【私の文字人生】

誤字脱字も多いし
物語など書けやしないが
この48歳の人生の中で続けてきた
私の取り柄。


車の走行距離数と
読書読破冊数ぐらい。

車の走行距離数は、97万キロだ。
いったい地球1周を何回したのか?

読書読破冊数は
多分3万冊以上は超え
4万冊に近いはずだ。

いま日本の大学生は
4年間読書冊数が100冊ほどで
米大学生は
400冊もの本を読んでいるとか。

さらに名門校は 
1000冊以上を
超える学校もあるとか。

日本人は、だいぶいや 
かなり本離れしているね。

別に本を読まなくてもいいけど。

実際、本好きの私でも
私の子たちは
ほとんど本を読まない。笑


私は、自分の人生で
本を読む楽しみを
無くしたくはない。

幼稚園時代の3年間は
母に連れられ図書館に行くたびに
字が読めなくても
絵本を10冊借りるのをせがんでいた。

毎日ページをめくりながら
自分で話しを作り楽しんでいた。

小学生になると
字が読める喜びに出会い、
空いている時間は
全て本に使いたい位だった。

学校の図書館は、日に何度も足を運び 
地域の図書館や、中央図書館にも通い、
隣の区や町の図書館までも足を伸ばした。
知らない図書館はないぐらいだった。

毎日通う小学校までの家から往復2時間
バスに揺られながらも本を読み
歩く時も二ノ宮金次郎に倣い
歩きながらも本を読み
大抵毎月50冊〜60冊の本を読んでいた。

そのペースは高校卒業するまでは
続いていたと思う。

もちろん卒業後も更に読書数は伸びたが
育児中は月20冊位に落ち
現在もペースが落ちたものの
集中して読むときは最低でも10冊は
まだ本は読む。 

本屋に行くと、大人買いだ。
つい3万円〜5万円位買うことは珍しくない。

何を削ってもここは譲れないほど
母子手当ても消えてしまうのだから
悩みの種にもなった。
今はもちろんそれは控えている

本がまとめて捨てられていると
持ち主に許可をもらい
持って帰ってきてしまうほどだ。

それについ本屋の前を通ると
寄ってしまい買ってしまう。

最近は買ったものの
読まずに積んである本が
マンションにも200冊ぐらい
置いてある。
山里の家も本だらけだ
困ったもんだ。

ましてやいつも大抵10冊は並列にして読むから
出張に行く時はそれを持っていかないと
落ち着かず困っちゃうのでいつもカバンは
本で荷物が重いのだ。

新幹線の時はこれ
在来線の時はこっち。
トイレではこちら
お風呂に入る時はあれ。
気分転換に読む時はこれ
眠る前はそれ、とかね。

だからカバンが本で重いのが悩みの種。
それから、なかなか本を手放せない
これも困り事の1つ。

最近はKindleがあるので便利だ。
ペーパーと読み分けている。

だけどやはりめくる感やにおいが恋しくて
ペーパーの本が多くなる。

それから、みなさんの中にも
同じ気質の人がいると思うが
気になる作家がいたらね。
全作読破しないと気が済まない。

その著者に影響を与えた人がいるのなら
その人の本も読まなければ気がすまない。

調べものの時は、1つのテーマの分野の本は
最低100冊読まなければ納得いかない。

例えば自分がコーチングの仕事をしていたら、
自分のコーチングと何が違うのか
どこがどう違う価値があるのか
他の方は何をもってして行っているのか
何を伝えたくて書いたのかなど

自分で明確にするために
その関連本は日本で読める本は可能な限り
読まないと気がすまない、とかね。

そこに書かれてあるメソッドや
スキルを使うか使わないかは別として
勿論好き嫌いは置いておいて

そこから派生して生まれたものや
影響を与えた人物や考え方など調べてくうちに
結果的にかなりの本を読む事になってしまう。

不幸の始まりと言うやつか。笑

いやいやそんな冊数に限らず
本が楽しかっただけだ。

自分の考えてることや言いたいことを
文字と言う表現で表すことができる
この文化に私はとても執着があるのだ。

読むと言うことにも執拗な欲がある。

 
小学生時は特に、新書の本棚や
自分が気になるここからここまでの棚があると
全部読まないと気が済まない。

まだ誰も読んでいない読書未記入名の本を
見つけたり、いやわざわざ見つけて読むのだ。

とにかくお気づきのようにしつこいのだ。
母にも「お前がはくどい」と言われてきたが
書くのも、話すのも長いのだ。

一旦始まったら終わりを知らない。
誰にも止められない。

これが私だ。
これまでも変わらなかったが
いまさら変われやしない。
無論、変わる気もない。

虐待期間が長かったことが良かったのだ。
『お前はだめな人間だ』と言われてきたからこそ
私の何がダメなのか。
どうしたら母が私を愛するのか。

その答えを見つけたくて
文字が読めるようになり
無我夢中になって探してあるいたんだ。

それは母が読書が好きだったから
母が好きな本の世界にきっと答えはあると
そう勘違いして、その答えを見出すために
調べるために本を読んだのが
本当は正直なところだ。

