変化の多くは 「何かをすること」よりも 

「何かをやめること」で起こる。


やる気が出ないときは、
やる気がないのではなく、
「エネルギーの空き容量」がないだけ。


幸せが見つからないのではなく 
幸せを感じられる空き容量がないだけ 。


だから新しいものを得る前に 
余計なエネルギーを手放すこと。


すると、空白ができて、
その空白から次に何かしてみたいという
意欲がわいてくる。



しみずたいき







人間には無限の潜在性がある。
最低にもなれるし最高にもなれる。

自分の存在の内に、初めの一段から最後の一段まで梯子(はしご)の全てが入っている。 


個人にとっての
初めの一段は第一チャクラ、
最後の一段は第七チャクラだ。

つまり、性(セックス)は
梯子を昇れば
聖(サマーディ)にもなり得る。

性エネルギーは下半身にとどまり続ければ
獣になり得るが、 

上に昇れば、それはもっと
神聖なものにもなり得る。


セックスは
ハートまで上昇すれば「愛」になり、
頭頂部まで昇れば「祈り(悟り)」にもなる



 




セックスをサマーディ(悟り)に変換するのが、
人間の持つ無限の可能性だ。

何度もオーガズムを繰り返すことによって、
古いあなたは解体され、生まれ変わる。 

性(セックス)は 
聖(サマーディ・目覚め)になる

セックスを通じて究極のエクスタシーが あなたの中に入って来る。セックスはあなたと究極(神)との間の架け橋ともなり得る。

グルジェフは、女性は、男性を通してしか
道を達成出来ないと言っている。


これは女性は、男性とのまぐあいを通じて
光明(悟り)を得ることができる…という意味である。

オーガズムに達した時の
トランス・瞑想状態が最も
神の世界に近づく瞬間なのである。

ただ何事にもプロセスがあって
突然に性が 聖なるものに変わるわけではない。

性エネルギーは、愛の力によって
まずハートにまで引き上げられる。

性のエネルギーは、ハートセンターにおいて
愛のエネルギーに変容する。

そして 

愛のエネルギーは、頭頂部に到達すると
祈り(悟り)のエネルギーに変容する。

祈り(悟り)の中で
セックスは残ることはできない。  

(※祈り(聖)は如来次元、愛を菩薩界、
性を人間界とも捉えられる。)

愛は 
性(動)と聖(静)の
ちょうど中間にあり

セックスから
祈り(超意識)への架け橋である。

ハートが鍵を握っているということは、
誰でもよいわけではない。

愛する相手とだけ
性的関係を持つ方がいいだろう。

愛のある交流が起これば、
セックスは 愛(ハート)と結びつくようになる。

あなたが愛してると感じたら、 
性エネルギーは上方に動き始める。

そして、ハートに到達し
さらに上にエネルギーが動き始めると、
愛が祈りにシフトしていく。 






祈り・悟りの次元にまで上昇すると
内なる寺院(瞑想センター)に到達する

すると、
祈りにも似たセックスが起こり始める。

祈りにも似たセックスのことを
"まぐあい"と云う。

この祈りの領域で

(つまり 巫女であるアナタに
オーガズムの波が来ている最中に)

あなたはパートナーの願いを
なる寺院に届けて、
相手の心願を成就させることもできる。


子宮を持つ女性にはそれだけの
ポテンシャルが秘められている。

しかし、意識の眠っている人は、
未来にしがみつこうとするので、

セックスを運動のように捉えて
ことが終わると余韻にひたることなく、 
すぐ自我の活動が再開される。
 
そうではなく、

わたし達は、内なる愛(ハート)を通して
性のエネルギーを引き上げる必要がある。 




人間には3つの重要なセンターがある。

セックス・センター

ハート・センター

サハスラーラ

真ん中のハートセンターから、
私たちは両方向に広がることができるが、


あなたは まず 愛から
ハートから始めないといけない。

愛を通して、性エネルギーを引き上げたら、
今度は 祈りを通して、
愛のエネルギーを引き上げなければならない

あなたが祈りの次元にいるなら、サハスラーラ(寺院の中の一千枚の花弁を持つ蓮)が開く。


そのとき セックスは完全に消え去る。


だから、

ックスの中に祈りはなく、

祈りの中にセックスはない。 


愛のなかで両者は出会うのである。

愛はこの世界(性)に入る扉であり、

もう一つの世界(聖)に入る扉なのである。