馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所、その7 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

光明寺の墓場

「増富の広場」の上にもう一つ私達の広場があった。それは光明寺の墓場である。この墓場で私達はよく「鬼ご」をした。身軽な者になると墓から墓へと小鳥のように飛ぶのもいた。花立や線香立を壊したことは再三であった。

少し動くと汗ばむころのことだったので桜が散ってのちのことだと思う。みんな着物をぬいで一カ所にまとめ、シャツ一枚でいつものように「鬼ご」をしていると悪いことにはそこに今から言えば先々々代にあたるアゴひげの生えた御院主さんが現われてわれ鐘のような声で一かつあびせられた。

私達は驚いてそのまま夢中で街に逃げたが、肝心の着物をみんな取上げられた。お寺では断りに来なければ着物は渡さないという。このまま家に帰ればもちろん両親から大目玉だし、とうとうジャンケンの結果私とも一人の二人が負け、泣く泣くおわびに行ってやっと着物を返してもらったことがある。

夏の暑い晩は今でいう試胆会をよくこの墓場でやった。本堂わきから丸山へ抜ける間の墓場を明りもつけずに通り抜けなければならなかった。その途中「八幡のヤブくぐり」のようにいろいろ伏兵がいておどかされた。これが無事通れたら次の伏兵になる資格が出来るのだが、私は遂に一度も通れなかった。

梅雨あげくのあるむしむしする夜だった。今から試胆会がはじまろうとした時たれかが、火の玉だと叫んだ。正しく上を見るとリンのような薄ぼんやりした火の玉が漆黒の暗空にくらげのようにフワフワと泳いでいた。

「それ追っかけろ」というので、みんなそのあとを棒切れなど持って追ったが、火の玉はくずれそうでくずれずなりに東の方へ流れて行った。それが結局隣町内の入江の角輪組という家の向う隣りあたりでスーツと消えた。

角輪組の隣りの家は昔から大黒柱が逆さに立っているので幽霊屋敷と聞かされていた。私達はその幽霊屋敷とこの火の玉のゆくえとを結びつけてもっともらしくいろんな怪談に結びつけてみた。それからのち、一、二度光明寺の火の玉を見たが矢張り同じ場所の上で消えた。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


海水浴の数え歌

私は親から止められていたので海水浴には行けなかった。何でも、私の年まわりからいくと水難の相があるらしく、一人息子に目のない両親から海にはきつくやかましくいわれた。

私が幼稚園にはいる前の年のことであった。あまり友達が誘うのでちょっとぐらいはいいだろうと思ってコッソリ海につかってみたところ、どうしたはずみか耳に水がはいった。

それが悪かつて中耳炎となり、小学校を出るまでわずらいつづけた。こんどは医者からも海をとめられたので、私も遂に海水浴を断念しなければならなかった。

しかし、夏ともなるとみんな友達が海に行くので、ついさびしくなってよく人が泳ぐのを見に海辺に出た。泳げない私が何かあわれなような気もしたが、泳いではいけない私の体を考えるとそんなにさびしくもならず、結構なぎさで楽しく遊べた。

一人々々が一と節一と節うたっては海に飛び込む歌があった。それは数え歌の形式のもので、歌詞は今でも覚えているが、非常に内容がみだらなるのだった。

ハタから聞いていても気はずかしいような歌だった。それを平気でうたいながら五、六人がドブンドブンと次々に海に飛込んでは上り、また次の歌をうたっては海に飛込んだ。壇之浦、亀山下、三百目、伊崎と、その場所々々でいくらか歌詞は違ったが、大体同じものであった。

ところで、伊崎では、その町に住んでいる人の名を数え歌に仕組みャュした歌が別にあった。それは

一で稲八マメヒコさん
二で新久、たぬきさん
三で佐野屋の竹おじん
四で四福寺のマラかつぎ
五ッ伊予三伝おじん
六ッ村新番頭さん
七ツ中庄鼻庄さん
八ツ山本白髪じい
九ツ神戸屋 雪見さん
十で豆腐屋のチョロムケさん

