(速報)
最高裁は、植村隆元朝日記者の慰安婦記事は事実と異なると認定!
産経 2020年11月19日
 

まとめ

 「慰安婦問題」について正しい理解を得ようとして、多くの資料、特に一次資料をさがして紹介してきた。
 日本軍の強制連行説を支持する左派勢力および韓国、北米などの反日勢力は、現在の価値観と法理から「人権問題」だと断定し、日本政府に謝罪と賠償を求めている。いわば事後法(遡及法)の適用である。
 **防止法が公布されたのは、日本では1956年、韓国では2004年である。**は醜業と理解されているが、古来、女性の最後の生活手段だとして社会で認知されてきた。現在でもオランダやドイツなど先進国で合法とされている国が多い。

 

 日本は、日清戦争、日露戦争を経て、朝鮮半島、遼東半島、満州の権益を確保、1910年日韓併合により朝鮮半島を大日本帝国とし、1915年には第一次世界大戦後の処理としてドイツが保有していた山東省の権益を継承、1931年満州事変後1932年満州国の建国、上海など租界への居留など、大陸の権益を拡大していく。この間、軍だけではなく民間人の移民もあり大陸に各種サービスが進出する。飲食店、旅館、遊興施設などが進出すれば、女給、酌婦、店員などの女性が必要となり、醜業を斡旋する女衒などが貧困家庭から女性を集め居留地に送り出していた。この時点では彼らの客は民間と軍の両方であったが、1937年の上海事変と盧溝橋事件から始まる日中戦争による日本軍の増派と長期駐留に対応すべく、内地と半島の女衒が女性を集め日本軍駐留地の近くの慰安所に送り込む。1941年12月に始まった太平洋戦争では、日本軍が進軍していく南方地域まで慰安所が開設されていく。日本軍は、慰安婦や経営者の移動や営業場所の設営に便宜をはかると共に、性病などの衛生管理や防諜対策管理を条件に営業を許可する。
 この日本軍の関与が、戦後吉田等の捏造話「強制連行」に結びつけられていく(朝日新聞報道)。さらに日弁連の戸塚弁護士等が「強制連行」「性奴隷」の捏造話を国連を通して世界中に拡散し、韓国の挺対協に情報提供し、韓国慰安婦運動を政府間の外交問題(河野談話)まで盛り上げる。

 

 日本政府の不手際もあり韓国政府の意向に沿った解決をしたかに見えたが、後日、この火種が炎上し反日運動を加速させるテーマとなった。

 韓国の文政権は、挺対協等の活動家(尹美香議員)を保護し、徴用工裁判では国際法違反を助長し、他にも多くの諍いの種を取り上げ反日政策を推進している。
 日本及び韓国の慰安婦運動家は国際的ネットワークを持ち、北米や東アジアの活動家達と連携し日本政府を攻撃している。朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、北海道新聞や共同通信などのメディアは、偏った記事を書き世論を煽っている。

 

 今年5月、元慰安婦の李容洙さんが挺対協と尹美香議員の悪行を暴露し、尹美香議員は李さんが偽慰安婦だと匂わせる反論を行ている。この対立で30年にわたる挺対協活動が検察の捜査上に取り上げられている。いわゆる「慰安婦ビジネス」で集めた資金を慰安婦のために使わず、不動産取得や私費充当(横領)を行っていることが明るみに出て、韓国における慰安婦運動が見直されている。

 

 韓国慰安婦運動家は、9月末ベルリン市の公共用地に慰安婦像を設置した。日本政府はドイツ政府に撤去を求めているが裁判所の判断待ち。

 慰安婦に関する資料調査において最も注視すべきは慰安婦の証言であるが、ビルマまで従軍した文玉珠さんの記録(森川女史記録)が最も事実を物語っていると感じている。文玉珠さんの記録は後日発見された「日本軍慰安所管理人の日記」の記述により裏付けられている。一方、金学順さん、李容洙さん、金福童さん等の証言は、事実関係を追うことができない。(尹美香前挺対協代表は李容洙さんを偽慰安婦とFBに投稿していた。)慰安婦は日記を書くこともなく日々の記憶が定かではない。

 日本軍捕虜尋問報告第49号のヨリチ軍曹の報告では、朝鮮人慰安婦は「教育程度は低く、幼稚、利己的、気まぐれである」と評している。一方挺対協の活動家は梨花女子大卒が多くインテリで「両班意識」を持っていると臼杵さん(慰安婦支援日本人活動家)が語っていた。
文春オンライン 赤石晋一郎 「挺対協」“嫌韓”を作った組織の30年 #8 3頁
 つまり、運動家は「両班」、慰安婦は「賤民」という身分意識が挺対協の内紛として現れたのだろうと思う。前者は尹美香議員、後者は李容洙さん。
 
 慰安婦のなかで最も敬意をはらわれているのは金福童さん、2019年1月死去後の告別式には政府閣僚や国会議長を初めとする議員団、そして文大統領が弔問した。金福童さんが挺対協に寄付した資金を基に奨学基金を設立など、名誉を後生に残したことになる。金福童さんがこれほどの処遇を受けるのか疑問に思っていたが、吉見義明教授の聞き取り記録を読むとその謎が解けてきた。
 挺対協をモンスターのように育て上げたのは金福童さんだ。

