11.慰安婦の働き方と報酬額 5) 文玉珠さんの送金など

(「従軍慰安婦問題」決着ーー泥さんが、右派のウソを元から断つ.に対する批判

 泥さんは、文玉珠さんの貯金通帳の内容を勝手に解釈し捏造していく。

1.文玉珠さんが貯めたのは慰安婦の稼ぎではない
 「敗走する日本軍の兵隊から役に立たない軍票をもらい2万円を貯めた。」

 通帳に書かれた2万円が円ではなく軍票ルピーであったので価値がないという主張のようだ。

 泥さん曰く「兵隊から役に立たない軍票をもらった」として、それを戦時郵便局に預金すれば正価の円になることを知っていたならば、文さんは最高に利にさとい方ということになる。残念ながら、終戦そして帰国の間に預金を引き出す機会が無く、1965年日韓基本条約・請求権協定交渉で日本政府が個々の精算を提案したが韓国政府が拒否したため、通帳は残ったものの現金を引き出すことが出来なかった。

 前稿でリンクした李栄薫教授の講義11で、(慰安所の同僚だったヒトミが)「下関に到着しては、郵便貯金を下ろして、大邱に帰りました。その後、子どもを出産しました。」と説明があるのは、ヒトミが戦時郵便貯金システムが稼働していた終戦前(1944年頃)に下関経由で帰国できたからである。

 Wiki(韓国挺身隊問題対策協議会の調査)に文さんの行動が書かれている。終戦時点を起点にさかのぼると下記の月日になる。タイに移動するのは1945年4月23日のビルマ方面軍撤退にほぼ一致している。タイに敗走する日本軍と共に移動し、その途中軍人から軍票を入手する機会はあったかも知れない。ラングーンかタイの軍事郵便局にそれまで稼いだ軍票を預けたことになる。

1942年7月10日 釜山港出港、台湾、シンガポール経由でビルマへ
1942年7~8月  釜山からマンダレー慰安所へ
1944年7~8月  ビルマ・マンダレーからアキャブへ 
 (4~5ヶ月)
(1944年帰国のため同僚のヒトミ達とサイゴンに行くがラングーンに戻るとの証言がある)
1944年12月~1月 ビルマ・アキャブからラングーンへ
 (3~4ヶ月)
1945年4~5月  ビルマ・ラングーンからタイへ
 (1ヶ月)
1945年5~6月  タイ・アユタヤへ
 (3~4ヶ月)
1945年8月 終戦 タイ・アユタヤ
1946年春  帰国船乗船、仁川経由で大邱に帰郷
Wiki文玉珠


文玉珠さんの証言集から「内証言」

「将校達の宴会に呼ばれかわいがられた。彼らのチップ、宿泊で貯金が出来た。酒、たばこももらった。」

 7.慰安婦の働き方と報酬額 1)で、泥さんは「それ以外の経費、たとえば着物や下着や化粧品、日用雑貨、性病以外の医者代、嗜好品、酒、タバコなどは女性が自分で負担しなければなりません。彼女たちは原則として外出も出来ないので、ちょっと手慰みにバクチでもおぼえさせられたら、あっという間にカスられてしまう金額です。」と慰安婦の負担が大きいと述べているが、軍人よりかなりの差し入れがあると語っている。また、慰安所規定や管理人日記を読めばバクチが入る余地がないことも明かである。

マツモトは、わたしたちから切符を受け取るだけですこしも金をくれなかった。

毎晩、集まった切符を文玉珠らは、松本に渡し、月に一回、半額が現金で女性たちに渡された」(裁判の訴状)

(タイの)アユタヤの病院にいるときには、母に送金もした。ラングーンで受け取っていた母からの電報を将校にみせて、「母の葬式に金がいるから、お金を送りたい」というと、許可がでた。貯金からおろして五千円を送金した。係の兵隊にたのむと、「貯金があるのなら、ぜんぶ送ったほうがいい」といった。」(楯師団の慰安婦だった私、137頁138頁)

