わたしに、矢を向けてきた人が

今は、まわりから矢を向けられて

その声を聞く側になっていた不思議。


わたしに、矢を向けてきた人を

今は、わたしが気にかけて

時々、フォローしたりしている不思議。


わたしは

矢を向けてきた人にも、他の人たちと

同じように接し続けてきただけで


誰にも話したことはなかった。


時々、他の人に「大丈夫?嫌な思いしてない?」と聞かれたこともあったけど

「わたしは大丈夫です〜」と答えて

そう気遣ってくれた優しさだけで

わたしにはじゅうぶんだ、と

後からひとりで泣いたりしたこともあった。



よく、やられたらやり返せと言うけれど

わたしは、やられても、ずっと笑顔で返していた。


今は

矢を向けてきた人とでも、世間話して

笑い合ったりできると、なんだか嬉しくなったり

時々、かわいいな、とか、ある時はかわいそうだな

とか思うこともある不思議。



もしかしたら、出会い方とか、立場とか、状況とか

出会う世界が違っていたら

また別の関係になれていたかもしれない。



でも、今は、この立場で、この状況で、この世界で出会ったから

わたしには気づいて、経験して、学ぶべきことがあった。


その人が

今も、心の中では矢を向けているかもしれないけど



好きか嫌いかと聞かれたら

嫌いでもないけど、やっぱり好きにもなれないけど

感謝はしている。



人は、自分に優しくしてくれたり、好いてくれる人には

優しくできるけど

例えば、自分をいじめたり、故意に傷つけてくる人に

同じように優しくできなかったりする。



SNSの世界なら、きっと簡単にブロックして

切ったり止めたりできるんだろう。たぶん。






現実世界で

しかも、そのときは

わたしは、ここでダメなら

もう他に行くところはない

と思っていたし

生きていけない

とまで思っていて


またダメになったら

変われない、未来を変えられない

と思って

必死だったんだろう。




だけど、わたしは、その人を理解することに努めて

向き合ってきてよかったな、と思った。

その人だけじゃなく、今、わたしが「人間」として

置かせてもらっている場所の人たちを。



わたしや、他の人にも矢を向けてしまったその人が

泣きながら何度も「誰にも理解してもらえない」と言っていた。


この方は、自分がしてしまったことにすら

理解していなかったんだ。



誰かに理解してもらいたいのなら

まず自分自身を理解して

自分以外の、自分とは違うひとのことを理解することでしょう、きっと。


わたしは、理解してもらいたい、という気持ちは

持ち合わせてはいなかったのだけど(笑)

自分自身を理解して認めることができたら

自然と、他の人たちを理解できるようになって

とても楽になったんだ。

さすがに、すべての人を理解できるわけじゃないし

理解できなくても、そういうひとなんだなぁ

ってくらいに思うようになった。





自滅して泣いて苦しんでるその人を見て

わたしは今まで通り、他の人と同じように接して

ただ

その人が、自身で気づいて、立ち直ってくれることを

願うだけ。

わたしには、残念ながら、それしかできないな、と。






目の前にある状況ってのは

自分の思想が引き寄せたもので


もし、それが身に覚えのないものならば

そこに、自分にとって、必要なメッセージが隠されている。

それに気づくか、気づかないままか

で人生はまるで違うんだな、と思う。



自分に起きている不運を他人だったり

親だったり、家族だったり、生まれ育った環境のせいにして

自分自身とは向き合わずに

同情を引き寄せても

それは一瞬の快楽で、そのうち簡単に崩れるし

状況は変わらない、同じことを繰り返すんだと思う。





なんて、こんなえらそうに書いてるけど

わたしも、まだまだまだまだ気づいてないこと

気づかなきゃいけないこと

たくさんある。


でも、ひとに言われて気づくんじゃなくて

自分でちゃんと経験して気づきたい。








不思議なんだけどね





なぜだかわからないんだけどね

SNSの世界はともかく

現実で起きていることでも


今は


たぶん大丈夫だって

思えるようになってしまっている不思議。




うん、でも、この「不思議」を大切にしたいし

「不思議」を育てたい。