で、この歌などはまだまだ品のいい方だった。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


町内けんか

竹崎から観音崎にかけて小学校の上学年生の間で義勇団のようなのが出来ていた。そのうち観音崎が一番軍隊的であった。そのころ西細江と竹崎が一番仲が悪かった。いいかえれば王江学校と関西学校がいつもにらみ合っていた。

ある日、王江の生従が竹崎の街を歩いていると、関西の生徒がこれを侮辱した。立腹した王江の生徒は今度は関西の生徒が細江の街を歩いているのを見てこれを口ぎたなくののしった。こうしたことから双方の少年団が立ち上り、遂に両町のけんかとなった。

それも小学生だけでなく高等小学の生徒までおのおの応援に加わってその数は合せて数百にも上った。針金を仕込んだ竹刀を振り、割木を握り、木刀を携えて豊前田目がけてトキの声を挙げて進んだ。

衝突したのは大体今の富成酒店の線で、本通りと海岸通りでせり合った。最初は細江側が有利で可成竹崎側を圧迫したが、後半勢力を盛り返えした竹崎側は遂に豊前田と細江の境界線になだれ込んだ。

この騒ぎに驚いた親たちは必死で間にはいった。警察も来た。そこでやっとこのけんかは一応引分けとし、明朝両町の少年代表が警察に呼び出されて仲直りをすることが出来た。

このけんかでコブをつくったり、かすり傷を受けた者もかなりいた。私は行動を共にしないとあとが恐しいので、こわごわうしろの方をついて歩いた。

それからのち、細江は丸山町の日和山の少年とけんかし、また入江町ともやった。日和山には地の理を得なかったので惨敗したが、入江とは決戦直前に水がはいってお流れとなった。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


地雷工兵

「地雷工兵」という遊びがあった。おのおの、白、黄、青のうちヒモを肩にかける。赤は地雷、白は工兵、黄は騎兵、青は曹長。

地雷は工兵には負けるが騎兵、曹長には勝ち、工兵は地雷には勝つが騎兵、曹長には負ける。騎兵は工兵には勝つが地雷、曹長には負け、曹長は工兵、騎兵には勝つが地雷には負ける。

こうして双方陣地をつくり、約二十人ずつが同じ数の役を定め「進撃」の合図とともに一せいに陣地から飛び出す。「進撃」が「開戦」と変ったのはそれからのちのことであるが、戦いが始ると双方接近して自分より弱い相手の体にさわろうとする。

白が赤に触れれば赤が倒れ、赤が黄や青に触れれば黄や青が倒れ、黄が白に触れれば白が倒れ、青が白や黄に触れれば白や黄が倒れていく。こうして生き残った者が少しでも早く敵陣にふれた方が勝利となるので、その時には必ず「万歳」と叫んだ。

これは広場や裏山だけではなく、街中でもさかんに行われた。そしてその都度 さわった、さわらない。で必ず小ぜり合いとけんかが起きた。しかし、お定りのようにいつももめるこの「地雷工兵」は一向やみそうもなく、私のすぐ近所の糸屋はうちヒモを買うためにいつも大繁盛を続けた。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


盆おどり

昭和の声を聞いてからは馬関の盆踊は伊崎を除いては大抵すたった。しかし、私たちの子どものころは、明治初期ごろのにぎやかさはなくとも、それでもまだまだ各町内でうら盆を中心にしてさかんに踊られた。特に、伊崎、壇之浦、竹崎、今浦、園田、入江、奥小路、田中、丸山などは依然として衰えず…といっても、私の住んでいる西細江ははじめからやぐら一つもなかった。