 

 吉見教授の金福童さんからの聞き取り記録の211頁212頁に挺対協の尹美香との出会いが書かれている。挺対協の初期は金福童さんが資金提供していた。金さんは若い頃稼いだ蓄えがあったと語っているが、刺身屋(料理屋)だけの収入で挺対協組織を支えることが出来たのだろうか。元慰安婦ならば、営業を継続していた可能性はある。

吉見義明
ある元日本軍「慰安婦」の回想(6)-金福童さんからの聞き取り 中央大学論集 第37号 2016年3月

帰国から現在までのあらまし
金 解放になっても,私たちは未だに解放されていないのよ.故郷に戻って畑仕事をしてみたら畑仕事もしんどいし.若い時にはあらゆることをやってみたよ,商売として.商売をしながらお金がどんなに大切なものかも分からないでやってたよ.商売も,あらゆる商売を全部やったよ.そうして結局,朝鮮戦争が始まってから釜山に降りて行って,釜山多大浦(タテボ)で刺身屋をやったのよ.

  60歳までタデポで暮らしていたんだけど,ある日,テレビを見ていたら挺身隊慰安婦に行った人は申告しろって,テレビで言ってたのよ.私があそこに行って来たことは誰も知らなかった.誰にも知られないように生きて来たから,テレビにそういうふうに出て来ても誰にも言えないし.あの頃は釜山に金文淑っていう会長がいたのよ.金文淑会長.その人の電話番号が出ていたの.電話をしたら,どこら辺にいるのかって聞かれたよ.それで多大浦の海水浴場に梁山屋って,私は故郷が梁山だから,梁山屋っていう店をやっていると言ったのよ.そしたら見つけやすいじゃない.すぐに訪ねて来たよ.訪ねて来て,NHK 放送と釜山放送を連れて来たのよ.それで近所の人たちが驚いちゃったのよ.あのばあさん,一人で商売をしているのに何かあったんじゃないかって驚いちゃって.それで,何でもない,昔の知り合いが多大浦の見物に来て,私が住んでいると聞いて会いに来たんだって言ったのよ.


 そんなふうに申告したのが60代,60歳の時に申告したんだけど,それから尹美香〔現・韓国挺身隊問題対策協議会代表〕が訪ねて来たのよ.申告は釜山でして,金会長が私を日本に連れて行ったり,釜山でもあっちこっち連れて歩いたりしたんだけど,尹美香が日本に行って見たら,私が日本で出ていたって言って,私を訪ねて来たわけ.あの頃,尹美香は20代でまだ結婚してなかった.私は60代で.それで来て,釜山にいないでソウルに行こうって.それでソウルに行こうとしたら,金会長がすっごく怒ったのよ.ここでも活動できるのに,どうしてソウルにまで行こうとするのかって.でも,どう考えても,ソウルに行けば何人もいるからちょっといいんじゃないかと思ってソウルに来て,ここで何か会議があると言えばそれに合わせて出て来て.当時は挺対協にこんな家〔元「慰安婦」が一緒に住む家〕がなかったのよ.だから何時に汽車に乗ってソウル広場に来いって言われれば来て,挺対協の職員が出迎えに来る.それで会議が終わったらまた釜山に降りて行って.当時は本当に大変な運動をしたんだよ.挺対協にはお金も全然ないじゃない.だから来るたびに汽車賃もかかるし,旅館に泊まらないといけないし.当時は本当に大変だったよ.

 

 だから,挺対協には当時は家もなかった.ナヌムの家は仏教がやっているんだけど,梁山の通度寺から僧侶が来て見て,行ったり来たりするの大変だから伝貰〔不動産を借り受ける方法の一つ〕の家でも一つ買うようにと言って,当時のお金で1億5000万ウォン〔約1500万円〕をかけて,今,ナヌムの家にいるハルモニたちを入居させることになった.それで釜山から上がって来ると,そこで寝るようになったの.当時は,活動をする時には挺対協と一緒にしていたんだけど,当時は50~60人がデモに参加したから.そんなふうにそこに泊まったりしていたんだけど,ハルモニたちが集まることが多いから,ナヌムの家の尼僧が,菩薩さんが一人いるんだけど,その人がナヌムの家に,京畿道広州市の土地をあげて,そこに家を建てろと言って,それでチョンセの家を精算したお金,1億5000万ウォンを元手にして,それでナヌムの家を建てたわけよ.私は行ったり来たりが大変だったから,そこに入って7年間そこで暮らしましたよ.

