【ある思い、、】

昨日映画を観た。

今日大阪に帰る前に、
那覇の桜坂劇場に気になってた
ドキャメンタリー映画
「夜明け前のうた 
見棄てられた沖縄の精神障害者」
を観てきた。

私宅監置の歴史を4年にわたり追い掛けた
フリーテレビディレクターの原義和さんが
創作場面を織り交ぜ製作した
ドキュメンタリー映画だ。

今のこの想いをどこに
ぶつければいいのだろうか、、

誰も責めることができない。
いつの世も闇を抱えているものだ。

その被害者だけでなく
加害者も苦悩していたのだろうと
信じていたい。

だがしかしその起きた実際の出来事は
想像を絶した。

人がこの世に生まれて
見捨てられると言うよりも
“生きながらにして消された人たち”がいた。

永遠に自由のない時の上に立ちはばかり
平然と平和を叫んで生きるなど
私にはできやしない。

言葉になどは表せやしない。
いのち尊厳と眞の平和とは何だろうか、、。

胎教からの改革をミッションと掲げ
“いのちの胎話士”と名乗り

目に見えない心の世界に携わることに決め
意識環境を整えて自分の代から変わるため

“へぇとわぁのよなおし”で
いのちの平和を願って活動すると決めた
16歳の私のその根幹は

貧困で子沢山の中、学習障がいがあっため
口べらして親に捨てられ虐げられ
拾われた先で家畜以下の扱いを受け
教育も受けられず育った父の母

母親が死に父の前妻と後妻からいじめられ
人と比べられて育ち酒乱となった跡取りが居る
長男の家に嫁ぐもその家族に虐げられ耐えかね
離縁して都会に兄妹で連れて出てきた母に
生きて行くために、まさか捨られた祖父。

その後、
武士の生まれを捨て浅草にかまどを開くため
駆け落ちした善良夫婦に拾われ跡取りとして
育てられたが売り歩く商売が合わず
跡取れないことを伝え
人の役に立つ仕事をするなら許すと言われ
人の命を救うためと消防官になるが
まさかの戦争で出兵となる。

数々の戦地で「お前は生き残れ」と言われ
最後広島の原爆投下の時も、私用を託され
爆心地から離れたところに出かけたことで
運良く1人だけ難を逃れた祖父。

その後、街に戻り被爆しながらも
衛生班として死体処理等に関わり
終戦を迎え東京に戻るも心は混乱。

神仏の信仰をして神棚を焼き
心に傷を負う中、その翌年私の母が生まれた。

妊婦ながら戦火の中家を守る祖母の恐怖と
祖父の戦争のトラウマにより
軍隊仕込みの折檻で育てられたことで
あの暴力と精神の混乱の母をつくり

父の母の家に嫁つぎ
祖母の虐げられた魂の暴発による
言葉のハラスメントでトラウマをつくり

私も虐げられて育てられた。

それがわかって
母を赦すことができた。

そしてこれはまだ氷山の一角で
これから闇の時代がやってくる。

いつかその闇が現れて
私たちは本当の平和を創る生き方を
自ら問いかけ生きなくてはと悟り
セラピストとして生きることを
16歳の時に誓ったのだ。

私は小さな時から、
知的障がいと呼ばれたり
精神症の方や
ジェンダーに悩む人たちが
周りにいた。

その子たちと過ごす時間は
とても幸せだった。

なぜならとても命が 
優しかったから。

そう、そしていつしか
私は差別と戦いのない
平和な世界を願うようになっていった。

人が人らしく、
生きることができる世に。

許し合って認め合って分かち合う。
そんなことができる世の中に。

人はまるっきり違うのだから。

生きていてよかった。
生まれてよかった。
産んでよかった。

そう思える人生が広がったら
ステキなのにとやはり願ってやまない。

封じ込められてきた歴史がある。

精神の病いにかかった人たちの隔離を
法律で定め制度として私宅監置の歴史が
日本にある。

国がそれを許可したと言うのは
世界を見ても稀だと言う。

戦後の日本は1950年、 
精神病者監護法は廃止となり、
精神障害者の私宅監置も禁止され、都道府県に
公立の精神病院の設置が義務づけられた。

しかし、米軍による統治が続いた沖縄では、
精神科医療施設の不足を背景に、
1960年にできた琉球精神衛生法でも
私宅監置は認められ
本土復帰するまで続いたと言う。

