この研究に力を入れられたのである。


(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)



東福寺本尊阿弥陀如来座像


では、この東福寺が創建されたのと同時につくられたと思われる、御本尊阿弥陀如来座像の仏様について述べることにする。阿弥陀如来像は、木像の座像で、高さが57.cm(約2尺)ある。この仏様の背中の中央部に、「大願主住持権少僧実秀、奉造長州豊田郡鷹子郷東福寺本尊阿弥陀佛一鉢仏師大藏法眼祐全作之享徳二年癸酉」とはっきり書いてある。


これをもう少しわかりやすく書くと、寺の当時の住持に実秀という人がいて、この人の代の時にこの仏像がつくられた。しかも、享徳2年癸酉とあるから、1453年(529年前)の2月5日にできあがったもの。この仏様を彫った人は、大藏法眼祐全これを作るとあるので、仏師の名前まではっきりしている。このように、製作年代まで書き残されているのはまれなことで、数多い仏像のなかでもそうあるものではない。そうしたことからも貴重なものである。


これを鑑定してくださった専門の先生によると、「細かい頭髪や、面長であご細りの面相、衣の彫りなどからして、室町時代の特色がよく現われている。素朴な地方作で、職業仏師(彫刻の専門家)の手によるものではないが、防長彫刻史の基礎資料としてもりっぱなものである」との所見であった。こうしたことから、昭和54年度に本町の文化財として指定された。


それにしても、大昔に東福寺はなくなったが、鷹子のみなさんが阿弥陀堂を建て、この御本尊を守りとおしてくださったことは、たいへんありがたいことである。最近になって、先祖の残してくれた歴史を守ろう文化財を大切にしようとの呼びかけがさかんに行なわれているが、文字どおりそれに応えてくださったもので今後も大切に保存をお願いするものである。


(ふるさとのこぼれ話 豊田町文化協会)


(彦島のけしきより)