20週4日 平成24年1月6日 午後3時38分
赤ちゃんはお空へ逝きました。



忘れられない お別れの日を そのまま書きました。




毎日、心音エコーを確認しいまだ少ない羊水で
不安に感じながらも、尿道バルーンが気になって
緊急入院から1ヵ月後に新しい尿道バルーンを入れ替えることに
とても気持がブルーになっていて、主治医へ
「次回はバルーンを外してほしい」とお願いしていた。
大の方はトイレに行っているし、尿の方も気をつけるのでいいのでは?っと思いながら
バルーンにストレスを感じていた。



とりあえず、主治医が内診してから考えましょうということで
1/5の夕方にT主治医の内診が久しぶりにあった。



前回の担当医の内診で、膜がなくなっていたかも?ということだったので
今回はどんな状況なのか、不安であった。
主治医が、うかない声をだす。



え・・・なんだろう・・・



「子宮口から赤ちゃんの膝がでているな・・・うーん。」
子宮口の写真を撮っている・・・

「膝がでているし、膜がやぶけている。子宮口も2~3センチ開いているかも」
「きびしい状態です」と告げられた。




言葉を失った。



お腹のエコー、まだ心音はうごいてる。



でも、もうかなり厳しい状態で、もたないとの見解だった。




その日は、たまたま主人が明日1/6に行けないから
今日の夕方にDVDの返却分を取りいくとメールがあった。




私は主治医に
「主人が今日これからくるので、その時また詳しく状況を教えてください。」と話した。
それ以上何も話したくなかった。




1/5はちょうど、お隣さんが午前中に退院して、2人部屋も個室状態。
車椅子でベッドへ戻り、主人がくるのを1人で待っていた。
夕飯のインスリンもして、食欲ももちろんない。




17時半ごろ主人が病室へ、DVD返却を渡し、「先生が大事な話があるから」とだけ
話し、それ以上私は主人に話すことができなかった。

主人も「大事な話って・・・それってよくないことだよね。」っと




1時間くらい経ってカンファレンスルームへ呼ばれる。
主治医の先生と病棟でいつも診てくれた担当医師が2名
PCで子宮口の現在の写真と状況の説明がはじまった。




主人は冷静だった。私も言葉を失いながら、説明をきいていた。

このままの状況でも助かる可能性はない話だった。





今後の処置の話になる。




私は「子宮頸がん」で子宮口を縛ってるので、流産の場合は開腹手術の予定であったが、
状況は膝がでて、子宮口が2~3センチ開いてゆるんでいる。



今の「張り止め」「抗生剤」の点滴をやめれば、おそらく自然に陣痛がおこるでしょう。
そしたら、開腹手術はせずに赤ちゃんは出てきて、お母さんには負担がないと思います。
陣痛が弱い場合は、陣痛促進剤を少しづつ投与し、様子をみて薬をふやし
子宮の収縮をうながし、赤ちゃんがでてくるようにします。



それでも出てこないときは、麻酔をして子宮内膜掻爬(そうは)術・・・・
カンシでかき出すことになると。。その時は赤ちゃんはきれいな状態では出ないと。。



「処置はいつにしますか?」という話に



主人は


「もうダメなら一日でも早いほうがいいからすぐにお願いします。」と。

私も、「少ない羊水で赤ちゃんが苦しんでいるのなら・・・」っと言った。




1/5今夜から点滴を外すことなった。




話がおわったのは19時すぎ、主人にしばらくいて欲しかったけど
ワン達の散歩やエサもあるし、甘えてはいられなかった。

私は「姉に連絡して明日は来てもらうから、もう大丈夫」と言った。



主人は「もうそんな落ち込むな。しょうがないよ。」「明日大変だけど頑張って。」
「もしも私が大変な状況になったらすぐに連絡くれよ。くるから。」っと話し、
ワン達も心配だったので早々帰宅したもらった。



