よくご質問を頂くのは
「いつから朗読をやっているんですか?」
「なぜ朗読をやっているんですか?」
「お芝居をやっていた(る)んですか?」
私の朗読は演劇っぽいらしく、役者らしい雰囲気を醸しているのでそのようなご質問が多いのだと思う。
事実、役者であったし、今も朗読と演劇の垣根の区別がつかないまま朗読をしている。
聞いてくれる方には、
「音読が好きなので・・・」とか
「集団でやるのに限界を感じて、ひとりでできるのが朗読なので・・・」
などと答えていて、その言葉に嘘はない。
しかし、確実に私を朗読に導いたものがある。
古典芸能の文楽だ。




諸処の事情で舞台活動ができなくなり、おまけに食うに困るほど金銭的に行き詰まっていて、身動きが取れなくなっていた時期があった。
それでも、舞台表現をやめることは考えられなかったので、お金がかからない方法で演劇や芸能のことを勉強しようと思った。
演劇を勉強するために東京に出てきたくせに、バイトに追われたり刺激の多い東京での遊びやら、幸い面白がってくれてそこそこ舞台にも上がらせてもらっていたので腰を据えて勉強するということをしていなかったのだ。
図書館で本を借りて読んだり、ビデオを観たりしてしばらく過ごした。
世界民族音楽体系というビデオで世界一周したり、日本の古典芸能のビデオを片っ端から漁ったり。
その中で「文楽」というものを知った。
だみ声の歌声とドシッした三味線に乗せて、おじさんに操られた人形が艶やかに動き踊る。どこかで見たような、でも全く見たことのない不可思議思議な世界。
目を引くのは人形だけど、自分がやる分野に近いのは、だみ声の語りだ。
義太夫節というそうな。そういえば昔、有吉佐和子さんの小説で読んだな。あれは三味線の人の話だったけど・・・。
名人のお一人、越路大夫さんという方の本を借りて読んでみた。
文楽の演目をほとんど知らないので初めはほとんど理解できなかったが、
そのうち目に付いてきたのは
「・・・ここからは★★(登場人物の名前)です。◯□▲なので、♤♦♧という声でやります。・・・ここからは◇■▽で、こういう風に語ります。ここからは・・・」というような解説が延々と続くのだ。
え?これって、台本の解説?この人、この一つの作品をこんなに細分化してやってるの?
そのとき既に、芝居を始めて20年以上経過していたが、台本をこんなに緻密に読んだことなんてなかった。
恥ずかしくなった。
そこから文楽にのめり込んだ。
義太夫節にかぎらず、浄瑠璃は小説みたいな物語を基本的にはひとりの人が語る。
老若男女貴賎剛柔すべてのキャラクターと、ナレーションと、挿入歌までひとりでやるようなものだ。それを低音の太棹三味線が支えて絡み盛り上げる。
後にお世話になった義太夫のお師匠様が「義太夫は二人でやるオペラ」と仰っていたが、まさしくその通り。どちらかというとミュージカルに近いかもしれない。
文楽関連の本を読み漁り、そうこうしているうちに金銭的に少し余裕ができてきたので、国立劇場へ舞台を観に行った。



舞台の上手に語りの大夫と三味線の方が座る「床」アップというものがあり、開演すると壁がグルッと回って二人が現れる。
お二人が自分の位置を決めて、始められる体制になると大夫の方が床本(文楽の詞章本。まあ、台本ですね)を両手に持ち、額のあたりに掲げる。敬意を捧げているのだ。
その姿を見て、涙が出た。
私は20年も演劇やってますって生きてきて、その源は台本なのに、台本に対して敬意を持ったことがあったか?
セリフ覚えたら手にも取らず、ポイッとしてただろ?
そんなやつに芝居をさせてくれるわけないじゃないか。
文楽の大夫の方は、本やテレビでドキュメンタリーなどを見る限り実に厳しい稽古をしている。おそらく本に書かれている詞章は覚えているだろう。
それでも本を見て語っている。その姿がとても美しく見えたのだ。

私が朗読を好きな理由のひとつは、
本を読んでいる姿がとても好きなのだ。
文楽の魅力を知ったあと縁あって師匠について義太夫を学ぶ機会があったが、古典芸能の難しさに付いて行けず短期間で断念したが、その後も本を持つスタイルにこだわっているのは、大夫の方の姿が美しかったからだと思う。

朗読の魅力はそれだけではなく、もっと多くの素晴らしいことがあると今は言えるけれども、朗読という形を選んだのは文楽のおかげだったのかな、と思い出したので記しておく。


そして2月の公演で私の一番好きな大夫さんの
豊竹嶋大夫さんが引退されます
しょぼん
声を聴けるだけで幸せなすばらしい大夫さんでした。
観に行きたいけど東京の公演は最近ビッチリ…
もうチケットないよねえ
汗