1966年の実態調査では、
沖縄の精神疾患の有病率の高さは
日本本土に比べ約2倍だったという。
さらに沖縄戦当時、子どもだった世代で多いと
指摘されていた。

沖縄には精神医療施設ができたのは
だいぶたってからである。

普通と違うと言うだけで家族の恥とされ、
国で廃止された法律とはいえども
沖縄では戦後27年たったあとも
長いこと私宅監置されてたと言う。

私宅監置の小屋は、
木の枝を積み重ねたものが多く
それ以外にコンクリート造りで鉄の門扉と
まるで刑務所の独房のような印象だ。

それも人家から目立たぬ森や茂みの中にあり、
家族が必死に監置所の存在や本人を
隠したかったのが伝わってくる。

収容された監置者は、
狭い空間2畳あるかないか。
横たわることができるぐらいの場所。
トイレもなく、ムシロがあれば上等。

身内の恥とばかりに
狭い座敷牢に閉じこめられた。

家族が食事を与えるなど
世話をしていたかどうか微妙。
政府が面倒を見る訳もないだろし、、。

しかし中には食事もろくに与えず 
餓死させる目的もあったようだ。

裸のものもいたようだ。

精神障がい者といっても、
時折、発作を起こし暴れる程度で、
他人の命を脅かしたり迷惑を及ぼすような
存在ではない。

年頃になったら誰かに
危害を与えては大変だとか、
悲しみにくれたはて魂が折れた人たち。
知的障がい者や全盲の人たち。

それでも1人の監置期間は
短くても6年ぐらいだったと。

映画の中の「ふじさん」は
親に結婚反対され恋人と別れた後に精神が病み
そのことがきっかけに発症し
保護されるまでの監置年数は20年もだ。
それも裸で糞にょうまみれの家畜以下の古屋で。

その後も、たらい回しとなり
最後は特養のホームで
死を迎えたと言う。

どんな人であろうと
自分の人生を生きようとする自由と
命の尊厳はあって欲しいと願う。
一人一人の命の輝きなのだから。

隔離という暗黒に生きるしかなかいなか
口を閉ざしただけでなく生きながらにして
消されていった沖縄の精神をいためた者達。

戦争の残した傷跡、そして日本に、
母国沖縄の国に、家族に
見棄てられた中、死を迎えた人たち。

この映画制作のきっかけは、
日本政府が沖縄に派遣した精神科医が
私宅監置された人々を撮影した
数十枚の古いポジフィルムに出合ったことから。

粗末な監置小屋の格子越しに
こちらを見据える男性の鋭い眼光。

「あなたはなぜ私を見ているのか」
と問いかけられたように感じたという。

写真を託され保管されていた方からも
意義を認めつつも
「こんなもの出すわけにはいきませんから」
と話していたという。

その方が亡くなり、監督が
「この人たちに会い、伏せられてきた歴史を、
世に問うべきではないか」と調査を始め
制作された映画なのだ。

実際にその写真を撮った医師は
まだ健在されていて年老いてはいたが
映画の中で当時のことを話されていた。

今の時代は、様々な体験をしても
吐き出す場所や寄り添う人々
自由に表現できる場が与えられている。

さらに目に見えない心を扱う分野や
トラウマを癒すセラピーや
スピリチュアルな分野があり
ヒーリングがあり
様々なケアができる存在達がいる。
 

そのことに改めて
今日ほど感謝をした事はない。

そして私もその中の1人であり、
この道を歩むことになった
自分の生きる意味を思い出した。

だからこその
“へぇ〜”•“わぁ〜”の世直し。

自分の代から治していくことをするために
泣いて笑って消化して魂が喜ぶ道に誘いたいて
私はあらゆることをしたかったし、やって来た。

この仕事の社会的意味は最初から導かれていた。

だからこそ、
育てにくい、普通と違うという子をもつ両親や
生きにくいとかつてのこどもたちが
私のところに来られるし

私こそがインディゴであったし
その癒しが必要だったのだ。

そして消されていった彼らから
歌の力にも改めて勇気づけられた。

母屋の近くたかが10m先の小屋に閉じ込められていた人は母が歌う賛美歌を聞き続け、
私宅監置を出た後に、よく母が歌っていた
その讃美歌を歌っていたという。

関係者がその監置前で慰霊に、彼が歌っていた
賛美歌「いつくしみ深き」を歌った。

20年間も閉じ込められたその中で
生きてきた女性は歌を歌っていたという。
彼女がよく歌っていたと言う「我は海の子」が
紹介された。

また、ある人が閉じ込められるまでは、
空高く届くような歌声で歌を歌ってたが
閉じ込められてから歌も歌わなくなり、
声も出さなくなったと。

決して人に危害を加えることはない
優しい人だったのに、年頃になって
誰かをおそったら怖いと言う
ただそれだけの理由で閉じ込められた。

また盲目の人が長い間閉じ込められ
救出された後歌の素晴らしさに出会い、
映画の中で彼女が口ずさんだその歌は
「僕らはみんな生きている」だった。

私も虐げられていた幼き時代に
このよく歌を歌っていた。
生きる喜びを感じたからだ。

この女性が口ずさんだ時、
思い出したのだ。
あの日々を。歌い続けたその思いを。

そして歌の存在に感謝が込み上げた。
同時に涙した。

人はなぜ歌うかって?
そこに理由などあるのか?

歌うことは生きることそのものなのだから。

映画の中で紹介された言葉が印象深い。

私宅監置に閉じ込められていた兄を持つ
弟さんが話されたいた。

小さな頃から一緒に過ごした兄。
自分たちの生活を守るため
兄を閉じ込めたことに
家族に憤りをずっと感じていたようだ。

ずっと兄の味方だったと。

同時にそうせざるを得ない
家族の状況や時代背景もわかりつつ、
理不尽な思いを抱えながら
またその人も苦しんできたのだ。

映画の中で言っていたことが心に残っている、

「本当の平和は、
病気の人も健康な人も
隅々生きることだ」