(これから書く話は基本的に実際に見聞きしたことを書いたものをもとにしているが、ずいぶんと昔に見聞きした話も含まれるため、一部に筆者の記憶違いや創作、過剰な演出も含まれる。このため、あくまで「フィクション」として読んでいただければ幸いである。なお、今回の話には特定宗教の特定宗派が登場するが、これらを貶める目的がないことをあらかじめお断りしたい)。


大人になってから母親から知らされる意外な事実というのは時として衝撃的なものも含むものである。


私は幼い頃とある仏教系の幼稚園に通っていた。単純に家から5分程度のところにあったからなのか、代々その幼稚園と同じ宗派(父方も母方も同じ宗派)を菩提寺にしてきたからなのかは不明だが、ともかく仏教系の幼稚園に入れられたのである。


この幼稚園で園務所で執務していたY先生という方がおられた。おそらく当時で40代前半くらいの先生だったと思う。「先生」といっても、クラスを受け持ったり、何かを教えたりということではなかったのだが「先生」と呼ばれていた。小学校や中学校にいる「教務主任」のような位置付けの人だったのではないかと思う。


このY先生というのは園児に対してとても厳しい態度で臨む先生で、何かといっては園児を叱る方だった。もう30年以上も前のことだから、何で叱られたかはよく覚えてはいないのだが、とにかくいつも怒っていたなぁという記憶しかないというくらいよく怒ってる先生だった。まぁしかし、幼稚園、小学校、中学、高校と進めば「よく怒っていたなぁ」という先生など他にもいたし(一番よく怒っていたのは大学受験の時に通っていた予備校の塾長だ)、「先生」と呼ばれる人間の中には素晴らしい人もいれば、凡庸な人もいるし、どうしようもないクズもいるのが現実である。教師でなくとも人間の社会などそういうものだ。


ただ、人間というのは不思議なもので、直接接していた時は「ムカつくなぁ」と思っていても、後から考えると「あの時はすごくムカついたけど、今になってみるとあの人と出会えてよかったのかもしれない」と評価が変わったり、美化するということも起きる。成長するにつれて、「あの時、叱ってくれたことにはこういう意味があったのだろう」という、ある時は正しく、ある時は間違っている解釈を加えるものなのである。たとえ叱った側が、何の考えもなしに気分次第で叱っていたとしても、である。


成人してから母と通っていた幼稚園の話になった。たぶん私が通っていた時の園長先生が亡くなられて、息子さんが住職と園長を継承したとかそんな話だったと思う。幼稚園の思い出話をする中で、「園務所にいたY先生というのはずいぶんと厳しい先生だったけど、今から思うとあれも子どもたちを思ってのことだったのかなぁ」と母に言った。何で叱られたのかよく覚えていないのにもかかわらず、適当に「何か意味があったのだろう」的なことを言ってみたわけだあるが、次の瞬間、母から衝撃の一言が発せられた。


「あら、前に言わなかったっけ?あの先生はね、園長先生の愛人だったのよ。Y先生の姿を見ると園長先生の奥様はヒステリー起こして大変だったらしいわよ」


「園長先生の愛人だったのよ」


「園長先生の愛人だったのよ


「園長先生の愛人だったのよ」


衝撃だった。お寺の住職という宗教上の聖職者と、園長先生という教育上の聖職者を兼ねる人物に愛人がいたうえ、その愛人に職場も提供していたとは、これはとんだ生臭坊主だなぁと思った。とはいえ、お寺だけではなく幼稚園も経営するということは、それなりの野心と手腕があったからに他ならない。聖職者、教育者としてはどうかと思うが、少なくとも「経営者」としては優れていたということなのだろう。


件の園長先生はおそらく20年ほど前に亡くなったようであるが、Y先生がその後どうなったのかは知らない。幼稚園と寺自体は息子が延長と住職を継承して現在も存続しているようで、今年の正月に近くを通りかかった際には新しい園舎が新設されていた。少子化が進む中で設備更新ができ、保護者からの評価も高いということは現在の経営は比較的順調なのかもしれない。

先日のこと。帰宅するとポストに「入居者様」という茶封筒が差し込まれていた。中を開けてみると、地方裁判所の執行官名で「照会及び通知書」とあり、次のようなことが書かれていた。

「あなたが使用されているこの建物は、◯◯地方裁判所××支部に競売が申し立てられており(事件番号令和2年(ケ)第×××××号)、当職が裁判所の命令に基づき、調査を担当しております。この調査のため、あなたの使用されているこの部屋の間取りの確認と写真撮影等が必要となります。

