飛鳥大仏、ほぼ飛鳥時代のまま | ネコ好き☆SHINACCHI blog

飛鳥大仏、ほぼ飛鳥時代のまま

2012年9月21日(金)の朝日新聞夕刊に、「飛鳥大仏はほぼ飛鳥時代のまま残されていた」という趣旨の記事が

あって驚かされた。

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(2012年9月21日 朝日新聞夕刊)


飛鳥大仏、ほぼ飛鳥時代のまま 早大、銅の比率分析

 日本最古の金銅仏とされる飛鳥大仏(奈良県明日香村)は、大部分が飛鳥時代の造立時のものと判断できるとの研究結果を、大橋一章(かつあき)教授(美術史)ら早稲田大学の研究チームがまとめた。これまで、鎌倉時代に火事で壊れ、当初のままなのは顔の一部と右手だけとされてきた。
 研究チームは7月、X線複合分析装置を持ち込み、銅の比率など大仏の金属組成を調べた。その結果、飛鳥時代とされる部分と、後世の補修とされる部分には違いがなかった。鋳造専門家も調査にあたり、銅の継ぎ目があることから、複数回に分けて銅を流し込んでいたとみられることがわかり、奈良時代以前の技術と判断したという。
 飛鳥大仏は高さ2.75メートル。日本初の仏教寺院・飛鳥寺の本尊として609年に完成したとされる。鎌倉時代の1196年に飛鳥寺は全焼し、約40年後にまとめられた書物には大仏は頭と手しか残らなかったと記されていた。明治以降の研究では、その記録が前提となり、大部分は後の時代の補修で造り直されたと考えられてきた。そのため国宝ではなく、重要文化財にとどまっている。
 だが、造り直されたとされてきた衣類の部分は飛鳥時代の様式。火事で残ったごく一部を生かし、造り直すことが可能なのかといっだ疑問があった。大橋教授は「聖徳太子の時代に造られた日本最古の金銅仏がほぼそのままで残っていたことが確認できた」と話す。(2012年9月21日 朝日新聞夕刊)

私は、1977年に久野健先生の講義を1年間、拝聴したことがある。

その時、久野先生は、飛鳥大仏について「飛鳥大仏は、顔と右手指だけが当初のものと言われているが、自分が

今回、実地調査したところそれは間違いで、膝前の部分のほか、当初のものがかなり残っていることが判明した」

というお話をされていたことを覚えている。

あの興福寺でさえ、頭部だけになった東金堂の本尊(旧山田寺・仏頭)を復元することはできなかった。

ましてや衰えた飛鳥寺が、頭の一部や、指だけが残された状態から、あのように大仏を復元できたとは考えにくい。

実際には、かなりの部分が残されていたのではないか、というような内容であったと記憶している。

その久野説が、その後どのように評価されたかは知るよしもない。

が、今回、ポータブルな装置によるとはいえ、蛍光X線やX線回折といった分析手法により、大部分が飛鳥時代の

造立時のものと判断されたということは、当時の久野先生の説の正しさが証明されたということなのだろう。

飛鳥大仏にとっても、久野先生にとってもめでたいニュースである。


明日から旅行(海外、6日間)するので、ブログはしばらくお休みします。