19時の間食(おやつ)もちろん、食べれるわけない。



準夜勤の看護士さんが、21時血糖チェックきて、
今の私の状況も既に知っていた。
2つの点滴もはずされた。




血管がほそくて点滴も何回も射されて嫌だった・・・
それが自由な身に・・・複雑な心境だった。




看護士さんが、落ち込んでいる私に気遣ってくれて、今の気持を聞いてきた。




私は、赤ちゃんがもうダメなんだという悲しい残念な気持と
それ以上に陣痛の痛みが・・・こわい・・・っと気持があって
今点滴をぬいて、これからどれだけの痛みがくるのだろう・・話した。



また、陣痛促進剤は効果はどうなのか、どのくらいで赤ちゃんがでてくるのか、
やっぱり開腹して赤ちゃんを出せないのか、などいろいろ尋ね、
今の心境と心配事をすべて聞いてくれて、答えてくれた。




産科としては当初から流産するためだけに開腹手術は避けたいという考えだったので
このまま明日、子宮口がもう少しゆるんで赤ちゃんが出てきてくれたら
私には負担もなくベストな処置がおわることができるっと願っていたらしい。




21時の消灯をきて、1人っきりの部屋で赤ちゃんとの最後を振り返り過ごそうと思った。



つわりで、きつかった日々、


赤ちゃんキーホルダーをつけて頑張って仕事へ行ってたこと。


妊娠糖尿病になってしまって、食事制限日々、


つわりも終りかけなのに味覚がない日々、


緊急入院で寝たきりとなり、赤ちゃんの心配と家のわん達、主人、お金の心配の日々、


安静で自由がなくでイライラしていた日々、



つわりが辛くて、もう妊娠なんてしたくないと思ったこともあった・・・




私はいいママじゃなかった。




ごめんね・・・・本当にごめんね。




お腹をさすながら、赤ちゃんと話していた。




涙がとまらなかった。




姉に明日のことでメールし、その後電話する予定だったが、
すぐに姉へ電話できなかった。



22時すぎに気持を落ち着かせ電話した。姉も落ち込んでいた。
姉は1/5の昼に病室へきて、足のマッサージしてくれて
これからの生まれる甥っ子の話しなど楽しく話していたから、とても辛かったのだと思う。
その姉に心配はかけたくなかった。


ぐっと気持をこらえ1/6の予定を話し、
10時ごろまでには来てもらうように話した。




その後も眠れない夜がつづき、悲しい気持と陣痛のこわさで緊張していた。

夜勤の看護士さんが、様子をみにくるだびに、私は「怖くて眠れない」っと言っていた。



明方4時ごろ、下腹部に鈍痛を感じた。お腹は張っている感じがした。

5時になったら、鈍痛が数分ごとにくる。まだきつい痛みではない。



でも数分ごとに陣痛きたら、ナースコールを呼ぶことなっていた。
術着にきがえ、車椅子で5階の陣痛室へ
ドキドキしてきた・・怖かった・・



陣痛室で血圧を測り、ベッドでしばらく様子を見ることに。
下腹部の鈍痛が少しづつ強くなっていく、でもまだガマンできる痛みだ。
でも、緊張して怖い・・・心細くなっていた。



姉が7時きてくれた。「こんな早く来てくれて・・」少し気持が落ち着いてきた。



担当医の先生もきて、内診をすることに、陣痛室のとなりの処置室へ移動し
内診エコーする、子宮口から、もう片足がでているらしい。
ああ、やっぱり・・・このまま出てきてしまうのか・・



その後、また陣痛室のベッドで様子を見るが、陣痛が弱くなったので
また処置室へ移動する、主治医のT先生が内診エコーでみながら
状況説明する、内診がとても痛い、陣痛促進剤を1つ投与することになる。



子宮口の下の溝のふちあたりに置くのだが、指を奥まで突っ込まれ激痛がくる。
その後、陣痛室のベッドへ戻らず、処置室の寝台のまま陣痛を待つことに
姉も処置室へきてもらって、そばで一緒に寄り添ってくれた。



じょじょに下腹部の鈍痛、痛みの感覚が強くなってきた。
その度に、看護士さんがお腹や足をさすり、手をにぎってくれた。
痛みが強くなったきたら、姉は退席して廊下で待ってもらっていた。



