製鋼所の溶鉱炉で作っているのは鉄。電力会社の原子炉で作っているのは〇〇〇〇〇〇。 | 自己治癒力向上大作戦

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8月8日

黒田レオンさんの

「原爆と平和についてのお話会」を

開催しました

 

昨日は長崎に原爆が投下された日、

記念式典では

長崎市長の平和宣言のなかで

「核兵器禁止条約」に批准するよう

あらためて政府に要求が出されました

 

広島の慰霊碑には

「過ちは繰り返しませぬから」

という言葉が刻まれています

 

被爆者の過ちなのかと

目くじらをたてる人がいるそうですが、

核兵器を使用したことは

「人類の過ち」だという意味です

 

科学の進歩によって

人の手でつくりだされた核兵器を

実験場ではなく

「暮らしの場」に用いてわかったことは

その非人道性でした

 

それを人類みんなの教訓

共通理解として伝えていくために

唯一の被爆国だからこそ言えることだと思います

 



 

レオンさんは広島で6歳のときに

被爆されました

奇跡的に無傷ではありましたが

放射線を浴び

放射能を含む水を飲み

放射能が舞う空気を吸い

子どもの頃は学校を長期間休むこともあり

小学校は7年かけて卒業なさっています

 

 

 

レオンさんはもともと広島の方ではありません

 

お父様は東京工業大学の研究者でした

 

先端化学の研究者であっても

終戦間際になると

召集令状が送られてきたそうです

 

のちに聞いたところでは

そのころになると

召集令状によって集められたのは

年配者、障碍者も多く

訓練がされるわけでもなく

ひたすら「心構え」の訓示を聞かされたそうです

 

初日の「心構え」が終わり

教官からの

「これでも戦いたくないやつはいるか?」

との問いに複数の手があがりました

 

挙手したものは

教官の革のスリッパで

顔をさんざん殴られたそうです

 

二日目にも同じ問いがあり

さすがに挙手は減ったそうです

 

三日目はついに

レオンさんのお父さんだけになりました

 

初日と二日目に殴られ

顔を大きく腫らしたお父様に

教官はたずねました

「なぜそんなに嫌なんだ」

 

「わたしは拳銃も鉄砲ももったことはありません

戦場にいったところで何の役にもたたないでしょう

ですが化学の研究者です

試験管、ビーカー、フラスコを持たせていただければ

必ず皇軍の役に立ちましょう」

 

というようなことをおっしゃったそうです

 

すると「帰ってよし」となり

家に帰ることを許されたものの

広島文理大学(現広島大学)に転属、

砂糖から燃料をつくる研究に携わることになり

一家で広島に移り住んで間もなく

原爆投下…だったそうです

 



お父様、

徴兵は免れたものの

広島へ転属になったこと

 

広島には

レオンさんの父、母(臨月)

レオンさんのお母さんの末弟(13才)

レオンさん、レオンさんの妹

レオンさんの弟、

の6人で赴いたこと


その全員が無傷で生き延びたこと

 

爆心地から2kmほどのところにあった

レオンさんの家は

付近の建物がことごとく

爆風で倒壊したにもかかわらず

家の角が爆心地に向いていて

「面」で爆風を受けなかったためか

柱の多い構造だったためか

倒壊をまぬかれたこと

 

様々な奇跡とも思えるような偶然が重なり

わたしたちがこのように

体験談を聴けるのかと思うと

その貴重な縁の大切さが身に沁みます

 

 と同時に戦争が

どれほど人の運命を左右し

どれほど人の命を鉄砲玉のように消費し

どれほど人の心と体に傷を残すのか

戦禍を体験した人の物語から

恐怖と痛みを感じるのです



 

原爆は1945年8月6日の8:15に

相生橋を目標に投下され

地上約500mのところで爆発

 

周辺の市街地では

焼夷弾が降り注ぐような「空襲」が

幾度も繰り返されていましたが

広島市街に「空襲警報」が鳴り響いても

実際に空襲が行われることはなく

いつも解除されていたといいます

 

おそらく純粋な原爆の威力を測るために

無傷のまま温存したのではないかと

いわれています

 

その日も8時ごろに空襲警報が鳴ったものの

すぐに解除になったそうでう

 

上空1万メートルほどの高度を飛ぶ

エノラゲイから

何かが落ちてきて

パラシュートが開き

閃光が走るのを

多くの人が見上げていたといいます

 

爆心地に近かった人は

瞬時にその熱線で蒸発

もしくは黒焦げになりました

 

「ピカドン」や「きのこ雲」

というイメージですが

きのこ雲の下にいた人たちは

「ピカ」という閃光は感じたものの

次にくる衝撃波は「ドン」

などというものではなく

何が起きたのかわからないような

凄まじさでした

 

遠目には「きのこ雲」に見えたものは

実は「火柱」だったとも言われていて

衝撃波がおさまると

雲一つない青空だった空は

真っ黒な雲に覆われて薄暗くなっていました

 

