毛利勝永(もうり・かつなが)

生没年・不明~1615

別称・吉政・吉永

官位・豊前守


〔毛利(森)家の興り〕
 豊前小倉城主・毛利壱岐守勝信の子。 
勝永の父・勝信は尾張の人で、古くは森三左(右)衛門を名乗っていた。若いころから豊臣秀吉に仕え各地を転戦して戦功があったため、九州征伐後に豊前の田川郡と企救郡を含む豊前小倉6万石を与えられた。この際、それまでの苗字であった森(もり)から毛利(←当時はもりと読む、後にもうり)に改めた。これは秀吉が勝信に対して大名に相応しい威厳を持たせるため毛利氏に頼んで名前をもらい、改名させたといわれている。こうした事からもわかる通り、勝永は中国の覇者として有名な毛利家とは何の血のつながりもなかった。
 

〔父と子の関ヶ原〕

 秀吉の死後の慶長5年(1605)から始まった関ヶ原の合戦で、父・勝信は西軍を率いていた石田三成と仲が良かったため西軍に加わることを決意し、三成の要請で小倉に(加藤清正および黒田如水説得のため)戻ることになった。このため父に代わり伏見城攻めに加わったのが息子の勝永であった。その後、関ヶ原では毛利秀元の傘下に組して南宮山に布陣し、来るべき決戦に備えていた。
 その頃、国に戻った勝信は加藤・黒田の両家に西軍に加担するよう勧めたが、どちらも西軍に組しようとはしなかった。
 このほか勝信は国内にもある問題を抱えていた、それは先の伏見城攻めの際に戦死した重臣の家督相続問題であった。その重臣の本城であった香春嶽城に勝信は自分の末子を入城させようとしていたが、遺臣たちは17歳の嫡子に相続させて欲しいと願い出た。しかし、勝信はこれを聞き入れようとしなかったため遺臣たちの間に勝信に対する不満が生まれることになった。
 こうした紛争のさなか、東軍参加を決め、兵を整えた黒田如水は一気に香春嶽城へ向け進撃を開始したのである。
勝信に不満を持つ香春嶽城の家臣たちは黒田軍に組してしまう、たちまち黒田如水の軍勢は1万3000人に膨れ上がり、勝信とわずかな手勢が守備する小倉城へ攻め寄せてきたのである。
 一方、関ヶ原の戦いは、西軍と東軍が激しくぶつかって一進一退の戦いを続けていたが、勝永が組している毛利秀元 勢は全く動く気配を見せなかった。南宮山方面での大将格である毛利軍内部に東軍と通じていた者がいたため、この方面に布陣していた軍勢は全く身動きが取れず、西軍が敗れた要因の一つとなってしまったのである。毛利勢は前もって東軍に内通していたため直接の攻撃は受けなかったが、戦わずに敗れたことは武士として屈辱であっただろう。同じ毛利の姓を持つ人々によって敗れた勝永はこの時どんな気持ちだったのだろうか。