つきましては◯月×日(水)午前10時00分から午後0時00分ごろの間に再度お伺い致しますのでご在宅をお願いします。その際に、賃貸契約書と直近3ヶ月の賃料の支払実績が分かる資料を見せていただきますようお願いいたします。また、ご都合が悪い場合は、速やかに当職までご連絡をお願いいたします。

ご負担をおかけ致しますが、何らご連絡がない場合は、民事執行法に基づき、ご不在でも解錠して立ち入って調査せざるを得ませんので、必ずご連絡をお願い致します。この調査についてご不明な点がありましたら、遠慮なくお問い合わせください。」

添付された物件目録にも目を通したが、まず思ったのが「この文書、何だか怪しいなぁ」ということだった。怪しいと思った理由は以下の通り。

①裁判所が発行している文書なのに公印の類が押されていない。
②書留ではなくてポストに差し込みというのが不自然。
③物件目録に書かれた住所が間違っているのみならず、その住所が存在しない。
④返信用封筒の字がものすごく下手。

以前、裁判所の文書を装った詐欺があるという記事を読んだことがあったので、その手のものかもしれないと思い、翌日裁判所に問い合わせをしてみることにした。通知書に書かれた電話番号にそのままかけるというのはリスクが高いと判断し、裁判所のホームページで電話番号を調べてかけることにした。ちなみに通知書に書かれた電話番号とホームページで公開されている電話番号は一致していた。その時の電話のやりとりは以下のような感じ。

私:昨日、住んでいるアパートのポストに競売に関する照会及び通知書が投函されていたのですが、その件について執行官の△△様をお願いします。

(執行官登場)

執行官:◯◯(アパートのある町名)の物件ですね?
私:昨日ポストに投函されていたのですが、通常裁判所の通知というのは書留などで来るものと思っていまして…。あと、物件目録の住所の地番が間違ってますが、こちらは確かに私の住んでいるアパートなのでしょうか?
執行官:昨日お伺いをさせていただきまして、ご不在でしたのでポストに投函させていただきました。住所については、普段使う住所と登記上の住所が異なるということがありまして…。

(ここまで聞いて、裁判所から正式に発行されたものと理解した)

執行官:お住まいのアパートの所有者の××さんという方が、銀行からお金を借りていたのですが、そちらの支払いができなくなったようで、銀行側から競売の申し立てがありました。

(その後、現地調査と競売成立後に考えられる動きについて説明を受ける)。

執行官との電話の後、アパートの管理会社にも確認した方が良いと思い電話した。通知書の内容と執行官との電話のやりとりについて説明したところ、この時点では管理会社の方に裁判所からの連絡は来ていなかったものの、所有者が債務問題を抱えていたため、こうなるのは時間の問題だと認識していたとのこと。管理会社を責めても仕方がないので(そもそも債務不履行になったオーナーの問題)、1週間後に訪れる執行官の対応をすることにした。

そして通知書を受け取ってから1週間後、裁判所から執行官と補助、不動産鑑定士がやってきた。10分ほどかけて部屋の写真撮影と間取りのを見て回り、契約書と家賃の支払状況を確認されて終了。その後、今後の流れについて執行官から説明を受けて終了した。

執行官は淡々と調査を行っているだけで、特に高圧的な態度ということでもなかった。わざわざ有休を取得して対応しなければならなかったのが癪に触るが、執行官と管理会社を責める気はさらさらない。諸悪の根源は債務不履行に陥ったオーナー。借りた金はちゃんと返すといことをしないと、色々な人に迷惑をかけることになるなと再認識した。

株式投資というものを始めたのは2007年の10月であるから、もう10年以上前のことになる。元々預貯金の利息の恩恵を受けたことがない世代であるため、預貯金というものは元本割れをしないものという認識しかなかった。元本割れのリスクがありつつも、株式投資の方が資産運用をするうえでは魅力を感じた。

 

経理部門の経験があることから、ネームバリューのある企業の財務諸表を見て、「きれいな財務諸表」を見つけて長期保有をしてきた。2年半の海外勤務もあり(海外居住者扱いになると証券会社によっては取引ができなくなるため)、半年ほど前まで、つまり約10年間一切売買を行っていなかった。

 

株価は一時下落したこともあったが、半期ごとに配当金も受け取ることがもきたし、銘柄によっては取得額の3倍以上に膨らんだものもあったから、結果的に投資は「成功」した、より正確には「失敗しなかった」と言える。だが、この10年間、証券会社の口座にアクセスすることはほとんどなかったし、株式投資に対する確たる戦略を持っていたわけでもなかった。