炎、もしくは崩れ落ちた建物に阻まれつつ

動ける人は

どうにか生き延びようと

がれきと化した街を彷徨いました

 

とてつもないことが起きたことだけは確かで

だれもが生き延びることに必死で

原爆投下直後の様子を捉えた写真は

多くありません


「戦意を削ぐような写真を撮ってはならぬ」

という国からの通達も効いていました

 

1945年8月6日午前11時頃の

御幸橋の様子を

中国新聞のカメラマンが撮影したものです

原爆投下後3時間ほどの11時ごろに撮影された爆心地から2kmほどの地点にある御幸橋の様子

Nスぺ「きのこ雲の下で何が起きていたのか」で詳しく描かれています

 

レオンさんはこの御幸橋に

家にあった履物や

倒壊した家から探り出した履物を抱えて

焼けた地面を裸足で歩く人のために

何度も何度も足を運びました

 

当時13才だった「母の弟」

いわゆる叔父のことを

レオンさんは「アニキ」と呼んで慕っていました

 

8月6日、そのアニキは

いつも通り「建物疎開」に動員されていて

帰ってきませんでした

 

翌7日からレオンさんは

まだ焼け跡の火がくすぶる街を

死体をまたぎ

顔を確認するためにひっくり返して

アニキを探し回りました

 

3日間探し回って諦めた翌日

ひょっこり帰ってきたアニキは

まったく違う服装だったといいます

 

作業に気乗りがせず

のろのろ歩いているうちに

集合時間に遅れ

罰として殴られるのも嫌で

小さな小屋に同じく遅刻した友達と

隠れているときに閃光と衝撃波を感じ

少し静かになってからがれきを押しのけ外に出ると

そこら中で火の手があがり

逃げ惑ううちにかなり西のほうへさまよっていたのだそうです

 

どこへ来たのかもわからず

帰ろうにも橋が壊れているところが多く

戻るのに時間がかかった、と

 

被爆者の体験談を聴いて

高校生の美術部員が描いたものです

 

ドキュメントこちらで見られます

 

 

御幸橋の写真でも、

この高校生が聞き描きした絵からもわかるように、

 

爆心地で被爆し大けがを負った人

亡くなった人が

最も多かった年代は12~14歳という

今の中学生の年代の生徒たちでした

 

大人たちの代わりに

建物疎開や工場での労働に

駆り出されていたからです

 

 

原爆投下時の広島市街には

兵士を送り出したあとの

労働力を補う子どもたちが大勢いました

 





暮らしも未来も一瞬で吹っ飛ばした原子爆弾

 

広島に投下されたものは

ウラニウム爆弾で

長崎には

プルトニウム爆弾が落とされました

 

今現在、日本では

「原子力の平和利用」という名目で

ウラニウムを燃料とした原子炉が

運転中です

 

8月10日現在

大飯原発3号機

高浜原発3、4号機

伊方原発3号機

川内原発2号機

玄海原発3、4号機が稼働中です

 

電力会社が運営していて

「原子力発電所」とされていますが

原子炉の中では電気は作られていません

 

原子炉から生じる「熱」でお湯を沸かし

湧いたお湯の水蒸気でタービンを回し

電気がつくられているのであって

原子炉が電気を作っているわけではないのです

 

神戸製鋼などの製鉄所でも

溶鉱炉の熱を利用して

電気をつくり

余剰電力は電力会社に売られていますが

溶鉱炉が作っているのはあくまでも「鉄」であって

「電気」ではありません

 

原子炉は

ウラニウムを核分裂させ

より破壊力の強い

プルトニウムを作り出しているのです

 

プルトニウムを作る過程で

たまたまたくさん「熱」も作られるから

それで「発電」しているだけで

お湯を沸かすための方法としては

これほど危険でナンセンスなものはありません

 

アメリカの核兵器のために

たくさんプルトニウムを作る工場をたてているから

核兵器禁止条約に批准できないのです

 

歴史を踏まえ

人類の過ちを認め

よりよい未来のための教材とせず

加害の歴史を「自虐史」とする

歴史修正主義が幅を利かせる日本は

経済的にも

文化的にも

国としての信頼を失いつつあります

 

これからそれを取り戻すためには

ひとりひとりが

誇りをもって世界中のこどもに

「過ちを繰り返さない」決意を

伝えるほかないと思います

 

歴史修正主義に描かれる

フィクションのように美しい日本よりも

事実を踏まえバージョンアップした日本の方に

わたしはより誇りを感じます

 

あいちトリエンナーレの顛末ももやもやが残り、

韓国との関係はどんどん悪化し、

相も変わらず条約には批准しない政府の考えも

記念式典で確認されたことですし、

改憲に向けて鼻息を荒くしている総理が

勢いづいているように思えてなりません

 

被爆国であり

太平洋戦争では加害国の日本が

平和憲法をどのように扱うのか

注目されている気がします

 

 

ひろの拝