キリスト教は西側で2000年間同じことを繰り返してきた。 共産主義はキリスト教の分派だ。共産主義者が今やっていることは、キリスト教の教皇たちから学んだことだ。 キリスト教は神秘主義のあらゆる可能性を破壊した。
迫害を避ける方法は2つしかなかった。1つは地下に潜るか、どこかの砂漠や山に逃げ込むこと。 第二の可能性は、表面的には正式なクリスチャンとして存在し、キリスト教用語を使い、内面的な作業を個人的に行うことだ。
ディオニシウスもそうだった。
アテネの司教であり続けながら、ブッダや老子、ツァラトゥストラのように人生の最も深い謎に切り込むとは、彼は類まれな知性の持ち主だったに違いない。
キリスト教は神秘主義の可能性をすべて破壊した。 彼はキリスト教組織を欺いた。
ディオニシウスの論文は、彼が生きている間は出版されなかった。
ディオニシウスは、自分が死んでから出版されるような方法で、それを管理したに違いない。
もし彼が生きている間にこの論考が出版されていたら、教会から追放され、迫害され、拷問を受けただろう。 理解ある人間、自殺願望のない人間は、不必要に迫害されることを好まない。
必要に迫られれば、彼はその挑戦を受け入れる。 しかし、彼はそれを求めているわけではない。 彼は自殺願望があるわけでもなく、自分に暴力をふるうわけでもない。
ディオニュシオスは稀有な人物だ。愚かなキリスト教とその厳格な組織の中で生き、司教でありながら、意識の究極の頂点に達することができたのだから。
神に証明はない。これまでも、これからも、証明はない。 知っている人は、深い親密さのゆえに、マスターとの愛の情愛のゆえにのみ知っている。 それは誰かを説得する問題でもなければ、特定のイデオロギーに改宗することでもない。
ディオニュシオスのような人物に出会えば、その存在だけで十分だ。 その人の存在があなたの心を突き動かす。
その人の存在は、あなたの中に何かを伝え、今まで気づかなかった何かを引き起こす。 あなたは歌を聴き始め、美を見始め、目に見える理由もなく、新たな昂揚感や恍惚感を感じ始める。 そうすれば、自分のエゴをそのような人に明け渡すことが可能になる。
マスターにエゴを明け渡すとき、マスターは言い訳にすぎない。 あなたは本当に神に身を委ねているのであって、マスターに身を委ねているのではない。 実際、あなたはただ身を委ねている。 誰にということは重要ではない。問題は、あなたがエゴを明け渡しているかどうかだ。エゴが放棄された瞬間、交わりの可能性が生まれるのだ。
これはディオニュシオスが最も愛する弟子テモテに宛てた手紙だ。
覚えておくべき第二のことは キリスト教は、イエスについての宗教になることで、非常に重要なことを見逃してしまった。 イエスについての宗教になろうとしたから、イエスの宗教にはなれなかった。 実際、イエスについての宗教はイエスの宗教に反している。なぜなら、宗教が人についてのものになると、その人の内的現実との接触を失い、その人の外的表現に関心を持つようになるからだ。
キリスト教は、イエスを模範とすることにこだわりすぎた。 今、それは間違った方向に向かっている。 イエスを模範とすることは誰にもできないし、イエスの生き方は他の誰かの模範となることはできない。
イエスのようになるためには、イエスが存在した状況、つまり全体の文脈が必要なのだ。 人生は変化し続けるものであり、2度続けて同じ瞬間が訪れることはない。 ナザレのイエスにはなれない。 なぜなら、イエスを十字架につけたユダヤ人の心はもう存在しないからだ。
私のサニヤシンの中には、何千人ものユダヤ人がいる。イエスがこれを見たら、自分の目を疑ったかもしれない。彼はユダヤ人だった。ユダヤ人として生まれ、ユダヤ人の言葉を話し、ユダヤ教の基本的なことをすべて信じていた。 20世紀が過ぎ、状況は変わった。
また、ある人を模範にしようとするたびに、模倣的になり、偽りになり、真正性を失い、自分自身ではなくなる。 一方ではキリスト教は「イエスに従え、イエスを模倣せよ! イエスを手本にしなさい!』と言う一方で、同じキリスト教が若者たちに『イエスは神であり、神のひとり子であり、同じように神と関わることはできない』と言い続けている。
この不条理がわかるだろうか。 一方では、"イエスに従え、イエスのようになれ!"と言いながら、他方では、イエスのようになることは絶対に不可能であるとしている。
それゆえ、キリスト教は地球上にあり得ない宗教を作り上げ、人々にそのようなナンセンスなことを伝えてきたのだ。 このような不合理なアプローチは罪悪感を生むに違いない。 人々はイエスに従おうとするが、イエスのようになることはできない。それゆえに罪悪感が生じる。
キリスト教が最大の災難であることを証明したのは、宗教が罪悪感を生み出すものではないという単純な理由からだ。 もし宗教が罪悪感を生み出すなら、それはあなたを憂鬱にし、自分自身に不満を抱かせ、微妙な自殺願望を生み出す。
真の宗教は、あなたを高揚させ、あなたの存在を高め、豊かにし、あなたの人生をより祝祭的なものにし、あなたが祝い、喜ぶためのより多くの可能性を生み出す。
そして、イエスは弟子たちに言われた! 喜べ! 私はあなた方に喜べと言う。 キリスト教は何をしたのか? それは正反対だ。 ディオニュシオスはこの事実を知っていた。
真理の経験は音楽のようなものだ。 美しいと言うことはできるが、それは評価であり、あなたの判断だ。 あなたは音楽を描写しているのではなく、音楽を通して起こった自分の気分を描写しているのだ。 音楽の美しさを形容することはできない。
宗教的経験についても同じことが言える。 だからこそ、本物の宗教は常に神秘的なのだ。 神秘的とは、感じることができ、経験することができるが、決して記述することができないものを意味する。 知っていても、それを他人に伝えることができない。 知れば知るほど、あなたは馬鹿になる。 それを絶対的に知ったとき、あなたはほとんど絶対的に無知な人間になる。
theologia mystica osho