そうこうしているうちに、だんだんと
母が言う通りのダメな奴だと自覚していった。

何も知らない何もわからない自分は
自分以外の全てが天才で素晴らしくて
こんなどうにもならない私。
生きているのは申し訳ない自分だが、
せめて少しでも良くなりたい。

生きている時間を
少しでも楽しく過ごすために、
本を読むこと、書くことに
依存する楽しみを持ち
過ごすようになっただけなんだ。

休日の楽しみ方はいまでも
本屋さんに行ったり
古本屋さん巡ったりすることだ。

最近ではじっくり考えて読める本は少なくなり、
あっという間に読み終わってしまい
本の重みが少しずつ変わってきている。

読みやすく平易な本が多くなってはきたけれど、
それでも相変わらず、読書は楽しい。

生きてる間一冊でも多く良い本に出会いたい。
自分の知らない世界に出会うのは面白い。

だからこそ1冊でもたくさんの本を読みたく
小学生時代からオリジナル速読法を
見出しだほどだ。

高校の時は、速読関係の本を読破して
技を身につけて、更に進化させ
眼球運動も行い自分の速読を身につけた。

だが大雑把に読む本もあれば
じっくり読む本もある。

さらに加えて自分の場合は、
誰かの本を読んだときに
ディベートノートや気づきノートを書く。

基本、本には書き込みはしない。
そのノートや要点をまとめるとかはせず、
自分がそれを伝える場合はどうするかとか、
反対意見が湧いてきたらそれに対しての
自分のディベートや

もちろんインスピレーションが湧いた事もだが
そのテーマで話すこととなった場合は
自分はどう話すかなど、
そのテーマでセミナー1つを作れるほど
書いたりして遊んでいることが多い。

最近はそんなことしてないが。

このコロナに合わせて体調が悪くなったいま
久しぶりにそんな衝動に駆られた本に
昨日今日出会った。
そんな時はたまらない。

そんなこともせず
純粋に楽しめる小説も好きだ。

大人になってからは
古典を読むこともなくなったが 
最近また古典や日本文学の本を読みたいと思う。

中でも一番は児童文学を読み直したい。
いまでも本屋では児童文学の前の棚に立つ。

私のことを「スピリチュアルな世界の人」と
よく言う人達が多いが、自分では自覚は無いし
その系統の本は実は少ない。

とにもかくにも文字に対しての執着が強いから
ちょっとした広告でも、ちょっとしたチラシや
街角にある文字でも、紙であれば尚更のこと
文字は何にでも反応し関心を持ち読んでしまう。

断っておくが、だからといって、
書くのは、けして上手くはない。
好きではあるが上手くはないこと自覚してる。

言葉を使い話すのは好きだし
面白いし得意だ。
口から出るに任せて話すのには
苦労したことはないから
話しは面白い。

だから表現やプレゼンテーション指導や
国語の指導の依頼はある。

両親には褒められたことのない人生だが
1つだけあるとしたならそれは声だけだ。
旦那様からも朗読やナレーションの仕事は戴く。
でも実は自分の声が好きじゃないのだ。

でも好きだからと言って
得意か、上手か下手か。
それで食えるか食えないかは
別の問題であることは忘れずに。

人に自慢するために読んできたわけではないが
とある芸能人16歳の年間100冊以上本読むという
記事をきっかけに自分を振り返ってみたのだ。

私も活字中毒で依存症なんだ。笑

私にでも続けられてきたことがあり
何の力がついたかと言ったならば
表現すると言うパフォーマンス能力には
影響があったなと言う発見に繋がった。

もし私に来世があるならば
いつか旦那さまのように
脚本やお話作りに挑戦したいものだ。
物書きとしての人生をおさめる。

いや、役者にも興味はあるな。笑

それはさておき、生きている限り
いろんなジャンルに興味を持って
体験することは良いことだね。

たまたま私はそれが本だっただけ。

最近は老眼が進んでしまい
文字を読むのが苦痛になってきた。
これは本当に残念である。

今はたくさんの本を読むと言うことよりも、
味わい深く読める良書一冊に出会う希望が強い。

これまで読んできた中で大事な本を
再びじっくり読み返すその楽しみが
今は何より嬉しい。