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今、世間で非常に大きな話題になっている、第84回小学館新人マンガ大賞。


その中心となり賛否両論が噴出している作品が、17歳にして青年部門の佳作に選ばれた浄土るるさんの「鬼」。


https://shincomi.shogakukan.co.jp/viewer/84/04/402/


審査員の中でも、太田垣康男さんは

「読者に向かって『この世界はクソだ』と伝えて溜飲を下げているとしたら、その作者の心情を私は否定する」

と云い、一方で浅野いにおさんは

「最高でした」「この規格外の才能の芽が摘まれませんように」

と絶賛している。


私の周囲でも賛否は真っ二つに分かれていた。


このセンスや露悪的な部分も含めて心に引っ掻き傷を残す読み味を大いに評価する意見もあれば、

「全くもって評価出来ない。漫画は日記でも無ければ憂さ晴らしの場でもない。読者がいてその人達に何を与えるかが存在意義。ただのネタにしか見えない。“で?”って感じ」

「これは創作というよりは吐露。プロの仕事の類では無い」

「漫画家を志す者としてこれを才能と呼びたくない」

といった厳しい意見も見られた。


私はこの激しい賛否両論で溢れかえりながらも、日に日に爆発的に人口に膾炙していく本作のバズり方を見て、初めて『バトル・ロワイアル』が世に出された時のことを思い出した。『バトル・ロワイアル』もまた「圧倒的に面白い」「天才」「現代社会の的確なメタファー」という賛辞の一方で「最低最悪の小説」「文章表現が稚拙」「こんな物をエンターテインメントと呼んではいけない」と存在自体を強く否定する声もあった。


私は「鬼」も『バトル・ロワイアル』と同じく、このような賛否両論があって然るべき作品であると思う。


その上で、個人的にはこの作品に対して大きく「賛」に寄っている。


そもそもとしてマンガを始めとする創作、表現はとても自由なものだ。特定の個人や人種を差別したり誹謗中傷したりといったものであるならば話は別だが、不条理をただ不条理として救いもなく描く作品も世の中にあって良いと思っている。むしろメジャーマンガで描かれる希望や愛を薄っぺらく薄ら寒いものだと感じ、鬱屈や絶望感の方にこそ共感したり救いを覚えたりする人間もいる。「鬼」はそういった人にとっては代え難い傑作に値することもあるだろう。


画力は乏しくとも読む人の感情を刺激する私的な体験を綴ったエッセイ的マンガが数多く出るようになった現在において、出版社がこういった才能を掬い取る意義も大いにあると考える。


「鬼」を細かく読んでいくと、まず始まりの1ページ目がとても秀逸であると思った。


1コマ目は

「私の名前は江田子豆。5年4組の人気者なんだ♪」

という明るいモノローグ、そしてそれに合わせた戯けたポージングを取った主人公から始まる。


2コマ目はそれを受けて人物も背景も小学生が自由帳に描く落書きのようなタッチで

「運動とおしゃべりが大好きな、普通の女の子だよ。」と続く。ここまでだけ読んだら、可愛い絵柄とポップなテンションのギャグマンガを想像しそうなものだ。


しかし、3コマ目になると状況は一転し、一気に激しく突き落として来る。♪の語尾は変わらないものの、父親は既におらず母子家庭であるという事実の明示。そして、その母親がたった1コマで絶望的に終わっている毒親であると伝えくる、子豆が頭から酒をかけられている描写。その奥で姉と同じように虚ろな目で中空を見る妹からもこの家庭の惨状が伝わってくる。


主人公の奥底に渦巻くどす黒く深い絶望感は4コマ目の虚ろな目によって更に増幅されている。


見事な起承転結であり、たった1ページで主人公が深い深い絶望の淵に陥っていることが如実に表現されている。


2ページ目で「生まれてきてごめんなさいと3回言え」という母親の惨い命令に従う様を、セリフごと途中でぶった切りチャイムの鳴る教室の描写へと移る演出も巧い。小気味良いテンポを生み出しつつ母親から行われている虐待を敢えて断片的に見せることによって、読者自身でその後に続いて行われるであろう惨状を想像させられ印象がより強烈なものとなっている。


