忘れたくない
生まれて初めてファッションショーというものを見た日を鮮烈に覚えてる。
文化服装学院の文化祭の2005年のファッションショーだった。
予備知識なくよくわからないまま『なんでこんなに並ぶんだ?』と半ば不満ながらに座った。
しかし、そのショーは、いま思うとその後の私の人生を変えてしまったのだ。今思えば、あれは人生の一つのターニングポイントだった。
オープニングのSEの凄さ、一つ一つの美しく信じられないほど繊細かつ豪華な服たち。
シーンという5分、10分に別れた美しい時間の集合体は宝石箱のような一つの世界になること。
最後のシーンで自然に涙が出てしまった。
ファッションに興味がない、ファッションショーを生で見たことがない人にはわからないかもしれない。
けれど、ファッションには、ファッションショーには、人の心を動かす力があるのだと確信した人生の一日目だった。
文化祭から帰った私は一緒にいってもいない家族や友人にひたすらそのショーのすばらしさを語った。
みんなポカンとしていた。そりゃそうだ。見てないものはわからないのだ。
悔しい、本当に悔しい。あの素晴らしさが伝わらないなんて。
とは言え、私が作ったものではないし、私と文化服装学院には何の接点もいまのところないのが事実だ。
それに気付いて考え始めてから少し。私は文化服装学院のスタイリスト科に入りたいという事をはっきり心に決めた。
実はこの頃スタイリストになりたかったのだ。
だから、スタイリスト科に。その程度だった。
あのファッションショーが本当は作りたかった。でも、ファッションショー科という科はなかった。厳密に言えば、ファッションディレクター専攻がそれに最も近かったのだろうけれど、バカな私はそんなこと知らなかった。
第一、ファッションショーはお祭りだ。お祭りは、仕事に、お金になるとは思えなかった。
そんなこんなでバカ高い入学金に年間150万近く親に出してもらい私は文化服装学院のスタイリスト科に2006年入学した。
文化の新入生歓迎会は、少し変わってる。ファッションショーで歓迎してくれるのだ。新歓ショーという。その他にも小さな発表会に、装苑賞。一年中何かしらあるのだ。
痺れた。
ショーをこんなに身近に見れるとは。
そして、毎年11月にあるファッションショーの実行委員は、すでに初夏には決めて行くのだ。
私はどうしてもそれがやりたかった。
応募に必要なデザイン画を意気揚々と描いて担任に渡すと困惑する担任。
当時はわからなかったけれど、今ならわかる。
ファッションといえど、やはり基本は信用なのだ。一発勝負のショーとなれば、尚更。
要するにどんなにやる気があろうと、遅刻欠席がなく、成績優秀てわなければ、実行委員にはなれないのだ。
華やかなことが好きで地道な努力や、規則が苦手という根っからのキリギリス体質の私にそんなことは、無理だった。
だから、担任はその生活態度と、反比例した私のやる気のギャップに参っていたのだ。
程なくして実行委員になれなかったことを伝えられた。
残念だったけれど、実行委員じゃないにせよ、どのみち何かしら係りになれると聞いて安心し、私は結局卒業まで三年間、いつもショーで流す映像なんかを作った。
それは、純粋に楽しくてたったショーの中でのたった一部でしかないけれどいつも放課後がくるのが、楽しみだった。
が、逆に言うと、ファッションショーというのは、皆で壮大に手分けして協力しあって作るものだと思い始めていたので、自分は映像さえ作れば、ファッションショーを『作った側』になれていると思っていた。
そして、私が多分最後に文化でやったショーは、スタイリスト科の卒業ショー。
皆泣いてた。
私も泣いた。
ショーは、青春だった。
そして時は経ち2014なぜか私はまたファッションショーを今日やった。
まさか28歳で出来るとは…
しかし、このショーは今まで私が知っていたショーとは違かった。
少人数制。異文化。
日本Androidの会アクセサリ部と文化服装学院のコラボレーションなのだから。
これは、感情を綴ってるだけの日記なので内容の詳細はまた後日綴りますが、とにかく、文化の若い若い学生さんと、Androidの会のおじさんたちが繰り広げるショーだった。
私はちょうどその繋ぎ。
どちらの気持ちもわかるだけに気を揉むことも多かった。
何よりやることが多い。映像だけ作ったってショーにはならない。
わかってるようでわかってなかった。
メイクもモデル手配も照明指示も全部自分がやるショーなんて初めてだ。
ショーを学生時代何度もやったのに、こんなに全てをやるのは実は初めてだったのだ。
そしてなんとかショー本番。
さっきまでのリハーサルははっきり言ってやばかった。
どうにかはたしてなるのか自信はない。
オープニングSE。始まってしまう。始まって欲しくない。けど、終わって欲しい。
初めて青い顔でファッションショーを見つめた。