〔土佐からの脱出〕
 大きな戦いをすることなく敗れた毛利父子は加藤清正に預けられた後、かねてより親交があったとされる山内一豊に引き取られることになった。一豊の所領である土佐国へやって来ると、勝信は高知城西の丸に、勝永は城外の久万村にそれぞれ住まわせられ、捨扶持として1000石の所領を与えられた。また、毛利家の旧臣たちの多くを山内家が召抱えたりもしたという。
 慶長16年(1611)5月7日勝永の父・勝信は土佐の配所にて死去した。余談ながらこの約1ヵ月後には同じく関ヶ原の戦いで所領を失った真田昌幸が九度山で亡くなっている。後に出会うことになる毛利勝永と真田幸村はお互い同じ時期に父を失っていたのであった。彼らは父の死から約3年後、大坂へ向かって旅立つのである。
 勝永は、家臣の窪田(宮田)甚三郎が、豊臣秀頼に仕える側近・大野治長の従兄弟という縁をたよって、たびたび上方の情報を得ていた。しばらくすると、大坂城の大野治長らは徳川家康との戦いを決意し、豊臣秀頼の命令として全国の諸大名に加勢を求め始めたのであった。しかし、これに応じて大坂にやってくる大名は1人もおらず、大坂方は戦力確保のために各地の浪人たちにも誘いをかけるようになった。勝永のもとにも秀頼の使者として家里伊賀守がよこされ、加勢するよう求められたのである。父の代から豊臣家譜代の家臣の家に生まれた勝永はこれを旧恩に報いる機会と思って喜んだ。
 だが、現在の彼の身分は山内家お預かりの浪人であり、やすやすと大坂に行ける状態ではなかった。山内家は徳川方に組することが決まっており、すでに藩主は大坂に向けて出陣していたのである。勝永は密かに自分を監視していた藩主の父・山内康豊を訪ねてこう告げた。「藩主が若い頃、私と彼は衆道(男色)の誓いを交わし、お互いに助け合っていこうと約束したことがある。彼は今回の戦いに出陣していったが不安なので、私も後を追って彼の後見を務めたい。その代わり妻と2人の息子の命をお預けします。」この話を聞いた康豊は勝永の申し出を許すとともに、妻と子は勝永の旧臣である山内四郎兵衛に監視させることにした。こうして、
まんまと康豊をだまして出発の機会を得た勝永は四郎兵衛と共謀して嫡男・勝家を連れ出すと浦戸から船で大坂へと向かっていったのである。

長宗我部盛親陣中記



 土佐に残された妻(すでに死亡しているとの説もある)と次男はその後、藩主により城内に押し込められてしまい、家康からの処分の命を待つことになったが、家康は怒った様子もなく2人を許している。 

〔大坂冬夏の陣〕 
 大坂城に入った勝永は真田幸村・長宗我部盛親・後藤又兵衛・明石全登とともに五人衆の1人に数えられた。
冬の陣での勝永は二の丸西側を5000の兵で守っていたが、真田丸に攻撃が集中した上、すぐに和睦が成立したためほとんど戦闘をせずに終わってしまった。
 慶長20年(1615)4月6日、講和の条件として惣掘・二の丸・三の丸の堀をすべて埋められて無防備となった大坂城に対し、家康は再び攻撃を命じた。冬の陣の時のように籠城戦ができない大坂方は部隊を2つの軍に編成し、城の南に広がる台地に集結して徳川方の攻撃に備えることにした。
 勝永は幸村と同じ2軍に編成されて天王寺口に陣を敷き、一方の幸村は天王寺口の西側にある茶臼山に陣を張った。
 4月29日、先手を打とうと出撃した大野治房隊と紀伊国の大名・浅野長晟の軍勢とが和泉国樫井で衝突した。豊臣方はこの初戦で敗退し、大坂城を囲む包囲網はさらに狭められる結果となってしまったのである。この窮地を脱するために、毛利・真田・後藤の3人は家康本陣への夜襲を計画したが、事実上の主将である大野治長はこの期に及んでも徳川方との和睦を考えていたため、この夜襲作戦は彼の反対によって実現することはなかった。やむなく後藤・毛利・真田の3部隊によるによる待ち伏せ作戦に切り替え、徳川軍を攻撃することにした。3人は秀頼の恩に報いるために命をかけて戦おうと誓い合い、訣別の杯を酌み交わしたと伝えられている。
 5月6日、後藤又兵衛は2800の兵を率いて出撃、大和路を通って道明寺に達した。勝永、幸村が指揮する第2軍1万2000人はこの後に続くはずだったが、河内平野が深い霧に包まれていたために大幅に遅れてしまった。勝永隊3000人がようやく藤井寺までやってきた時には、後藤隊を含め第1軍のほとんどが壊滅状態になっていたのである。しかも、真田隊はいまだ霧に迷っているのか、なかなか戦場に現れず、孤立した毛利隊は多数の敵に取り囲まれされそうになってしまう。
 包囲された毛利隊の兵士たちは動揺したが勝永は彼らを制してじっと勝機を待つことにした。それが功を奏したのか、まもなく真田幸村隊が到着し、毛利隊は全滅を免れることができたのである。
 