いままで経験したことない痛みだった。
あまりに痛さに少し痛みを緩和する薬を点滴することになった。

眠ってしまうくらいの痛みどめは陣痛がとまってしまうので使えなかった。
緩和する薬は若干の痛みをボーさせてくれたが、やはり痛みはつづいた。



途中の内診エコーで赤ちゃんは胴体まで出てきていた。



T先生は「心音は止まりました。」っと私に伝えた。



痛みの涙と一緒に悲しみの涙があふれ、涙がとまらなかった。




「このまま、もう少し様子を見ましょう。ただ、赤ちゃんの頭は4センチくらい
だから、子宮口が2~3センチで出てくるかわからない。」っと。



数時間の激痛がつづく、また先生が内診エコーの状態をみる
「アゴのところまで出てきた。でもこれから先が大きい頭だから出てくるか、どうか・・
でも、もう少し頑張ってみましょう。」っと



さらに強い陣痛で押し出される赤ちゃん、やはり子宮口がこれ以上開かない。
私はあまりの激痛にもう眠らせてほしいと意識がもうろう中訴える。
先生も、内診して「もう、これ以上は頑張ってもムリだろう・・出てこない。」



「赤ちゃんも心音は止まっている、カンシで頭を小さくし出すしかない。」

私も激痛で「もう眠らせて・・・」「はい。いいです・・・」っと泣きながら伝えた。



麻酔とは言っても、体外受精の採卵のときに麻酔と同じと聞いた。
でも、私はすぐに眠りにはいり、耳から音や声がきこえる・・




気づいたときは処置室の寝台で全てが終っていた。




お腹をさすっていた看護士さんに「赤ちゃん、見ないほうがいいかも。」っと。
私は衰弱していたので、「うんうん」っとうなずき、



そのまま車椅子へうつり、4階の自分の部屋へ移動した。
姉2人も私にずっとつきそって、何時間も廊下で待ってくれた。



11時間経っていた。



点滴もはずされ、尿道バルーンもなく、体の痛みも何もなかった。
姉ふたりも、悲しい顔することなく、気遣ってくれて世間話や
主人へメールや電話など状況を伝えてくれたことなど話してくれて
いろいろと励ましてくれた。「辛かったけど頑張ったね。」っと。。



主人は22時には来てくれることなっていた。



17時の夕飯も1600カロリーの食事から、通常食へ変わっていて
食事は豪華な感じだった。
姉が心配するといけないと思ったので、ゴハン以外のおかずは食べた。




血糖チェックも食後2時間後は「ナシ」になり、



何もかもが、全て変わっていた。




姉も何時間も待っていてくれて、申し訳なかったので面会時間の19時には帰宅してもらった。


その後、担当医がすぐにきて、「お姉さん達、帰宅したんですか?」っと。

何かあるのか聞いたら、死亡診断書と、葬儀屋さんの件だった。



処置室にある赤ちゃんを霊安室へ移動するのに提携している葬儀屋さん○○にそのまま頼むか、
私の方で頼むところがあるのか、本日中に決めて欲しいとの話だった。



私は義理母が5年前に亡くなった際にお世話になった葬儀屋さんに頼みたかったので
すぐに電話し、対応もすぐだったのでそちらへ頼む話しなど、いろいろ気丈に看護士さんと
話していた。


