土井利勝(どい・としかつ)


生没年・1573~1644

官位・大炊助


 徳川家康の家臣・土井利昌の子。一説には水野信元の子とも、家康自身の子供とも言われている。母は葉佐田則勝の娘。
 天正元年(1573)遠江国浜松に生まれる。
 幼少の頃から家康の側に仕えており、天正7年秀忠誕生にともなって、その側近となった。天正19年に知行1000石を与えられる。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前後には徳川秀忠に従って使番を勤める。会津に向かった後下野小山に至り、信濃国上田城攻めに参加、諸軍に秀忠の命令を伝える。
 関ヶ原の合戦の後500石を加増され、同7年12月には下総国小見川で1万石を領する。
 慶長10年秀忠の参内に供奉して従五位下大炊助に叙任され、同17年下総国佐倉に城を築き4万5000石を領する。
 大坂の陣には冬夏両方に参加し、秀忠の陣にてさまざまな軍議に関わる。戦後、捕らえられた長宗我部盛親 井伊直孝安藤重信 らと共に対面し、盛親の申し分を聞いている。
 元和2年(1616)に家康が世を去ると秀忠の側近の中で最も力を持つようになる。同9年、再び秀忠の参内に付き添った功により大炊頭に任じられ、寛永3年(1626)には従四位下侍従に叙任。明正天皇が同7年に即位すると秀忠の使者として上洛する。
 3代将軍・家光の代になっても重用され、下総国古河(こが)で16万石余りを与えられた。
 正保元年(1644)7月10日江戸屋敷で亡くなり、芝増上寺に葬られた。享年72歳。