マンガにしろ他の表現媒体にしろ掴みが重要であるということはよく云われるが、そういう意味ではこの「鬼」の掴みは素晴らしい。丁度「物語においては世界設定の謎よりも登場人物の持つ謎の方が重要で先を読ませたくする」という意見も最近論じられていたが、この後に子豆がどんな過酷な運命を辿るのか、母親との関係はどうなるのか、たった2ページでその謎に引き込まれていく。


浅野いにおさんの講評の通り、技術的には確かに稚拙だ。背景はパースに則ったコマとそうでないコマが混在している。断ち切りとそうでないページの差異も場当たり的に感じ、効果的に使われているとは言い難い。


しかしながら、そうした拙さ・不安定さもまた本作においては絵柄のゆるかわいさとも相まって演出効果として作用しているように感じた。


随所に普通ではない夢の世界のような現実と乖離した描写がなされる。「クソガキ小学校」や「死ね小学校」といった異色のネーミング、特異な建物の形状、ポンポコの「保健室」と書かれた服……すべてが不安定さをもたらしてくる。


19ページ目の3,4コマ目がコピーのように見えて地味にそうではない(画面右端だけ描き分けられ、右端の少年の頭部がフキダシで消される形になっている)所にも違和感を与えられる。


こうしたあらゆるぎこちなさが、意図的である部分もそうでない部分も混濁となって味として昇華されている。


妹の感情表現も秀逸だ。

「22ページ目で『みいちゃん、幼稚園楽しかった?』と子豆に訊かれた妹が顰めっ面で黙って答えず、24ページ目で泣き出したのはなぜか。100文字以内で答えなさい」

というのは良い国語の問題として成り立つと思う。セリフに頼らず、キャラの動きのみで複雑な感情を表すことに成功している24ページ目は見事だ。


母親の所作に関しても、すぐに手を出す所や気分の良い時に鼻歌を歌うところなどが知らず知らずの内に子豆の中にも受け継がれているようにも感じられ、毒親であっても親子であるという無常の事実を突きつけられる。


こんな家庭環境で育ちながらも優しさを失わなかった子豆のその優しさがようやく報われそうになる(前夜の子豆が一番かわいいと思う)ものの、それが一瞬で踏み躙られるラストは業田良家さんが指摘するように余りにも辛く胸を締め付けられる。しかし、現実にはこういった局面もいくらでも存在する。露悪的に過ぎるという意見もあろうが、これはこれで物語としてあって良いラストだと思う。


最後に改めて表紙に戻ってみると、「鬼」の文字の下にいるのは主人公の子豆ではなく死んだ目をしたぽんぽこであることに、そしてその意味に気付かされる。


正に鬼ごっこの鬼のように、人は誰しもが一瞬で鬼へと変わる可能性を秘めている。しかし、鬼となったポンポコとて決して幸せになった訳ではない。自分がイジめられないための消極的な選択としてイジめる側に回ったに過ぎない。


唯一、僅かに救いとなる要素が残されているとすればこのクラスの担任はいじめに加担したり見て見ぬフリをするタイプではないことだろうか。この後、教室に入ってくる担任はきっと子豆の身を案じてはくれるだろう。周囲に自分を傷つける敵しかいないのと完全に味方がいない状況ではないというのは大きな差だ。とはいえ、それで完全に子豆が救われる訳でもない。


画力自体は決して高いとは言えない。しかし、このマンガは不思議と読み易い。フキダシの配置や過不足のない言葉選びによる文章量の適切さ、それによって支えられているネーム力はかなりのセンスを感じた。


私は浄土るるさんが今後もマンガを描き続けることを心から応援したいし、こういった路線を突き詰めるにせよ全く違う方向へ進むにせよ次の作品もぜひ読んでみたい。



余談だが、浄土るるさんの作品以外にも大賞の赤井千歳さんの「Ms.NOBOTAN」や、青年部門入選の岩田ユキさんの「悪者のすべて」など面白い作品があるのでぜひ読んで頂きたい。


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