中途半端なところですが、自己紹介をしたいと思います。



TABIRICO[タビリコ]

この名前は“旅”と、
本名をもじった“リコ”と同時に、スペイン語で「美味しい」をRICO!と表現することから
『美味しい料理をたらふく食べるほどの幸せな気持ちを、
 旅で感じる』

という伝えたい想いを込めて



そして

ANGELA[アンジェラ]

この名は私がカナダでワーホリ就労をしていたとき、
English nameとして職場で使っていたものです。
医療関連の仕事に就いていたので、白衣の天使と呼んでいただけるくらいに
患者さんのことを救える私でありたい という願いを込めて

命名しました。




1983年12月、東京生まれ東京育ち。
中流階級の家庭の第二子として生まれる。

職業は治療家 兼 占い師。


祖父が印刷会社を営んでおり、一人っ子の母のもとに跡継ぎとして父が婿入り。
父はそんな中企業の経営者。母は専業主婦。6歳年上の兄は一般的なサラリーマン。
兄とはカナリ仲がいいですが、同じ家庭で育った実の兄妹という事が疑われるほど性格は真逆。

それなりに裕福な家庭で、何不自由なく愛されて育ったゆえに
バリバリの末っ子気質。
ワガママで、泣き虫で、甘えん坊で・・・


そんなフニャフニャだったワタシは、6歳の時にイジメを受けて登校拒否。
それをキッカケに気が強いクラスの中心核へと変貌を遂げ
学級委員ながら反抗して先生を泣かせたり、
高校を自主退学したり、
でも結構成績は良かったり、
一時期ピアノでプロを目指したり、
本当にワガママ放題生きてきました。


学生時代の苦手科目は英語と恋愛で、いずれもうまくいった試しがありません。


部活(バレーボール)で腰を壊したことをきっかけに、傷を治せる人になりたくて
ドクターではない技術家になるべく大学進学を放棄。

医療系の専門学校に6年間[3年間×2校]通い、国家資格を4つGET。


18歳で患者さんにデビューしたときは

『お師匠さんの30分が3000円・素人に近い私の30分も3000円。
 私にあたってしまった患者さん ごめんなさい、ハズレです…』

なんて、いつも罪悪感に苛まれながら、毎日を乗り越えることに必死。。。
そんな思いとは裏腹に不思議と私の指名数は上がり、
10代の小娘が院内で上位の指名数を得てしまっていました。

そんなバリキャリのように見える私も、一般的に乙女な恋をしたことがあります。
どんなに強がっても、しっかりしていると言われても、ただの女の子だった・・・と実感したのは
大失恋したハタチのとき。


初めての失恋に行き場のない気持ちを引きづりながら過ごしていた日々の中で
もがきながら治療家としての底の浅さを実感していたとき。

ふと目に泊まったのは旅行代理店に貼ってあったポスター。

“バンコクでタイマッサージを習いませんか?”


・・・そして22歳になったばかりの冬、初めての海外にもかかわらず
そのポスターに載っていたキーワード「ワットポーマッサージスクール」のシステムだけ調べて
適当に航空券を手配。
宿も決めずにとにかく旅立ってみた。


降り立ったそこは今まで見たことも無い景色・・・
ノーリサーチだった私は早くも空港で途方に暮れたのです。


22年間守られた日本で暮らしてきた私にとって、そこは
人も言葉も文化もまるで違う別世界だった。




そんな1週間のバンコク生活の中で、
1年以上日本に帰っていないという 25歳の関西弁の男の子に出会った。

彼はコテコテのバックパッカーで、いろんな国やいろんな人間の話を聞かせてくれた。
彼に「世界中をまわって得たこととか感じたことって何?」と聞いたら、こう答えた。

『どこに行っても、
 どんなに外見や文化が違っても、
 人間は人間ってことかな。』


見てきた人だけが行き着く言葉。

当時の私には想像もつかないような別世界の人間の言葉。

自分がどれだけ狭い世界しか知らなかったのか、思い知らされた気がして・・・
“行かなきゃ!!”そう思った。

―――ならば私も見てみよう。
25歳の男の子に出来て、22歳の私にできないことではない!
世界一周は、夢でも非現実的なことでもなんでもない。
“今知ってるワクなんて取っ払って、ありのままの地球に触れてみたい”