 

昨春友人から資産管理アプリのMoney Forwardを勧められたことを契機として、自分の金融資産の効率的な運用を強く意識することになった。金融資産の大半を占めていた預貯金の非効率性に気付き、その現預金2に対して株式投資を3まで引き上げることに決めた。

 

ところがいざ株式投資を再開し、日常的に株価を見るようになるとまずは2つの不安にとりつかれることとなった。

 

①株を購入した後に株価が下落する不安

②株を売却した後に株価が上昇する不安

 

銘柄選び自体は10年前と同じように「きれいな財務諸表」を見つけることや、将来性のあると思った分野を選んでいたものの、財務状況や将来性とは関係なく株価は騰落した。そのため「売却するのには早すぎるタイミング」で売却したり、「購入するのには早すぎるタイミング」で購入するということが起きた。

 

前者の場合は結果的に「利益」を得ているわけだから「悔しさ」でしかないが、後者の場合は下落が長期化してしまえば「損失」となるわけで、「損切」をしなければ資産の「効率性」を失うことになる。結局、後者の不安の方が大きいがゆえに短期で値上がりをした銘柄を早期に売却しては別の銘柄を探すということが頻発するようになった。

 

そこで漫画『インベスターZ』の冒頭で出てくるような、「利食い10%、損切5%」というマイルールを課すことにした。このマイルールに基づけば、かなり機械的に売買を行うことができると考えたのである。ところが、このマイルールを課しても、前述の2つの不安は払拭できず、さらに4つの不安を抱くことになった。

 

①10%の価格上昇後にさらに値上がりする不安

②10%の価格上昇に至る前に値下がりする不安

③5%の価格下落後に値上がりする不安

④5%の価格下落に至る前に損切りすべきではないかという不安

 

これらの不安と戦いながらも売買を繰り返した結果、3カ月程度で税引き後で15%程度の利益を確保することができた。しかしながらそれは「異次元の金融緩和」という外部環境によるものや、「運」というものでしかなく、確たる「投資戦略」や「マイルール」に基づいたものではなかった。現在のように市場全体が上昇トレンドにあるうちはおそらく何となく利益を享受することができるが(実際自分が稼ぐことができた利益は日経平均の上昇率とほぼ同じである)、いずれ下降トレンドになれば利益を確保することは難しくなる。「投資戦略」や「マイルール」というものの確立についてよくよく考えることになった。

 

つづく

2013年6月から2017年6月まで4年間にわたって週刊『モーニング』に連載されていた『インベスターZ』は、投資術や金融リテラシーを身に付ける上での良書であると思う。私は連載開始当初から読み始め、サウジアラビアに赴任中もKindleを通して最新刊を読むようにしていた漫画の一つだ。この漫画をきっかけに投資を始めた人もいるだろうし、元々投資をしていた人がこの漫画を読むことで自らの投資についてより深く考えてみたということもあるだろう。

 

 

実はこの漫画を第1巻から最終巻までじっくりと読んでみると所々「矛盾」することが書かれていることに気付くはずだ。たとえば物語冒頭で「利食い」と「損切り」の話が出てきた一方で、株式を「保有し続けること」が推奨されていると思しき回も登場するし、「まずは投資を始めてみろ」という回があるかと思うと、「いきなり投資するのではなく投資シミュレーション・ゲームをやってから投資をする」ことを勧める回もあるし、投資をするうえでファンダメンタルズを重視する話が出てきたかと思うと、テクニカル分析の優位性について説く回もある。

 

こうした作中の所々の「矛盾」に触れる中で、私なりに全編を通して最も重要であると思ったのは次の場面だ。

 

©️三田紀房『インベスターZ』

 

藤田慎司との投資三番勝負のFX編で財前が富永から言われた一言である。富永が「円安は絶対に良くない」と財前に説くのに対して、財前は1ドル360円時代に日本が経済成長を遂げた例を持ち出して富永の「円安悪玉論」に反論する。これに対して、富永が「おまえもわかんないヤツだなぁ…」と呟くのである。財前にとって「投資部の中で一番優しくていい人」であった富永のイメージは「矛盾をほんの少し突かれただけで気分を害するような了見の狭い人」というイメージに「一時的」に変わってしまう。

 

