BLACK VELVETS

BLACK VELVETS

火水(ホシ)の舞踏と祝祭の音

シンギングボウル と霊性に
身体から働きかけるワークを
やっています


横浜での個人セッション募集です。

セッション内容は90分のシンギングボウルセッション
90分のタイ古式マッサージ
もしくは90分の身体操法の伝授になります。

90分のシンギングボウルセッション  1.5万
90分のタイ古式マッサージ      1.5万
90分の身体操法伝授          1.7万

時間帯は午前、午後、夕方、夜間になります。

お申込みは oshokrantiあっとまーくyahoo.co.jp

krantiまで







 光は音である

 そしてこの身体は光でもある音で出来ている

 かつて言葉はその光である音を元として

 紡がれていた

 天地を結ぶハート〜心〜

   仲介者なしに息(自らの心でもって)、呼吸し

 言霊、音霊を発した

 シヴァの残したヴァルナ・マーラー(音の首飾り)

   は光へと還る音霊である



シンギングボウル  33ws(SOUND OF SHIVA)
やります。

シヴァのサンスクリット音節によるシンギングボウルを使った心身を開くワークです。

マントリカーニャーサムというカシミールシヴァ派のサンスクリット音節を身体に降ろす事でミクロコスモスとマクロコスモスを繋げます。

33の背骨の推骨には200種類以上の病気が眠っていると言われ、バランスの乱れた呼吸、生活習慣、食事などで病気が目覚める、と言われていますが、背骨は同時に人類のいままでの全ての智慧が眠っていると言われているリアルアカシックレコードでもあります。

このクラスでは33の推骨も交えて50のサンスクリット音を全身に降ろす事でボディ/マインドの覚醒を促します。


アジアの宗教のマントラはそのほとんどがサンスクリット語がベースです。

このクラスではマントラを唱える上での基本文法を心身に血肉化するワークを行います。



 6/9(日)  シンギングボウル マントラクラス

 SOUND OF SHIVA( part.1)

 場所 横浜

    時間 12時半〜17時半

 受講資格  シンギングボウル レベル1を3部まで
       受講済みの方

    参加費 3.3万(再受講1.7万)

    お申し込みはoshokrantiアットマークyahoo.co.jp

  krantiまで








   

音は光


光は音


音は香り


香りは音


永遠と今を結ぶもの







昨日は身体操法 黒帯クラスでした。

ウチのワークは基本的にいまの日本人の気脈ラインで

決定的に足りない所を開く作業をするので、初めて

受けられた方は少々面食らいます。

で、なおかつそこでエネルギーを感じられないと

自分は駄目だと思ってしまい、受けたワークを消化

してから次のワークを受けようとするわけですが

このパターンに入ると大抵、ワーク自体をやめて

しまう場合が多いです。

ウチのワークは基本的にレイヤー構造になっているので

例えば身体操法1を受けたら2,3,4,5と月1回のペースで

受けていくとレイヤー状にエネルギーが重なるので

かなり鈍感な人でもエネルギーを感じるようになります。

ただし、マルチタスクで睡眠時間が足りない人は駄目です。この手の人は内臓にエネルギーがチャージされてないので、基本的にどんなワークをやってもバランスを崩したままです。

ところが問題はほとんどの日本人が睡眠が足りてないのです。

睡眠も脳がiPhoneなどの過剰な情報で24時間興奮させられているので、深い睡眠が取れないんですよね。

睡眠が足りてない+水分が足りてない。

ここで言う所の水分が足りてないというのは水分を吸収、排泄するだけの腎臓、膀胱の力がないという事です。

なので沢山の水分を取っても吸収出来ないでそのまま排泄してしまう。

こういう水分を吸収出来ない身体というのは栄養もワークも吸収できないです。

なので即時間に合わせで過食気味になってしまうか、もしくは全く食べれなくなってしまう。

基本的に骨盤からエネルギーが漏れているので、何を入れても吸収されずに出て行ってしまいます。

理想的には必要なものは吸収し不要なものは排泄する身体がベストなのですが、それをするには柔軟な骨盤が必要なのです。







キリスト教は西側で2000年間同じことを繰り返してきた。 共産主義はキリスト教の分派だ。共産主義者が今やっていることは、キリスト教の教皇たちから学んだことだ。 キリスト教は神秘主義のあらゆる可能性を破壊した。

迫害を避ける方法は2つしかなかった。1つは地下に潜るか、どこかの砂漠や山に逃げ込むこと。 第二の可能性は、表面的には正式なクリスチャンとして存在し、キリスト教用語を使い、内面的な作業を個人的に行うことだ。 

ディオニシウスもそうだった。

アテネの司教であり続けながら、ブッダや老子、ツァラトゥストラのように人生の最も深い謎に切り込むとは、彼は類まれな知性の持ち主だったに違いない。 

キリスト教は神秘主義の可能性をすべて破壊した。 彼はキリスト教組織を欺いた。

ディオニシウスの論文は、彼が生きている間は出版されなかった。

ディオニシウスは、自分が死んでから出版されるような方法で、それを管理したに違いない。 

もし彼が生きている間にこの論考が出版されていたら、教会から追放され、迫害され、拷問を受けただろう。 理解ある人間、自殺願望のない人間は、不必要に迫害されることを好まない。 

