一般的に「平和ボケ」」というと空想的平和主義者を蔑む言葉だと思われがちだけど、実は空想的平和主義とは程遠い人たちもまた「平和ボケ」といえる思考に陥っているのではないかと思うことがある。最近ある二つの事例からそんなことを強く考えるようになった。

一つめの事例は、若者の「戦争への憧れ」であった。先日の北大生の「イスラム国」(Islamic State, IS)への志願問題である。イスラム教に対して強い信仰心を持っているわけでもない若者が、ただ「就職に失敗したから」という理由で安易にISへ志願し、戦場に赴こうとした。

一方で彼とは別に鵜沢佳史氏という元自衛官も、「死と隣り合わせの戦士になれば見えるものがあると思った」という動機で自由シリア軍に参加し、戦闘に従事した後、負傷したことを契機に日本に帰国したという。この二人の若者は、戦場に「憧れ」を抱き、まるで「自分探し」をするかのように戦争に参加しようとし、鵜沢氏の場合は実際に参加した。

北大生はモザイクがかかっていたため表情をうかがい知ることはできなかったが、インタビューの際の声のトーンは落ち着き払ったものとか、陰気なものという印象よりは、少し「ハイテンション」な印象を受けた。鵜沢氏についても、インタビューの際の表情は戦闘に従事したことの後悔や、負傷した経験に対する恐怖を感じているというよりは、「戦争というものを経験してきたぜ」というどこか溌剌とした表情であった。

この二人に共通しているのは、戦争に対する感覚が「恐怖感」というよりも「スリル」に近いということである。「死ぬかもしれない」という思いを抱きつつも、そこにはその「死ぬかもしれない」という思いをどこか「楽しむ」かのような感情を読み取れた。平和な日本に生まれ育ち、その「平和」にどこか退屈さを感じたがゆえに、日本にとって「非日常的」とでも言える戦場に憧れる…。彼らが求めているものは「戦う」ということではなく、目の前にある「平和」という名の「日常」からの「逃避」のように見えた。

二つめの事例は、政府関係者による「戦争への憧れ」であった。先日放送されたNHKスペシャル「ドキュメント"武器輸出"防衛装備移転の現場から」(10月5日放送、私自身はJSTV経由で10月7日に視聴)の中で防衛省装備政策課長の堀地徹氏が「日本の(装備)は残念ながら、幸いなのかもしれないけれども、そういう経験(実戦経験)がないのでこういうところで(軍事見本市で)、どんなところに力を入れるか(アフガニスタン、レバノン、コソボなどの実戦経験のある国が装備に何を求めているか)を知ることに意味がある」という発言を耳にしたことであった。実戦経験がないことの前置きとして、「残念ながら」という表現が真っ先に出て、それを慌てて打ち消すように「幸いなのかもしれないけれども」と言い直している点が妙に印象的であった。

堀地氏の考え方はおそらく現在の政府、防衛省、自衛隊に広く共有されているものなのかもしれない。「実戦経験」がないことを「誇り」ではなく、むしろ「コンプレックス」と認識していることに、現在の政府関係者の「戦争への憧れ」を感じた。

番組では4月の「防衛装備輸出三原則」(新三原則)の閣議決定後、日本政府と日本の防衛産業が武器輸出を積極的に行おうとしている姿、葛藤する企業の姿が扱われている。その一方で、かつての「武器輸出三原則」(旧三原則)をめぐるロケット技術者、通産官僚の述懐を交えている。

番組の中で特に印象的だったのは、技術の軍事転用について断固反対の姿勢を取るロケット技術者の秋葉鐐二郎氏の言葉だった。「こりごりしている。戦争なんかろくなことない。あれでいい思いをした人がいたらおかしいんだよ。(ロケットの研究開発において戦争の傷跡が)尾を引くべきだったんだよ。忘れちゃいけないことなんだよ」。秋葉氏は1930年生まれであり、戦争を経験している世代である。戦争の鮮明な記憶が、軍事研究をしないという強い想いにつながり、実際軍事研究には従事しなかった。

統合参謀本部議長として湾岸戦争を指導し、国務長官としてアフガニスタン戦争とイラク戦争の外交に従事したコリン・パウエルは、軍事力の行使について極めて抑制的な考えを持っていた。これは彼自身がベトナム戦争において苛烈な経験をしたことによっていることが、彼自身の著作『マイ・アメリカン・ジャーニー』から読み取れる。「戦争の記憶」があることはおそらく「戦争を回避する感情」を呼び覚ますのだろう。ある人間の戦争体験が苛烈であればあるほど、その人間は「いかにして戦争を回避するか」という問題意識を強めるのではないかと思う。

「戦争の記憶」を持ち合わせない人間は「戦争」をイメージすることが難しい。そのことは時として戦争に対する「楽観」や「憧れ」を生み出す。この「楽観」や「憧れ」もまた「平和」の産物であり、「平和ボケ」と言い換えることもできるように思う。他国の脅威をいたずらに強調し、強硬策を唱え、戦争を過小評価する人間というのもまた皮肉なことに「平和ボケ」している人間ではないだろうか。