 前稿で、①利用券制或いは②軍票支払など方法がありマンダレー慰安所規定では②と推定していたが、文さんの証言では①の利用券制度であることが判明した。慰安所経営者(管理人)が毎月、集めた切符(利用券)と営業報告書を持って軍司令部の主計に行き、まとめて料金を受領し送金許可も取っていた。文玉珠さんが回顧録で五千円送金のいきさつを語っている事例がある。主計の許可があれば、送金、預金は可能なのだ。そして係の兵士が全部送った方がよいとアドバイスをしているのは、敗戦を意識していた可能性がある。

2.文玉珠さんは五千円を送金したのか

 泥さんは、昭19.8.18亡失届出の19年5月18日と6月21日の預金900円が「なくした貯金通帳」に記載されていたものだと想定している。

 「文さんはなくした通帳の1万5千円から5千円を引き出したように語っていますが、実際の通帳記録は900円です。おそらく記憶違いでしょう。 」と想像を膨らましているが意味不明である。送金したのは5千円ではなく900円と理解すべきなのか、もしそうだとしても何の証拠もない。

 そして極めつけは「送金方法」であり、泥さんはルピー軍票の束を朝鮮に郵送したと語っている。現金封筒以外は、通帳や原簿の記帳で送金が処理されるわけで、札束を運ぶわけではない。当時は電信で、今は通信回線でその記帳のためのデータ通信が行われている。

 泥さんがそして吉見教授も堀教授も、文さんの貯金通帳の価値を軍票の札束だと考えているようだ。札束ならばインフレで価値が下がるという彼らの解釈は理解できる。彼らは金融や通貨の基本知識を持っていない。

3 敗戦さえなければ大金持ちだったのか 

 「まずルピー軍票を日本円に替えることができません。ルピー軍票を軍事郵便貯金に入れれば、円になりました。しかしこの円は日本政府の規則で、内地に送金できないことになっていました。」と泥さんは解説しているが、軍票を郵便貯金に入れれば日本円になるのは、軍人・軍属の給与令と預金、限定した送金が許されていることを前稿で示した通りである。しかし、本人が内地に帰還し通帳を郵便局に持って行けば引き出せるのである。

 軍事郵便貯金を経由した送金は限定されているが、軍の許可があればコルレス銀行の横浜正金銀行などを経由すれば多額の送金も可能なことが「管理人日記」に頻繁に書かれている。泥さんは「管理人日記」を読まずに投稿をしたと考えられる。

 終戦により金融機関の整理統合やインフレーションなどの発生、それを押さえるための金融緊急措置による預金封鎖や新円切り換えなどにより、1945年終戦当時の文さんの軍事郵便貯金26,145円はその後価値を減ずることになるが、そのような比較は意味がない。1945年の直前の1944年時点の他の物価と比較して貨幣の価値を比較しなければならない。例えば、閣僚や軍人、サラリーマンの給与、貴金属の価格、不動産の価格など。下記の「明治~平成 値段史」のサイトや日銀の企業物価指数のデータで比較することができる。

 文さんがマンダレーで営業していた時(1943年)の月収約400円は総理大臣800円の半分或いは将官並みに相当し、昭和13年の給与所得年収748円の一年分に相当する。26,145円は銀座の土地2.2坪(現在3.5億円、1万3千倍)を買える。他の倍率を調べると、金の価格はグラム4,564円(2015年)/4.61円(1940年)=990倍。日銀企業物価指数で比較すると、710(2015年)/2.319(1944年)=306倍である。

 

参考資料

横浜正金銀行


明治~平成 値段史

 

旧日本軍(陸軍・海軍)の階級と給料 昭和18年

日銀・企業物価指数
昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?

まとめ

 泥さんは紙幣(貨幣)、預金通帳記帳、送金事務について無知であると感じる。なくした通帳を誰も見ていないのに、900円の追加記録がなくした通帳のものであると断定する。そして送金した五千円はその通帳のものだと推定している。誰がその通帳をみたのだろうか。このように何の検証もなく勝手な解釈でストーリーを創りあげる。そして通帳記載の金額をインフレ下の軍票でありさらに現代の価値観で下方評価し「文さんは高給取りではなく虐げられた性奴隷だ」と主張する。デマゴーグの典型である。そのデマを左派学者が支持している。