その夜財前は富永に反論するべく、円安のメリットについて徹底的に自分の手で調べる。ところが、幼い妹が世界地図を「反対」(南を上に北を上にした状態)に見ているのを諭す母親の姿を見たことで「世の中には完璧な正解がない」ことに気付き、「両論があってこそ健全な社会である」、「物事は相対的に見ろ」という結論に達し、冨永の「円安悪玉論」もまた健全な意見であることを知ることになる…。

 

この場面で財前が達した結論と単純化してしまえば「自分の頭で考えろ」ということこそ、『インベスターZ』で最も重要なメッセージであるし、『ドラゴン桜』、『エンゼルバンク』、『銀のアンカー』など他の三田紀房の作品でも強調されていることだろう。『インベスターZ』に関して言うのであれば、ストーリー中の所々にある「矛盾」も「多様な意見の存在」、「相対的な思考」を強調するための著者なりの「仕掛け」なのではないかと思うのである。

 

投資に限らず、世の中の多くの物事には「絶対的な正解」があるわけではない。だから、それなりの根拠を持った考え方にはそれなりの「正当性」が担保される。投資に限って話をするのであれば、「ファンダメンタルズ」を重視して良好な投資成績を上げることもできれば、「テクニカル」を重視して良好な投資成績を上げることもできるはずだ。(私の場合、2007年〜2017年前半までは「ファンダメンタルズ」派で、2017年後半から「テクニカル」に改宗し、いずれも良好な投資成績を得られている)。

 

それなりの根拠があるのであれば、自らが抱いている「考え」が「正解」であるかどうかは大して重要ではない。自らが考え抜いたことで「成果」が得られるのであれば、少なくとも自分にとっては「正解」であるのかもしれない。もちろんそれは「絶対的」なものではなく「相対的」なものでしかないが。

店員「ポイントカードのご利用よろしかったでしょうか?」
私「けっこうです」
店員「失礼いたしましたー」

日本に帰国してから1ヶ月がたつのだけど、帰国後ほぼ毎日1回以上はこのやり取りをしていると思う。コンビニ、スーパー、家電量販店、飲食店、ありとあらゆる消費の場面でポイントカードの確認をされては、「けっこうです」と応え、予定調和のごとく店員から「失礼いたしましたー」と言われる…。実に不毛であるし、わざわざブログに書くこと自体不毛であると思う。不毛であることを知りながら、わざわざブログに書こうとしている自分自身、細かいことが気になる、非常に面倒臭い人間であるという自覚がある。同じことを考えている人間は私だけではないと思うが…。私は一体、一生のうちにどれだけこのやり取りをしなければならないのだろうか?

私は別にポイントカードをなくしてほしいわけではない。あまりたくさんポイントカードを持ちたくないためそれほど作ってはいないが、ポイントカードを全く持ってないわけではない。ポイントやマイレージの関係で、利用するクレジットカードや航空会社に偏りがあるのは事実だ。つまり、クレジットカード会社や航空会社の「顧客囲い込み」戦略に協力しているし、彼らに自分の嗜好性を売り渡している自覚はある。(今さらだが、ポイントカードは単純に顧客の囲い込みだけではなく、利用者の消費情報を把握するために用いられる。「ポイント」は顧客の消費情報提供に対する「対価」である)。

ただ、様々なポイントカードが多くの人に認知されるようになったのだから、ポイントカードの有無を毎度のように尋ねるプロセスはもう省いても良いのではないだろうか?たぶん、ポイントカードを持っている人で尋ねられないとポイントカードを出さない人は少数派になっていると思うし、ポイントカードを持っていない人や持つつもりもない人は毎度のようにポイントカードの有無を尋ねられることにイラッときてるかもしれない。

そしてポイントカードの有無を尋ねるも店員もこのやり取りをすることにウンザリしてるのではないかと思う。彼らは接客マニュアルにそう書いてあるからやるのだろうから、内心は「いつも来るこの人は「けっこうです」と言うだろうな。しかも不機嫌そうに」と思っているだろう。暗黙の合意があるのに、不毛なやり取りをしなければならないというのは何だかバカバカしい気もする。

10年ほど前、阿部寛主演の『結婚できない男』というドラマの中で、主人公の桑野がやはりコンビニでのポイントカードのやり取りに苛立ちを見せるシーンがあった。毎日のように同じやり取りをすることにウンザリしたためか、こう言う。

「スプーンも箸もいりませんし、ポイントカードもありません」

まぁ、実際にこう言ってしまうとドン引きされるのが現実だろう。でもできることならばこんな風に言ってみたい。

ポイントカードはありません。作るつもりもありません。このやり取りももうウンザリです」。