誉田の戦いは西軍1万5000、東軍3万5000の戦いであった。徳川方には約2万人の余裕があり、人数から言えば豊臣方が不利であった。だが、真田幸村隊の奮闘により戦いは西軍に優勢となり、東軍の足止めは成功するかに思われた、するとそこへ使黄幌衆(秀頼の伝令を伝える者)が北で行われている若江の戦いの敗戦を伝え、第2軍の撤退を命じたのであった。
 そこで殿を引き受けたのが勝永であった。殿とは、退却する際に1番後ろで追ってくる敵を食い止め、味方を無事に退却させる役目のことである。勝永は最も後方で敵を食い止める役目の鉄砲隊にむかって「おまえたちが、今日の貧乏くじよ」と冗談を言って別れた。ちなみに、この銃隊を率いていた雨森伝右衛門はこのあと付近の民家に火を放って敵をあざむくと1兵も失わずに戻ったという。

〔最終決戦、豊家滅亡〕
 明けて慶長20年(1615)5月7日、誉田から戻った勝永は大坂城へは戻らず、天王寺の陣へ帰っていた。誉田、若江を抜けた東軍は北上して大坂城に迫り、東西両軍最後の戦いのときが間近に迫っていた。このとき毛利隊と対峙したのが本多忠朝の軍勢であった。忠朝は徳川家臣団の中でも猛将として知られている本多平八忠勝の次男であったが、冬の陣で思うような戦果を上げられなかったことや真田丸の戦いで兄が敗北したことを恥じて、今回の戦いで自ら先鋒を願い出ていたのである。本多隊はこうしたことから意気込んでいたのか、先鋒の中でもかなり突出して布陣していた、味方から注意を受けたが忠朝はいっこうに下がらず銃隊に射撃を命じた。
 この本多隊の発砲によって最後の決戦が始まった。すると毛利隊は瞬く間に本多隊に襲い掛かりこれを撃破してしまったという。忠朝の首は昨日の戦いで殿を勤めた雨森伝右衛門によって討ち取られた。
こうした戦いの様子を見ていた黒田長政は豊臣方の中でひときわ見事な戦いをしている部隊を見つけ、横にいた加藤嘉明に、あれは誰の部隊か?と尋ねた。すると嘉明はこう答えた「貴殿はまだご存じなかったのか。彼こそは毛利壱岐守が一子豊前守勝永でござる」これを聞いた長政は「そうだったのか。この頃まで、まだ子供のように思っていたのに・・・・・・さてもさても」といって感じ入ったと伝えられている。それほどに勝永の活躍が目を見張るものだったということだろう。
 そんな父に劣らず活躍していたのが、息子の勝家であった。隊長として1部隊を率いていた勝家は、いまだ16歳の若者であり、この日の戦いが初陣であったという。敵の鎧武者と渡り合って首を取った彼はうれしそうに父の元へその首を持っていった、勝永は「見事見事」と喜んだが「今日は最後の戦いだから首を持ってきても戦功にならない、打ち捨てなさい」と付け加えた。再び戦場へ戻っていく息子を見ながら勝永はこうつぶやいたとされる「惜しい若者だ」と。
 毛利隊はその後も奮戦し、地中に埋めた
埋め火(爆薬)を爆発させての敵の撹乱、真田幸村とともに家康の本陣へ切り込むなどの働きを見せている。やがて幸村の死が伝えられると、勝永は秀頼の身を案じて大坂城へ戻ることにした。残兵をまとめて整然と城に戻っていく毛利隊を見て、武将たちは舌を巻いて感嘆した。
 翌5月8日、本丸・天守閣を失った大坂城の中、わずかに焼け残った物櫓内に豊臣秀頼・淀殿、そして勝永の姿があった。徳川方による銃撃を受けた後、秀頼を介錯したのは勝永だといわれており、彼自身も息子とともに腹を切って果てた。
 土佐で人質になっていた10歳になる次男鶴千代(勝久?)も京都で首を切られ、勝永につながる血筋は絶えてしまった。



長宗我部盛親陣中記