私が初めて盆踊を見たのは竹崎の大歳神社下の広場…つまり今の駅ガード下付近であった。私の母が竹崎から来ていた関係で私はよく母の里方に遊びに行った。ある年の盆の一日であったが、毎年のように母と一緒に仏さんまえりをした帰り道、偶然ここで盆踊を見た。それから、その次に見たのが素倉祭の夜だった。竹崎のは地元の人が中心だったが、素倉の方は主に入江の人達だった。

今でこそあの口説は何だーと一応わかるが、あのころはただ踊り子の「ヤートエソレヤートエノエルとか、あらどっこいどっこい」といういれ言葉しかわからず、今でこそあの三味線は上調子とわかるが、あのころは何かカン高いいらいらする調子だとしかわからず、それにまた、今でこそあの太鼓の打ち方は「コマゴト」とか、「曲打ち」とかいうことはわかるが、あのころはただ面白おかしくたたく太鼓の乱れ打ちにわけもなく感心した。

踊り子の服装は一体にゆかたに赤緒ぞうりが多かったが、中には鳥追い姿のや面をかむったのもいた。特に私と同じ年ごろのが大人の中に混り、小さな手足をあの急テンポの階調に合せながら、三歩進んでは二歩さがる踊りの定石通りに踊っているのを見ているとツイ自分もあの踊りの輪に飛び込みたいような衝動にかられた。

しかし、とても大勢の大人の中にはいる程の勇気もなかったし、また、はいっても踊れる自信もなかった。よしんばまた、私に踊れる自信があったとしても私の両親は決して私を踊らせなかっただろう。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


茶山人形のこと

茶山人形を子供のころジカに楽しんだ人は、今は六十を越した人だろう。

この人形は福岡県鐘崎の大浜庄三郎が下関茶山で明治三年にはじめて作り出したもので、五月の武者人形を主としてヒナ人形、えびす、大黒などを下関を中心にして県下はもちろん、山陰、北陸にまで売出した。

庄三郎亡きあとはその子源次郎、三吉兄弟が業を継ぎ、日清戦争ごろを全盛として明治三十三年に絶えた。従って、私達が子供のころはすでに製作が絶えて十数年にもなっているので、街のおもちゃやでこれを見る術もなかった。

それは私が小学校にはいるかはいらないころの端午の前のことだった。母が、私のために一年間しまいこんだ端午の飾りを今年もまた床の間に飾るために二階の納屋にはいった。私も母に連れられてはいった。一つの大きな箱から具足や矢ぶすまや武者人形やいろんなものが出た。

私は今年もこれが飾られるかと思うとやはりうれしかった。ところがその隣の古い箱をふとのぞくと、その中には大きなのは二尺五寸くらいから小さいのは一尺くらいのを合せてかれこれ二十個ばかりの古ぼけた土人形がごろごろとはいっていた。

だいぶこわれたのもあった。これ何かね。私がそう尋ねると、母は、これはもうダメダメェーといった。私はそれ以上問いもせず、また重ねて問うこともなく、母と一緒に必要なだけのものを納屋から出して飾った。

それから何年かのちのある年のことであった。母が父と相談して、もうこの人形捨てよう。ということになり、私はその時はじめてこれが加藤清正であり、これが桃太郎であり、これが何であると手に取ってみてわかったが「汚い」という感じだけで少しも捨てて惜しみはかからなかった。そしてその時はじめてこれが茶山人形ということも知った。

それから私は成人し、いつの間にか 郷土玩具に興味をもち、特に地元にあった茶山人形に心ひかれたが、今更あの時捨てた人形はどうにもならなかった。それから私は、四、五年もかけて、市内の道具屋などでやっと十数個の茶山人形を手に入れたが、それも戦災でみんな焼いた。

戦後、友人の好意で今たった一つ「静御前」を入手することが出来たが、ときどきそれを見ていると、かつて両親と一緒にこわしたあの時の数々の人形のことが思い出されてならない。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