大きく人生を変える、1週間の出来事でした。



当時の私を指名してくれていた患者さんのほとんどは、私より年上。
そりゃそうです、私はハタチそこそこでしたから。
そんな人生経験豊富な人が、なぜかお師匠さんでも先輩でもなく私を指名してくれる。
このことに大きな疑問が生まれました。

例えば 美容室に行ったとき、
下っ端の人と店長さんと、料金形態が違うことがあります。
でも、正直 素人の私にはその技術の大きな違いはわかりません。
そもそもデビューしている時点で、代金を頂ける最低限のボーダーラインは超えているわけで
その中で経験が10年の人より3年の人の方が人気を博したりすることがある。

消費者側にとって、その違いは何かと考えたとき…

プロとして最低限の専門技術は持っていて当たり前。
それがプロフェッショナル。


しかし
そのスタートラインより上の
技術だったり、人柄だったり、コミュニケーション力だったりは
年齢や経験年数に関係なく滲み出るその人の空気感で

“またあの人に髪を切ってもらいたい”
“またあの人に会いたい”


って、感じるのだと思う。


つまり・・・“人間力”




同じ経験を同じ年数だけ同じように得ていても、
一般以上にはなれない。



私は治療家として
自分よりも人生の先輩である患者さん達の身体の痛みだけでなく心ごと救おうと思ったとき
一般的な治療家の自分ではいたくないと思いました。

このまま ただ治療家業界で精進していくだけでは、
決定的な何かが足りない と思いました。

とはいえ、人生の時間は限りがあって、みんな同じ時間分しか過ごすことはできない。
ならば
同じ時間を過ごしても、
濃度と密度を濃くするしか方法はない
 のだと。

それには、旅はうってつけだと思ったのです。



これが、私が旅を決意した背景です。




2006年4月、22歳の若さで交際2ヶ月・8歳年上の彼氏と突然入籍。(しかも当時学生)
結婚願望は薄く遠い将来の話だと思っていたのに熱烈なプロプーズを受け、
結婚の流れに乗りました。


旅と世界に全く興味のない夫に

「私は行くけど、あなたはどうする?
 日本で待ってるか・ついてくるかはあなた次第。」

と、自分は世界旅に行くことを告げ
結果として夫は共に世界旅をすることを選択しました。

が。

24/7で四六時中パーソナルタイムがなく常に一緒に居続ける旅生活は、
ストレスの連続で様々な行き違いが有り
お互いの理想を追求しながら相手の理想を応援し合うことができなくなって言い合いが増え、
そのうちに「どうせ言っても伝わらない、こじれるだけ」と
思いを伝えることすら諦めてしまった。


結局 自分の理想を手放すことができなかった私は、
夫と生涯を共にする人生を優先することができず
28歳の私の誕生日に離婚届を提出しました。


20代で結婚と離婚を経験しても尚
地球の魅力に、旅という試練に、魅了され続けています。



矛盾するようですが
旅に出るとき、治療家として患者さんの全てを受け入れる人間力を磨きたいと思いつつも
もし世界を知っていく過程で、
治療家以上に夢中になれることが見つかったのなら
この職に固執する気はありませんでした。


だから、可能性がありそうなこと・興味を持てそうなことは積極的に挑戦しました。


けれど今のところ私には
治療家として生きる使命感以上の魅力を感じるモノには出会えていません。


「これしかない」「これしか出来ない」なんて
微塵にも思わない。

私なら、なんとしてでも・どんな形でだって生き抜いていく自信はある。

だから
『これがやりたい』
そうやって、治療家という道を自らの意思で選択しています。


今の時点では、これ以上に夢中になれて素敵だと思える職には出合っていません。

私は、自分が治療家であること・旅人であることを誇りに思いながら
今日も地球上を放浪しています。



自己紹介




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