絶対と人間 | BLACK VELVETS

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火水(ホシ)の舞踏と祝祭の音

シンギングボウル と霊性に
身体から働きかけるワークを
やっています

S「常に絶対的、完全な。うん。そういったものを求めて、やっぱり全体へ集中していくこと。」

ダン「うん。そう。 ただし、一つだけ大切なことはね、人間にとって絶対や完全は絶対にあり得ないってことさ。だからそれに向かってより良く生きてく。いい?絶対や完全があるのは人間の次元じゃあないんだ。これを間違えるととんでもないことになっちまう。とんでもないぎこちない人間になっちゃう。

いい?人間の世界では常に無数のもの、釈迦がさ、胃腸が常に悪かったとかさ、道元は肺結核で死んだとかさ、そんなもんきりが無い。 ラーマクリシュナもなんだ、ちょっとした坂も登れないくらい虚弱だったとか。イエス・キリストは十字架に掛かちまったとか。

いい?人間の目で見ちゃあそれしかないじゃあないか。人間の目っていうのはさ、そういうふうにしかものを見れない。常に相対的にしか。 そして絶対っていうのはさ、冥想そのものにある時だけなんだ。

そして冥想そのものっていうのが、より自分自身になればなるほどね、今度は現れてくる世界でもって、余計なところに引っ掛からないから、とても美しく見える。 人間的な世界が。

そして、本当に一番的確なボタンを押すよ。つまり何故かって言うと、自分の中に気負いとかさ、しこりとか何にも無いから、ものすごいストレートだ。 「うん。俺は水飲みたい。はい」てなさ。

そして結局は冥想っていうのは、少なくともこの人間世界の中に貢献出来ることっていうのは、そういうふうなストレートな人間達っていうのを、生み出す働きがあるっていうことだね。

だって早い話が死ぬじゃあないか。 肉体は死ぬし、年老いるじゃあないか。病気もすれば、疲れるじゃあないか。

悟りっていうのは、そういうものを一切関係無い次元の世界の話だ。その時、悟りの側に立ってる人間にとっては、その様々がちょうど映画に映ってる光景と全く同じにしか感じられないのさ。

物語と見えるんだ。だからって物語の中に何にも無くなったら、物語になんないじゃあないか。

昔ね、黒住教っていうのがあって、黒住宗忠っていってやっぱり究極の悟りまで行った人がいたんだけど、神道系のね。

その人なんか実にいい境涯行ってたよ。神通力もよく駆使して、人々をよく助けた人だけど。

彼にものすごい素敵な女房がいてね。 
で、 ある日その女房が急に突然死んじゃったのさ。で、
その死の知らせを聞いたらさ、バタンと失神しちゃった。

それで失神から甦ってさ、また『これではいかん』ていうのでさ、自分はちゃんと人間ていうのは死なないという教えをしているのでさ、気失っちまったていうんでさ、早速反省の歌かなんか作って「あらゆるものが死ぬと知り尽くした私が、妻の死で動転して失神するなんていうこの無様さよ」というようなさ、ことが最初の頃に出て来るわけ。

これはまだ反動があるんだな。 残ってるわけよ。それが段々変わっててさ、もうちょっとあと二日くらいたつとさ『妻は死んではいない。空には鳥が飛び、海には魚がいる」

ダンテス・ダイジ「素直になる」より