香宗我部親泰(こうそかべ・ちかやす)


生没年・1543~1593

官位・安芸守


 長宗我部国親の3男で元親親貞の弟。永禄元年(1558)香美郡香宗城主・香宗我部親秀の要請によって香宗我部を継ぐ、以降は兄・元親を助けながら参謀として活躍し、土佐国東部の有力豪族である安芸氏滅亡後は安芸守を称し、阿波国(徳島県)東南部を治める軍代となった。
 
天正8年(1580年)6月には安土城で織田信長と面会して阿波岩倉城主、三好式部少輔が服属したことを告げて、三好康長との友好斡旋を依頼した上「四国切り取り次第」のお墨付きを受けた。
 
このように外交にも手腕を発揮した親泰は、信長が本能寺で討たれた後の賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いの際には柴田勝家徳川家康織田信雄らとの交渉に当たり、対秀吉包囲網を作り上げた。
 
秀吉の四国征伐では阿波国牛岐城を守備したが、自軍の不利を感じて土佐へ退却した。
 文禄元年(1592年)朝鮮出兵に病死した嫡男・親氏の代わりに出撃する途中、文禄二年(1593)12月、長門国にて病死した。享年51歳であった。香宗我部氏は次男の貞親が相続した。

 さきの嫡男・信親の死に加えて、最も信頼する弟の死の知らせを聞いた元親は大いに落胆したといわれている。