産休ラプソディ | 戸村健太郎オフィシャルブログ「侍ブログ!」

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皆さまこんにちは


幕張の天然パーマ


戸村です。


2月25日を予定日として子供が産まれます。

第一子です。男の子です。

顔より先にちん●ちんのエコーを見せつけられました。すまぬ我が子よ。

妻は穏やかな産休を過ごしています。立ち上がったり座ったりは私が介錯すれば問題無く、眠る時間が極端に増えたりはしたけれど、ヒステリックになったりもしないし。いやむしろ子育てのためにバイト変えた俺の方がヒステリックになってるかもしれないレベル。当たってないよ、人には当たってないよ。白目向いて近所を全力疾走するくらいだから。楽しいよ白目全力疾走。死ぬかもしれない恐怖とグワングワン回る世界がクセになるから命知らずは試してみるといい。ずっとは危ないから数メートルくらいだぞ。死んでも怪我しても俺責任とらないからね。

つか穏やかな産休を過ごす妻を見るとなんか余生を過ごしてる人に見えてしまう。妻だけじゃなくて俺も。もうすぐ産まれ来る我が子を待つのではなく、二人きりの最期の時間を大事に過ごし、もの寂しさすら覚えてしまうのだ。手を繋いで歩く公園も、スーパーでの買い物も。目的もないドライブも。最後の最後までその時間を手放したくない思いが心臓をすり潰してくる。子供が産まれたらこの「2人の」時間は無くなるんだなと。


もちろん、この先は三人で、もしかしたらもっとたくさんで楽しい時間を過ごす事が出来るかもしれない。それはわかっている。餅太郎(我が子のコードネーム)がウチに来てくれて本当にありがたいし愛おしい。とても尊い。ここまで支えてくれて応援してくれた周りの人々に失礼がないように断っておきたいのだが後悔は一ミリも無い。めっちゃ嬉しいし泣きそうなくらい楽しみなのは大前提での話だ。ましてやウチは両実家も近いので、(産まれる前からそんな事考えるのはいけないだろうが精神安定のためにね)預けて息抜きなんてこともそんなに難しい事では無いのだろうとおもう。

だけどだけど、それはやっぱり預けているだけで「ふたり」では無い。ふたりの時間は二度と戻らない。

産まれるって死ぬ事に似てるなーと昨日思った。死んだら絶対に生き返らない。この世界には戻れない。俺はその不可逆性が怖い。死んだどうなるのか。

産まれるのもそうだ。産まれたらその事実は消せない。もう戻れない。一度産まれたら基本的には戻れない。

産まれるのも死ぬのもどっちも本人の意思ってわりと関係ない。死ぬのは本人の意思でどうにかなるってめんどくせーこと言う奴はホームボタン押してインスタでもやってろ。

妻が「早く餅太郎に会いたいね」という。

「会う」は人にしか使わない言葉だ!

人に使う言葉だ。最初はなんかこしょばいそのことばがだんだん重みを増す。

俺たちは人を作り出したのだ。禁忌と云われる人体錬成を妻の身体の中で成しているのだ。それは俺たちの意識の遥か奥底でなされる奇跡だ。人の身体の中でこんな複雑怪奇な生物が形作られるなんて奇跡過ぎて引く。

これを書いている電車の中でとなりに座るお爺さんにも70余年前にその奇跡が起きてるわけだ前に座るオッさんにも。その横のにーちゃんにも。そこに立つ女子高生にも。

すげーよ人間。ありがとう妻。

別に何が言いたいかとかそう言うんじゃなくて、子供が産まれる直前の俺がなんか変な事考えてるなーっていう個人的な備忘録。