主人が22時にきてから葬儀屋さんに頼むと遅くなってしまうし、私がその前にいろいろ
進めておかないと・・っと普通にしていた。



いままで安静で歩けなかった、病棟の廊下、トイレ、なんか・・・いいのか・・・私。




葬儀屋さんの最後の打ち合わせ中の電話で
担当医の先生が、一礼し「死亡診断書」をもってきた。

私も先生に一礼した。



ベッドの袖机に「死亡診断書」が置かれてあった。



電話を終えて、あとは主人を待つだけかと・・・その「死亡診断書」を見た。。



「体重 58グラム、 身長 不明」



不明か・・・そうか、バラバラになっちゃったんだ。。
体重 58グラム・・・なんて小さいんだろ。



私、なんでこんなに元気なんだろう・・



どこも痛くない、



ああ、私は痛みに耐え切れず、頑張れなかったから、
赤ちゃんがバラバラになったんだ。



私だけ、なんで・・・赤ちゃんばかりに辛い苦しいことばかり背負わせて・・

緊張の糸が途切れたのか、興奮し涙が止まらなくなった。。



看護士さんがしばらくして私の様子を見にきた。




私は看護士さんの前で涙をながし、子供みたいに号泣してしまった。


赤ちゃんをバラバラしちゃったのは私が頑張れなかったからだ、
私ばかり元気で、赤ちゃんが可哀相だ、


バラバラでも、どこでもいいから、一目赤ちゃんを見たい、
手でも足でもどこでもいい、最後に赤ちゃんを見たい・・・っと
取り乱し泣きわめいた。




看護士さんは霊安室で、白い布につつまれた赤ちゃんを抱っこすることしか
できないと言っていたが、私の気持ちをわかってくれて
担当医にそのことを伝えて、見せてくれると約束してくれた。




22時前に主人がきて、私があまりに憔悴しきっていたので驚いていた。
泣きながら赤ちゃんが出てくるまでの話をし
赤ちゃんがバラバラだけど見せてもらう話しをして
霊安室へ呼ばれるまで、なんとか落ち着きをとりもどし
主人と静かにその時を待った。




22時すぎに看護士さんから呼ばれて、霊安室へ
主人に支えられながら、看護士さんと葬儀屋さんへ誘導され向った。

霊安室は一度病院の外をでた場所へあった。



霊安室へつくと、小さな棺が私達を待っていた。
担当医が「少し待っててください。」と言って、
赤ちゃんがつつまれた、白い布を開き、どれを見せるのか選別していた。

少しして、看護士が私達のところへ、


こちらです。どうぞ。



その赤ちゃんは、主人にそっくりの鼻と唇、やすらかな閉じた目・・・



肩から腕、小さな右手だった。



私が思っていたよりきれいだった。可愛い男の子だった。



小さな手をさわった・・・主人もわが子を見つめていた。



主人とずっと忘れないでいようね。と話した。




その後、焼香し、こちらで頼んだ葬儀屋さんの棺へ主人と私ふたりで入れてあげた。



小さな棺は白いレースで飾られたベビーベッドのようだった。




焼香は担当医の先生、そして私が子宮頸がんで手術した時の担当医のS先生もきてくれた。




その後、1/8に退院し、


1/10にたくさんのお花と靴下、クッキーをいれて火葬し、
今は、小さな骨壷と一緒にいます。



遺骨は残らないと思ったのですが、骨盤や大腿骨は残りました。
あとはほとんど灰でした。でも、この子はお腹の中にいたんだよね・・


戒名もないのは可哀相なので、名前も考えて骨壷に名前を書いてもらいました。

納骨は2/11です。




今は、心の整理もつき、リハビリ中ですが、既に家事も自転車ものって
筋力ももどり、普通にどおり元気に生活してます。




流産処置終了後、
今回陣痛がおきて出産をした状態と同じなので
胸から母乳がでてきてしまうので一回薬を服用しました。



あれから一週間経ち胸がとても張って硬く痛くかったのですが、
マッサージをしながら様子をみたら、2日後に張りがおさまってきました。
そして翌日深夜に左胸から何かでてパジャマが濡れてました。
母乳だったのでしょうか・・



体はまだ少しだけ、赤ちゃんを産んだ状態と錯覚しているのですね。。
出血はまだ少しありますが、じょじょに減ってきています。




それ以外は体調はよく、
赤ちゃんが全ての苦しみ痛みをもっててくれたんだっと思ってます。



これから、どうするのか、どうなるのか、わかりません。



1/31に産科で検診があり、3月には子宮頸がんの検診が予定されています。



受精卵はまだグレード良い卵が4個残ってます。



私は今年11月で45才になりもう時間がありません。




主人は一度は夢をもって幸せだったけど、もう子供はいいよ。っと思ってます。




私は 今回の 経験で いろいろ 感じ 想うことが たくさん あります。




いつか ママ に なれる日を 夢みて



きっと いつか 会えるよね






心配かけた皆さん、私はもう大丈夫です。いろいろアリガトウ。