自分のことを何と呼びますか? | 自己治癒力向上大作戦

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ごく稀に
「ひろの先生」と呼ぶ方がありますが

その希な例を除き

「ひろの」「ひろのさん」「ひろのちゃん」と呼ばれています

 

わたし自身はわたしのことを

「わたし」と呼びます

 

たぶん、凄くシンプルです

 

フクザツな人になると

職場では姓で呼ばれ

知人には名前で呼ばれ

近しい友人にはあだ名で呼ばれ

配偶者からは「おまえ」

子どもからは「おかあさん」

子どもの友だちからは「おばちゃん」

子どもの友だちのお母さんからは「〇〇ちゃんママ」

実家では「お姉ちゃん」と呼ばれ

 

自身のことを

わたし

おかあさん

おねえちゃん

おばちゃん

…と使い分けします

 

 

東京にいたとき

息子の友だちのママからは

「ゆたかちゃんママ」

犬のお散歩友だちには

「ニコちゃんママ」と呼ばれることもあり

息子がいたときは

自分のことを「かあさん」と言うこともありましたが

和歌山に来てからは実にシンプル

 

「名前」と「わたし」で用が足りちゃうのです

 

呼ばれ方

と一人称がいろんなバリエーションを持つ

ということは

それだけいろんな役割を持つということでもあり

その役割に応じた振る舞いを

使い分けているということでもあります

 

意識していようがいまいが

程度の差はあるでしょうが

微妙な違いがあるのだと思います

 

親の前では娘らしく

弟妹の前ではおねえちゃんらしく

夫の前では妻らしく

子どもの前では母親らしい振る舞いをする

 

その切り替えに

自分の呼び方を変えるのではないでしょうか

ひとはいろんな側面を持っているので

そのどれもが「わたし」であることに

違いはないと思うのですが

それぞれの場面での「役割」のために

いつも少しずつなおざりにしている部分があるのだとしたら

それって

つらくは無いのかな?

 

そんなことを考えました

 

 

 

ずっと前にNPOの活動仲間が

「これから(子どもの)学校行くから

いったん家に帰って着替えないと」

と言ったことがあります

 

用は、週末の地域のイベントで使う用具の確認とか

そういう感じのことだったかと…

 

エスニックなチュニックにジーンズ

というカジュアルな格好をしてはいたけれど

なぜ、着替える必要があるのか

わたしはよくわからなかったので

「そのままじゃダメなの?」と聞きました

 

帰ってきたこたえが

「いや、ダメってわけじゃないけど

親として間違いの無い格好しとかないと

子どもが何言われるかわかんないからね」

 

「親として間違いの無い格好」というのが

「ある」

ということを知らなかったわたしは

それがいったいどういうモノなのか

聞いて覚えておかなきゃいけない!

と焦りました

 

ブラウス、カーディガン

タイトスカートやオーソドックスなパンツ

 

???

 

会議の重要度や

集まりの形式

何をするのかというTPOによって

身なりを変えるのは

まぁ、エチケットの範囲かと思いますが

 

ともかく

子どもが通う学校に行くに当たり

エスニックな雰囲気のチュニック

&ジーンズは

間違いなのだという認識は

わたしには無かったので

それはそれは驚き、混乱しました

 

きっとわたしは

全面的に間違っているガーン

 

「お母さんらしい身なり」

という発想自体が無かったので

新鮮でもありましたが

いささかショックでした

 

で、思い出したのが

学生時代に母によく言われた

「もう少し娘さんらしい格好して」

 

母の「娘らしい」イメージとは

大きく食い違うのであろうことはわかりましたが

母のいう「娘らしい」格好をすることの

意味がわからなかったので

好きな格好をしていました

 

女らしく

男らしく…というジェンダーとはべつに

お母さんらしく

娘さんらしく

嫁らしく

年寄りらしく

社長らしく

子どもらしく…と

果てしなくその場その場での「らしさ」を求められ

その「らしさ」通りに振る舞わねばならないのだとしたら

たぶん

わたしは発狂したと思います

 

器用じゃ無いから

 

そこで期待される身なりや振る舞いに応えるよりも

わたしにできることをしたいから

 

たとえそれが「波紋を起こす」ことであっても

 

名前意外にいちばん呼ばれた

「ゆたかちゃんママ」は

わたしにとって

「はい、ゆたかを生んだのはわたしです」

程度に当たり前のことで

そこに期待される「らしさ」があったのか無かったのか

それさえ気にしたことがないくらい

すんなり溶けてゆく響きでした

 

どんな自分であっても

そもそも「わたし」が存在するのではなく

流動的に変化し続ける「わたしを取り巻く関係性」のなかでしか

「わたし」を認識するしかないわけですから

どんなわたしでも

間違いということはないのだと思います

 

 

それにしても

「おかあさん」という役割を与えてくれた息子には

いろんな経験をさせてもらったな

 

 

もうすぐ2年ぶりに帰ってきます

 

久しぶりに会う息子に対して

わたしが自分のことを何と呼ぶのだろう

 

目の前に現れないことにはわかりませんが

ちょっと楽しみです

 

 

 

ひろの拝