2度目の台湾訪問 | 田母神俊雄オフィシャルブログ「志は高く、熱く燃える」Powered by Ameba

2度目の台湾訪問

平成27年4月13日から4月15日の間、福岡県郷友連盟(吉田邦雄会長)主催で25名の訪問団が台湾を親善訪問した。平成24年の12月にも同じ訪問が行われたが、2年半ぶりに前回同様私が訪問団長という格好で李登輝元台湾総統と面談をさせて頂いた。

4月13日(月)
 訪問団の主体は福岡であるが、東京からも4名が参加した。私は早朝に世田谷の自宅を出発し羽田発0710のチャイナエアラインで台湾松山空港に向かった。空港には元台湾海軍大佐陳偉博氏が出迎えてくれた。東京発我々4名は空港から昼食会場「金品茶楼」に移動して昼食を取った。その後宿泊先の台北国賓大飯店(タイペイアンバサダーホテル)に行って休憩しながら福岡組を待った。ホテルで福岡組と合流して、淡水の李登輝事務所を訪問する予定であった。しかし福岡からの飛行機が遅れて、福岡組はホテルに寄らず直接淡水に行くことになり、私たち4名は2時過ぎにホテルを出発し李登輝事務所に向かい、現地で福岡組と合流した。
 李登輝総統との面談は1時間の予定であったが、総統の好意により2時間20分ほどの時間を取って頂き、前回同様李登輝総統の約1時間の講演のあと質疑応答が行われた。李登輝総統は、日本に対し3つのことを希望された。
① 平成13年4月に結ばれた日台漁業協定に従い尖閣諸島周辺における漁業権の問題を解決してもらいたい。現場レベルではまだ解決すべき課題は多いが安倍総理の指導力に期待したい。
② 中性子を使った最先端のがん治療技術を台湾の病院に売ってもらいたい。台湾の死因の1位はがんである。日本は中国への技術流失を恐れているのかもしれないが、そのような事態が起きないよう李登輝総統が責任を持つ。
③ 日本版「台湾関係法を作って日台関係を強化していくべきだ。東日本大震災で台湾から日本へ、他国に比べて極めて多額の義援金も送られた。台湾ほど親日的な国はない。日本が中国の対応を恐れて台湾との義を軽んじることは了解できない。日台関係の強化はアジアの安定にも貢献する。
 更に李登輝総統は、台湾国民の意を体した政治を実現するために総統を直接選挙で選ぶことが出来るように努力したこと、政治家は地位や金を求めるのではなく、国民のために努力するという哲学を持つことが重要だと強調された。92歳になったが、あと5年は頑張るつもりであるとも言っておられた。李登輝総統は、声も十分に大きいし、まだまだ元気である。話を聞きながら李登輝総統の志の高さ、国や国民を思う情熱、そして政治家としての哲学的な思索の深さに感動した。日本にもあのような強い政治家が多く現れてもらいたいものだと思った。
 この日の夕食は、日本語族の皆様13名と一緒に、ホテルの近くのレストランでとった。日本語族とは、日本統治 時代に台湾総督府による学校教育を受け、日本語で読み書き思考し、日本時代の生活習慣を身に着け、勇気・誠実・勤勉・奉公・自己犠牲・責任感・遵法・清潔といった精神を表す「日本精神(リップンチェンシン)」を最高の道徳規範として、立居振舞もそのままに、現在もなお生活する台湾人の総称です。日本語世代とも言います。その代表的な台湾人が李登輝前総統です。皆さん、御高齢であるが元気である。もっとも元気な人だけが出てきているのかもしれない。それぞれに日本を懐かしんでおられた。

