中国共産党は今年7月100周年を迎える。100年前、党結成に集まった青年達と思想は、日本がその母体となっていた。

 

 清国の留学生・李漢俊は14歳で来日、暁星中学校、第八高等学校(名古屋)、東京帝国大学土木科の14年に渡る学業を修め、1918年に帰国し上海に住む。3年後1921年7月23日、李漢俊の自宅に13人の青年達が集まった。6日間の会議の結果「中国共産党」の宣言と綱領をまとめた。
 13人のうち、董必武(法政大学)、李達(第一高等学校)、周沸海(第七高等学校、鹿児島)、李漢俊の4人は日本留学生であった。張国燾、劉仁静、包恵僧、陳公博の4人は北京大学、王尽美と鄧恩明は済南の高校性、毛沢東、何叔衡、陳潭秋の3人は高等師範学校出身。
 毛沢東は13人の末席にいた。周恩来は1917年から来日、受検に望んだが失敗し1919年帰国しフランスに留学していたため上海の第一回共産党大会には出席できなかった。

 当時、マルクスの資本論など社会主義的な著作は、日本の社会主義研究者達がドイツ語やフランス語などから日本語に翻訳していた。李漢俊等の元日本留学生は、日本語から中国語に翻訳し中国国内に頒布していた。

「中国共産党を作った13人」 126頁
 「李漢俊にはすることが山ほどあった。というのも、社会主義に関する知識はほとんど日本語の書籍や雑誌を情報源としていたために、この時期、日本の書籍や雑誌記事は怒濤の勢いで翻訳され、彼もその一翼を荷っていたからである。日本で出版されたばかりの書籍や雑誌をいち早く入手し、間髪をおかずに翻訳して紹介するためには、時間はいくらあっても足りなかった。
 1919年から1922年にかけて、中国語へ翻訳または引用された日本語の雑誌や書籍は膨大な量に上っている。「中国共産党成立史」によれば、翻訳または引用される頻度が最も多かった執筆者として、河上肇、堺利彦、高畠基之、山川菊栄、山川均という、同時代の日本の代表的な社会主義研究者5人の名が挙げられている。また同書の「付録1、日中社会主義文献翻訳対照表」には、これら5人の執筆者を中心に、その他の人も含めて総数約120点もの書籍と雑誌記事名が具体的に列挙されている。実際には、それ以上の数に上っているともいう。
 僅か4年間に、最低でも120冊以上の日本語の書籍が中国語に翻訳され、引用されたのである。なんと驚くべき数量ではないか。そして中国語に翻訳し、引用して論文を執筆した中国人はほとんどが元日本留学生だった。(略)」

新潮新書 譚璐美
中国共産党を作った13人」より

石川 禎浩京大教授
結党100年を迎える中国共産党: 成立までの歴史に残るさまざまな“謎”

 

遠藤誉先生のその後の日中関係解説
100年前の建党時から中国共産党に貢献してきた日本