梁 京畿道広州のナヌムの家に7年?
金 うん.それから1週間に1回ずつデモをする時には挺対協と一緒に活動したの.ナヌムの家は仏教がやっていたけど,挺対協が運営をしたりしてたから,ハルモニたちはソウルに来て挺対協と一緒にデモをして,デモが終わるとまた京畿道に帰ってたわけ.あそこ〔ナヌムの家〕にも博物館ができたでしょ.その博物館を建てるのに,私が当時のお金で1200〔万ウォン〕出して,7年いてみたんだけど,長くかかっても解決されないし,いろんなところ,外国を回って疲れ切っちゃって,それで釜山に帰ってちょっと休むと言って,7年いてから…….

梁 釜山にも7年?
金 うん,博物館建てるのに1200あげて,僧侶が車を持ってなかったから車を一台買ってあげて,釜山に戻って一人で約10年暮らしたよ.

梁 釜山には7年ではなく10年ですか.
金 うん,そうだよ.

梁 7年ではなく,10年?
金 うん.今度は釜山で暮らしたんだけど,身体が丈夫な時にはお金に欲もなかったし.私は若い頃に稼いでおいたものがあったから.政府からお金はまだ一銭も出ていなかった.途中であの大統領が出て来て,私たちに4000万ウォンずつくれた.それから毎月いくらかずつくれるようになったでしょ.


尹美香ら挺対協やヌナムの家は元慰安婦を資金獲得の道具として扱っていた!
 朴裕河教授は、2013年12月から2014年5月までナヌムの家に住んでいた元慰安婦の裵春姫さんと交わした20回の対話をまとめて本を出版した。
 2014年、裵春姫さんが体調を崩し入院した日(4月10日)に、寄付約定書(遺言状)が作成された。約定書はパソコンで作られ元慰安婦とヌナムの家の代表の押印がされていた。裵春姫さんは2ヶ月後死亡した。ヌナムの家は、裵春姫さんの相続人と争い最高裁で勝訴し、財産を取得する。2020年5月にヌナムの家の職員がこの件を告発したことにより、朴裕河教授は対話出版を決断した。
ブログ「犬鍋のヨロナラ漫談やで~」
『日本軍慰安婦、もう一つの声』

 

最後に

 まもなく元慰安婦と登録されている方々はこの世からいなくなる。(現時点生存者は16名)

 挺対協の記録もまともに行われていなく、1993年の日本政府調査団の記録も公開されていない(聞き取りがおざなりだった可能性がある)、75年以前の体験が記憶から消え、証人もまもなく消える。朝鮮人慰安婦よりも多くいた日本人慰安婦も醜業を恥じて沈黙を守り多くは鬼籍に入った。

 ある程度事実関係を知っているのは、尹美香等の活動家だろうが、それを口にすれば自己の犯罪を明らかにすることになる。

 事実は闇の中に消えるのか、どうしたら彼女たちの記憶を呼び戻せるのか?(終わり)

 

慰安婦問題年表
1910年 日韓併合
1937年 上海事変・南京入城、盧溝橋事件、日中戦争勃発
1941年 真珠湾攻撃・太平洋戦争開戦
1945年 敗戦
1948年 大韓民国樹立、朝鮮民主主義人民共和国樹立
1950年 朝鮮戦争勃発 53年休戦
1952年 サンフランシスコ平和条約発効
1958年 日韓会談開始
1965年 日韓基本条約、請求権協定署名・発効

1970,80年代、千田夏光の「従軍慰安婦」シリーズ(挺身隊と慰安婦の混同)
1983年12月 吉田清治「私の戦争犯罪」刊行(強制連行説)
1990年11月 尹貞玉、挺対協結成(千田等の教示)
1991年8月 元慰安婦第一号の金学順が名乗りでる
1991年12月 韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会が日本政府に補償を請求し提訴 (金学順等慰安婦3名も原告に加わる)
1992年1月 朝日のキャンペーン報道と宮沢首相訪韓
1993年6月 宮澤内閣不信任、7月総選挙
1993年7月 日本政府調査団、16名の慰安婦と面接
1993年8月 河野官房長官談話公表
1993年8月 河野自民党総裁として首班指名に臨むが細川氏に敗れ、細川内閣が発足
1994年4月 羽田内閣発足
1994年6月 羽田内閣総辞職、自社さ連立の村山内閣発足
1995年7月 アジア女性基金創立(2007年3月解散)
1996年2月 クマラスワミ報告書、国連人権委員会提出
1997年1月 アジア女性基金、韓国で償い事業開始
1997年12月 金学順死去
1999年12月 「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォ-ラム」東京で開催
2000年12月 「女性国際戦犯法廷」を東京で開催
2006年2月 米最高裁、Joo v. Japan提訴、原告の控訴棄却
2007年7月 ホンダ議員等、121号米下院決議
2014年6月 河野談話公表に至る検証を報告
2014年8月 朝日新聞、吉田証言など慰安婦報道を撤回
2015年12月 日韓外相共同声明
2018年11月 韓国政府は「和解・癒やし財団」の解散を発表(2015年合意の破棄)
2019年1月 挺対協育ての親・元慰安婦金福童死去
2020年4月 尹美香前挺対協代表、国会議員に
2020年5月 元慰安婦・李容洙が挺対協内情を暴露、不正経理など捜査開始