前回からの続きです。

   その二人の母親の違いは、母親自身の乳児期や幼少期の養育の違いから生まれたに違いない。
   スキー場での母親は典型的な“自己愛”(自分のことを第一に考える考え方)の人間である。おそらく幼い頃、やはり“自己愛”の母親から“親の気分で変わる養育”を受けていたために、愛情を受けることができる時とそうでない時との差が生まれ、子どもは「いつ、また自分は冷たくされるのだろう」という不安から、他者からの愛情に飢えた子供になり、その不安定な愛着が、精神科医の岡田氏の言うところの「第二の遺伝子」となって作用し、その未成熟な面を大人になるまで引きずらせてきたのである。だから、自分の方から男の子にぶつかってしまった時、「人からの“愛情”だけが欲しい、“注意”を受けたくない」という自己愛の考え方が湧き上がり、反射的にあのような言葉が口をついて出たのではないだろうか。ちなみに、「自己愛」の傾向がもっと重篤である場合は、本当に自分のことしかしないで赤ん坊を放ったらかしにする“育児放棄”になる場合がある。
   逆に、駐車場で接触事故を起こしてしまった母親は、自分の非を相手に認めることに何のためらいもない、非を認めることによって自分が相手から責められるのではないかという恐れはあまりない。全くなかったと言えば嘘になるかもしれないが、もし相手から責められたとしても、自分が起こした過失だから自分の責任において誠実な態度で解決するしかないのだ、と思っているに違いない。この姿こそが、乳児期から自身の母親からたっぷりと愛され形成することができた“安定型の愛着スタイル”の姿である。
   昨今の価値観の多様化の環境を考えると、スキー場での母親のような若い方が大半なのかと思っていたが、全くの誤解だった。
   何より一番意味があったのが、迷惑をかけた他人に対して親が誠実に謝る姿を、側にいた我が子が見ていたということである。「おかあさんがいっしょうけんめいあやまっている。」そう思った子どもは、母親の背中を見て同じように誠実な大人に育つに違いない。