6月3日、実家の父が79歳で亡くなりました。
そして今日は四十九日。
東京から静かに祈っています。

東京に帰っていつもの生活に戻っても、どこか上の空で実感がまだわかない。
地元にいる母、姉2人、姪は近くで一緒に過ごしていた時間が俺より長いので、気持ちの整理がつくまでかなり心配である。

上京してから20代のうちは実家に帰省しないことがカッコいいみたいなよく分からない理由でたまにしか帰省してなかった。しかし、2010年に父親が倒れてから次に会うのが最後かもしれない、あの時なんで帰省しなかったんだろうと後悔するのは嫌だったから、それからは親孝行のためにも盆と正月だけは必ず帰省するようにしていた。
しかし、2020年からコロナが猛威を振るい世の中が一変してから盆と正月も帰ってはいない。1年半前の年末年始が最後となった。

子供の頃、父親とあまり遊んだ記憶は無いけど、晩年になると家族で出掛けることが増えたように思う。
父親は面白い人だった。かなり影響を受けている。そう思われる所が多々ある。
高校の頃、上京したいと話した時に家族は賛成してくれた。
父親は若い頃に本当に苦労した世代で、本人はやりたいことができなかった。
それを自分の息子ができるのならチャレンジしてこいと後押しをしてくれたのだ。
家族の全面的な協力があって、日本大学芸術学部を卒業できた。
家族もそういったことなどがあり、今も俺の背中を押してくれている。

こうやって回想してみると、11年前に危篤になったことが思い起こされる。

2010年、俺が29歳の頃、父が倒れて危篤になったと電話が入る。急いで新幹線に乗った。
集中治療室でいろんな機械に繋がれている父を見た時、一気に涙が溢れた。自分の親が死ぬなんてことが目の前まで迫っていた。これを受け止めるだけの大人にはまだなっていない。
しばらく泣き崩れた後、廊下でこれからのことを話した。
親戚からは「広島に帰ってこい。」という意見が出た。当然である。歳の離れた姉が2人おり、末っ子ではあるけど長男は自分であり、広島に帰るべきだった。でも、すぐに返事はしなかった。自分の我儘と身勝手さで、すぐには返事ができなかった。

この日から家族で交代しながら病室で見守っていた。
父親の意識が戻ることを祈りながらも、ずっと自分はどうするべきなのか考えていた。広島に帰るべきなのか、東京に残るべきなのか。こんなことで悩んでいるのは本当に親不孝だと思う。

父の意識が薄く戻ることがあったので、ふと聞いてみた。

「広島に帰って来た方がええんかの。」

「帰って来んでええんじゃ。」

と微かな声で返ってきた。
これで広島には帰らないことを決めた。
あの深夜の病室は今でも忘れられない。

その後、驚異的な回復力で退院して、体力は落ちたもののよく食べてよく喋る親父が戻ってきた。本人曰く、集中治療室にいた時の記憶は一切ないらしい。

四十九日の今日は親父の好きだった揖保乃糸を食べる。
感謝と謝罪の気持ちで東京から祈っている。

2021年7月21日