突然「河野談話」が発表されたのではなく、数年にわたる日本政府と韓国政府の協議の結果、双方が合意して発表に至った経緯がある。(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」1999年6月出版より要約・転載)

1.千田夏光から韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)まで

 1970年代、元新聞記者の千田は元慰安婦、業者、兵士、軍医などに取材し、読み物「従軍慰安婦」正続を出版した。千田は、韓国で認識されていた「戦中の挺身隊動員数が内地と半島合計20万人、うち半島出身が5~7万人」を「半島20万人、うち慰安婦が5~7万人」と誤読して「従軍慰安婦」に書いた。

 戦中、同年代の女学生が挺身隊に動員された経験を持つ尹貞玉は、梨花女子大学で教鞭をとりながら各地で慰安婦の調査を行う。この活動で日韓の研究者や運動家と人脈をつくり知見をひろめていく。韓国側にはほとんど記録が無く、千田や吉田や在日朝鮮人からの情報提供を頼りにしていた。尹貞玉等は自身の挺身隊動員の記憶と千田等の慰安婦記述を重ね合わせ、朝鮮人慰安婦20万人説まで膨らませていく。1990年11月、韓国の女性16団体が参加して韓国挺身隊問題対策協議会結成し尹貞玉を代表に選出。

2.慰安婦のカミングアウトから提訴まで(慰安婦と戦場の性 179頁~)

 1991年8月、挺対協の呼びかけで金学順が元慰安婦と名乗り出た。このテレビ放送を見た文玉珠が同年12月に名乗り出た。12月6日には、35人の韓国人軍人軍属犠牲者の補償(一人二千万円)を高木健一弁護士が代理人となって東京地裁に提訴した。金学順を含む3人の元慰安婦も含まれていた。つづいて翌92年4月には文玉珠ら6人が追加され、匿名をふくむ元慰安婦の原告は計9人となった。

 本来は軍人・軍属の参戦者と遺族が主役だったはずだが、マスコミや支援団体の派手なPR活動もあって、慰安婦だけがクローズアップされ、今も(1999年時点の表現)継続中のこの裁判を新聞は慰安婦訴訟と呼ぶことが多い。

 秦先生は、金学順の訴状を見て「日本政府が責任を負い謝罪をせねばならぬ部分がどこなのか、首を傾げる人が多かろう。」と疑問を呈し高木弁護士に「もう少し説得力のある慰安婦はいないのか」と意見を述べている。

金学順の申告(訴状から)要旨

 1923年吉林省生、生後まもなく父親が死亡し母親と平壌に戻る。貧困のため小学校を4年で中退、金泰元の養女になり14歳から3年間キーセン学校に通う。1939年養父は学順を稼ぎの多い中国に連れて行き、鉄壁鎮の慰安所に入れられ日本軍兵士に性サービス。4ヶ月後に朝鮮人商人の助けで脱出、中国内を転々とし上海で夫婦に。フランス租界で質屋開業、二人の子どもをもうけ、終戦の翌年韓国に帰国。朝鮮戦争で夫を病気で子どもをなくし、その後生活が荒れ生活保護を受ける身になった。

(添付表は、秦先生がまとめた金学順の証言の異同)

詳しくはHAZAMAさんのブログに
「1990年、ついに韓国で火が着いた慰安婦問題 (秦郁彦)」