4月14日(火)
 0710ホテルを出発して新幹線で南部の高雄に向かった。約1時間半の新幹線の旅である。旅行案内は前回の台湾の旅と同じ鍾紹雄氏である。86歳になると言っておられたが、鍾氏は大変元気な日本通であり、講演などで何度も日本を訪問されている。この方の言葉が面白い。新幹線にはぎりぎり間に合ったが、バスでホテルから駅に移動する間に「絶対間に合いませんから急いで下さい」と繰り返す。間に合わないと大変だから急いで下さいという意味であろうが、何度もこれを繰り返すのでみんなで大笑いであった。
 高雄到着後台湾空軍の公式博物館「空軍軍史館」を見学した。元台湾空軍の戦闘機パイロットが案内してくれた。台湾空軍の使っていた飛行機、また現在使用中の戦闘機などが展示してあった。日米開戦前にフライイングタイガーと称して、日本軍を攻撃していた戦闘機もあった。蒋介石が使っていた大統領専用車も、きれいな状態で空軍軍史館の入り口に展示してあった。また台湾軍人の心構えのようなものが大きく展示されていた。
 空軍軍史館を後にして昼食を済ませた。その後旧日本海軍を祀る紅毛港保安堂を参拝した。蓮池潭と呼ばれるその地域には何かを神として祀っている廟がたくさんある。紅毛港保安堂は終戦直後、漁師が魚網にかかった頭蓋骨を地元の廟に祀って慰霊したところ豊漁が続いたので1953年保安堂を建立したことに始まる。その後、頭蓋骨が「日本海軍38号哨戒艇の艇長」を名乗って漁師の夢枕に立ち、「部下を日本に連れて帰れなかったのは残念」と語ったと伝えられている。そこで漁師有志が1990年ごろ「魂だけでも日本に帰れるように」と、日本軍艦の模型を作り「38にっぽんぐんかん」として奉納、追悼供養している。2008年から3500万台湾元(約1億2200万円)を投じて新堂を建設。そのうち100万元(約350万円)は日本人有志の寄付という。台湾にはこのような日本人を称える廟が至るところにある。前回訪問した八田与一翁の銅像、杉浦茂峰兵曹長や森川清治郎巡査の廟などもそうだが、このような立派な日本人がいたということが台湾の学校では普通に教えられている。それが、台湾が親日的な理由なのである。台湾で教えられている立派な日本人のことが日本の学校で教えられないのはおかしなことだ。
 この日の夕食は高雄の海鮮料理だったが、あまり食べないようにして、夕食後高雄の夜市に出かけた。道路沿いに屋台がいっぱい出ている。365日ずっと夜市は続いているそうだ。いろいろ買って
つまんでみた。珍しさが手伝って手が出た。ビールも飲んだ。これは美味しい。みやげ物や指輪、ペンダントの類も売っている。所々には、足裏マッサージの店などもあり何人かの人たちがマッサージ店に立ち寄っていた。高雄国賓大飯店(タカオアンバサダーホテル)泊。

4月15日(水)
 0800にホテルを出てバスで2時間ほどで嘉義に行った。映画「KANO」で有名になった嘉義農林学校跡地周辺を訪ねた。映画で使われた家などが展示してある。嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)は、1931年甲子園で行われた第17回全国中等学校優勝野球大会に台湾から参加して準優勝を勝ち取った。今も続く高校球児の夏の甲子園大会である。このときの選手の多くは台湾人であるが、近藤監督は日本人である。そして近藤監督の指導者としての指導力の高さなどを賞賛している。ここでも日本人が立派であったという説明が行われている。台湾の人たちは本当に親日なのだ。
 因みにこの17回大会は出場校が22校あり、朝鮮代表で京城商業が、満州代表で大連商業が出場している。嘉義農林と京城商業は初出場であったが、大連商業は2年連続9回目の出場であった。またこのときの嘉義農林の主将であった呉明捷は、全4試合を一人で投げ抜いた。彼はその後早稲田大学に進学し打者として活躍、1936年には東京6大学でのホームランタイ記録7本を放つ。同年秋のシーズンでは打率3割3分3厘で首位打者となる。卒業後は台湾拓殖へ入社し社会人野球選手として活躍した。このような歴史を見ると日本が中国大陸、朝鮮半島、台湾などを侵略したとか言うことが如何に嘘であるかがすぐに分かってしまう。
 見学を終えて嘉義プリンスホテルで昼食を取った。その後再び鍾紹雄氏の「絶対間に合いませんから急いで下さい」の声に追い立てられて新幹線高尾駅に向かった。高雄から新幹線に乗り、福岡組は桃園駅で降りた。桃園空港から福岡に帰る。私たち4名は台北駅まで行き、バスで松山空港に移動して1815発のチャイナエアラインで帰国の途に着いた。