淡路人形芝居と父

淡路の人形芝居がよく来た。これは縁日にやるのではなく毎年農閑期淡路島の人形座の者が四国路から中国筋を打って歩いたものである。もちろん小屋がけではなく、大抵街の角々でやった。

私の近所ではいろは通りの二軒西側の家が表が広いのでいつもそこでやった。三人連れが多かった。大きな「つづら」を六尺に振り分けて担いで歩いたが、ここに来ると六尺をはずし、外題によってその「つづら」から人形を取り出した。

ほぼ等身大の人形であった。決して美しい人形だとは思わなかった。手足がブランと下り、着物は着古し、顔は奇怪で、ものによっては髪はシュロか何かのようにバサバサした感じだった。

しかしながら、いざ三人が呼吸を合せて人形を操りはじめると、うまいとも下手ともわからずなりに何かおかしさが先に出てなかなか終りまで立ち去りにくかった。

~あらわれ出でたる武智光秀と、大きくどなった声が今もって忘れられない。厚いまゆげをカチカチと上下に動かして首オケの首をにらんでいる恐しい侍の顔が今もって目につく。

あとから分ったのだが、これが「太功記十段目」であり「寺子屋」であった。父の道楽は俳句と川柳と浄るりであった。特にちょっと酒がはいると必ず浄るりであった。

よそで一杯飲んで帰ると、私はすぐ気を利かして床の間の前に座布団をしき、その前に見台を置き、見台の上には必ず「三勝半七」のさわりのくだり、すなわち、今ごろは半七様どこにどうしてござろうぞ…」のところを開いておくと、父は非常に喜んでアゴをひねり、目をつぶって語り出す。

私は母のそばに座り、そのうしろに不気げんな女中も座らせて如何にも感心したような顔をして聞いた。こんな晩は私の子供のころ幾回となくあった。淡路人形にしろ、この父の「三勝」にしろ、小さいときからそうした機会が多かったことが、私を今のような芝居好きにさせたのかもわからない。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


水中花

私達の遊びとしてはまだまだいろいろあった。鉄輪やオケのタガを転がす、「輪回し」、海に出て小石を水面すれすれに投げて、水面をバウンドつく数で勝負を決める「水切り」、それに鉄砲類では「水鉄砲」「紙鉄砲」「杉鉄砲」「豆鉄砲」「パチンコ」。

正月の「みかんつり」や「双六」、春の「茎切り」、夏の「セミとり」と「ほたる狩り」「花火」と「しゃぼん玉」、秋の「虫とり」と「とんぼつり」、 冬の「雪投げ」と「雪だるま」などなど。

だが一方、縁日には縁日で、またいろいろのおもちやや見せものがあった。おもちゃでは「亀山のちょんべーはん」「コッペン」「紙へび」「ぶんまわし」「半弓」「吹き矢」などがそれで、その中に一つ「水中花」というのがあった。

これは今でも無いとはいえないが、よく昔は夏祭りの沿道の店屋に出た。細工をして丸めた紙を水中に入れると、自然に拡がってみるみるいろんな形の花が開くしかけになっていた。

亀山さんの夏越祭に行くと裏参道の脇で相当年をとったおじいさんが、どこにもあり、ここにもある品とは違う。わしがこしらえてわしが売る。ちょっとこれが坊主になつて花になる。

坊ちゃん、嬢ちゃん方のおなぐさみ、酒の席などで座興にと繰返し繰返しおらんでいたのを思い出す。
アセチレンガスのにぶい光のもと、あやしいほどに美しい「水中花」であった。

いろいろ買ってもらって、家の廊下を水だらけにして楽しんだのも、私が小学校にはいるかはいらないころのことであったろう。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


こま

コマは高麗伝来のがん具というところから昔は「こまつぶり」といっていた。私達が遊んだコマには「ぶち独楽」「源水独楽」「竹独楽」「ちんちん独楽」「博多独楽」などがあった。