必要に迫られれば、彼はその挑戦を受け入れる。 しかし、彼はそれを求めているわけではない。 彼は自殺願望があるわけでもなく、自分に暴力をふるうわけでもない。

ディオニュシオスは稀有な人物だ。愚かなキリスト教とその厳格な組織の中で生き、司教でありながら、意識の究極の頂点に達することができたのだから。

神に証明はない。これまでも、これからも、証明はない。 知っている人は、深い親密さのゆえに、マスターとの愛の情愛のゆえにのみ知っている。 それは誰かを説得する問題でもなければ、特定のイデオロギーに改宗することでもない。 

ディオニュシオスのような人物に出会えば、その存在だけで十分だ。 その人の存在があなたの心を突き動かす。 
その人の存在は、あなたの中に何かを伝え、今まで気づかなかった何かを引き起こす。 あなたは歌を聴き始め、美を見始め、目に見える理由もなく、新たな昂揚感や恍惚感を感じ始める。 そうすれば、自分のエゴをそのような人に明け渡すことが可能になる。

マスターにエゴを明け渡すとき、マスターは言い訳にすぎない。 あなたは本当に神に身を委ねているのであって、マスターに身を委ねているのではない。 実際、あなたはただ身を委ねている。 誰にということは重要ではない。問題は、あなたがエゴを明け渡しているかどうかだ。エゴが放棄された瞬間、交わりの可能性が生まれるのだ。




これはディオニュシオスが最も愛する弟子テモテに宛てた手紙だ。

覚えておくべき第二のことは キリスト教は、イエスについての宗教になることで、非常に重要なことを見逃してしまった。 イエスについての宗教になろうとしたから、イエスの宗教にはなれなかった。 実際、イエスについての宗教はイエスの宗教に反している。なぜなら、宗教が人についてのものになると、その人の内的現実との接触を失い、その人の外的表現に関心を持つようになるからだ。

キリスト教は、イエスを模範とすることにこだわりすぎた。 今、それは間違った方向に向かっている。 イエスを模範とすることは誰にもできないし、イエスの生き方は他の誰かの模範となることはできない。 

イエスのようになるためには、イエスが存在した状況、つまり全体の文脈が必要なのだ。 人生は変化し続けるものであり、2度続けて同じ瞬間が訪れることはない。 ナザレのイエスにはなれない。 なぜなら、イエスを十字架につけたユダヤ人の心はもう存在しないからだ。

私のサニヤシンの中には、何千人ものユダヤ人がいる。イエスがこれを見たら、自分の目を疑ったかもしれない。彼はユダヤ人だった。ユダヤ人として生まれ、ユダヤ人の言葉を話し、ユダヤ教の基本的なことをすべて信じていた。 20世紀が過ぎ、状況は変わった。

また、ある人を模範にしようとするたびに、模倣的になり、偽りになり、真正性を失い、自分自身ではなくなる。 一方ではキリスト教は「イエスに従え、イエスを模倣せよ! イエスを手本にしなさい!』と言う一方で、同じキリスト教が若者たちに『イエスは神であり、神のひとり子であり、同じように神と関わることはできない』と言い続けている。 

この不条理がわかるだろうか。 一方では、"イエスに従え、イエスのようになれ!"と言いながら、他方では、イエスのようになることは絶対に不可能であるとしている。

それゆえ、キリスト教は地球上にあり得ない宗教を作り上げ、人々にそのようなナンセンスなことを伝えてきたのだ。 このような不合理なアプローチは罪悪感を生むに違いない。 人々はイエスに従おうとするが、イエスのようになることはできない。それゆえに罪悪感が生じる。 

キリスト教が最大の災難であることを証明したのは、宗教が罪悪感を生み出すものではないという単純な理由からだ。 もし宗教が罪悪感を生み出すなら、それはあなたを憂鬱にし、自分自身に不満を抱かせ、微妙な自殺願望を生み出す。

真の宗教は、あなたを高揚させ、あなたの存在を高め、豊かにし、あなたの人生をより祝祭的なものにし、あなたが祝い、喜ぶためのより多くの可能性を生み出す。 

そして、イエスは弟子たちに言われた! 喜べ! 私はあなた方に喜べと言う。 キリスト教は何をしたのか? それは正反対だ。 ディオニュシオスはこの事実を知っていた。




真理の経験は音楽のようなものだ。 美しいと言うことはできるが、それは評価であり、あなたの判断だ。 あなたは音楽を描写しているのではなく、音楽を通して起こった自分の気分を描写しているのだ。 音楽の美しさを形容することはできない。

宗教的経験についても同じことが言える。 だからこそ、本物の宗教は常に神秘的なのだ。 神秘的とは、感じることができ、経験することができるが、決して記述することができないものを意味する。 知っていても、それを他人に伝えることができない。 知れば知るほど、あなたは馬鹿になる。 それを絶対的に知ったとき、あなたはほとんど絶対的に無知な人間になる。

   theologia mystica      osho