「ぶち独楽」は一名「ぶしよう独楽」「叩き独楽」「どんぐり独楽」などといった。シンがなく、胴は長く、底がとがっていてヒモで胴を打ちながら回した。

「源水独楽」は江戸浅草の松井玄水の曲ゴマに用いられたのがはじまりで「玄水独楽」とも書いた。シンが非常に長かった。街頭でも独楽の曲まわしをするのがいたが、これは大抵この源水独楽であった。

「竹独楽」は「ぶんぶん独楽」ともいい、竹べらを利用して竹筒で出来たコマをヒモでまわすとぶんぶん音がした。「ちんちん独楽」は極く小型の直径一寸くらいのもので鋳物で出来ていた。

非常に愛敬があって面白かったのでよく遊んだが、やはり一番多く使ったのは「博多独楽」だった。このコマは一番小さいのを「ゼロボチ」といい、大きくなるにつれて「一つボチ」「二つボチ」「三つボチ」といい、一番大きいのを「六つボチ」といった。

勝負に勝つために、鉄輪を二重にも三重にもはめたが、一番厚くはめる場合は「ゼロボチ」のコマにして七重になる勘定である。ヒモを巻いて回したが、シン棒に狂いがあれば「ガル」といい、狂いのないのを「スム」といった。

近所に「はりまや」 という古いおもちや屋があったが、冬のコマのシーズンになると、私達は毎日のようにそこの店先に行き、スムコマを選って帰っては、例の如く裏山の「増富の広場」に行った。

コマにはまだ他に「ごまの木の実」「どんぐり」「ばい」など木の実や貝殻をそのまま用いたのもあったが、これは滅多に使わなかった。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)


丸パッチン

子供の時のたべものから、その次に思い出されるのは、子供の時に何をして遊んだかということであろう。

女は子守唄、お手玉、羽根突き、あやとり、おはじき、十二竹、なわ飛び、手マリ、おヒナ祭といろいろあったが、男は男で、竹とんぼ、竹馬、端午、亥子餅それに親倒し、かくれんぼ、鬼ご、兵隊ナンゴなど女以上に遊びが多かつた。

しかし、そんな遊びの中で私がすぐ思い出すのは「バッチン」である。「パッチン」は大阪では「パッチ」といい、関東では「メンコ」というが、下関では一名「ブチ」ともいった。

「パッチン」の言葉の起りは、これをもつて地上や板間などに打ちつけると「パチン」と音がするところから来ているが、これを「ブチ」というのは「ブッ」…つまり「殴りつける」というところから来ているのであろう。

「パッチン」の型にはいろいろあった。普通一寸と一寸五分くらいの長方形のものが多く、ボール紙をシンにして、その上に紙をはり、その表には大抵武者絵が書いてあり、裏は大将とか少佐とか、または、石、はさみ、フロシキなどと書いたのがあった。

また、丸型の「パッチン」もあったが、それは直径が五分くらい、やはりシンはボール紙で、ふちにロウがぬってあり、表にはいろいろの風俗絵が描いてあった。

角パッチンは今の子供も遊んでいるように、おもに互いに打ち合って相手のパッチンを裏返しにした時、これを取り合うのだが、丸パッチンはおもにロウのついたふちに親指と人差指をかけ、強く前に飛ばし合い、遠距離に飛んだ方が勝になった。

私はその「丸パッチン」を集めるともなく千二百枚もよせた。これはこの近所では珍しいことであった。私の収集癖は既にこのごろから芽生えたらしく、成長するにつれて、映画のプログラムを集めたり、おもちゃを集めたり、芝居の本を集めたり、版画や焼物を集めたりした。

この点で「パッチン」は私にとっては一番思い出深いものになった。

(馬関少々昔咄亀山八幡宮社務所)

(彦島のけしきより)


参考

光明寺下関市細江町1丁目7−10

光明寺の墓場