まばゆい光、そして美しく歩くモデル。シーンに合わせた音楽。
それは、きちんとしたファッションショーになっていた。
この上ない達成感。
あぁ、これがファッションショーだ。
ふいに思い出したのだ。
ステージはたった15分程度。しかしそれに費やした労力は、約半年。
なんで、こんな地味で辛いこともあるのに、私達ファッション星人はファッションショーを何度もやりたがるのだろうか。
そして、どんなに製作過程で苦しいことがあっても作ったステージをみるといつも感動してしまうのだ。
やってよかった。って。
最後に学生リーダーだった淡路くんが少し泣いていた。これこそが青春でありファッションショーなのだ。
満足感と疲労感の中向かう二次会への道の中ふいに思った。
初めて見たあの2005年のファッションショーが私の人生をかえてしまったのだ。
あれは魔法だった。
呪文もないし、変身もない魔法。
だって私はあの日文化に入ることを決めて、増田先生はじめ色々な出会いがあり今に至る。
私は人生は、タイミングが9割と思っているのだが、私が文化でちんたら就職活動をしていた中でリーマンショックがおきて、途方にくれた中でみどりちゃんが私をメイド喫茶に拾ってくれて。
そこでの出会いがあったから、今日のショーができた。
私が文化を出てアッシュペーとか、エーネットとかにアパレル的エリート就職がもしできてたら、こんなことは出来なかったのだ。
私の人生は、決して誰もに褒められうやまれるものではないだろう。
でも、実のところ私はこの人生をとても気に入っているのだ。
そんな人生に導いてくれたあのファッションショーに感謝するし、今日曲がりなりにもファッションショーをまた出来たことをとても嬉しく思います。
ショー中に写真を撮る余裕がなくて、打ち上げの写真しかありません。
みんなすごく打ち上げ嬉しそうだった。私も嬉しかった。
人間に生まれて28年。辛いことがあると猫や魚になりたいと思うこともありますが、私はどんなに辛くても唯一自分の意思で洋服を選んで着れる人類であることを心より嬉しく思いマス。
この日を一生忘れません。
iPhoneからの投稿
文化服装学院の文化祭の2005年のファッションショーだった。
予備知識なくよくわからないまま『なんでこんなに並ぶんだ?』と半ば不満ながらに座った。
しかし、そのショーは、いま思うとその後の私の人生を変えてしまったのだ。今思えば、あれは人生の一つのターニングポイントだった。
オープニングのSEの凄さ、一つ一つの美しく信じられないほど繊細かつ豪華な服たち。
シーンという5分、10分に別れた美しい時間の集合体は宝石箱のような一つの世界になること。
最後のシーンで自然に涙が出てしまった。
ファッションに興味がない、ファッションショーを生で見たことがない人にはわからないかもしれない。
けれど、ファッションには、ファッションショーには、人の心を動かす力があるのだと確信した人生の一日目だった。
文化祭から帰った私は一緒にいってもいない家族や友人にひたすらそのショーのすばらしさを語った。
みんなポカンとしていた。そりゃそうだ。見てないものはわからないのだ。
悔しい、本当に悔しい。あの素晴らしさが伝わらないなんて。
とは言え、私が作ったものではないし、私と文化服装学院には何の接点もいまのところないのが事実だ。
それに気付いて考え始めてから少し。私は文化服装学院のスタイリスト科に入りたいという事をはっきり心に決めた。
実はこの頃スタイリストになりたかったのだ。
だから、スタイリスト科に。その程度だった。
あのファッションショーが本当は作りたかった。でも、ファッションショー科という科はなかった。厳密に言えば、ファッションディレクター専攻がそれに最も近かったのだろうけれど、バカな私はそんなこと知らなかった。
第一、ファッションショーはお祭りだ。お祭りは、仕事に、お金になるとは思えなかった。
そんなこんなでバカ高い入学金に年間150万近く親に出してもらい私は文化服装学院のスタイリスト科に2006年入学した。
文化の新入生歓迎会は、少し変わってる。ファッションショーで歓迎してくれるのだ。新歓ショーという。その他にも小さな発表会に、装苑賞。一年中何かしらあるのだ。
痺れた。
ショーをこんなに身近に見れるとは。
そして、毎年11月にあるファッションショーの実行委員は、すでに初夏には決めて行くのだ。
私はどうしてもそれがやりたかった。
応募に必要なデザイン画を意気揚々と描いて担任に渡すと困惑する担任。
当時はわからなかったけれど、今ならわかる。
ファッションといえど、やはり基本は信用なのだ。一発勝負のショーとなれば、尚更。
要するにどんなにやる気があろうと、遅刻欠席がなく、成績優秀てわなければ、実行委員にはなれないのだ。
華やかなことが好きで地道な努力や、規則が苦手という根っからのキリギリス体質の私にそんなことは、無理だった。
だから、担任はその生活態度と、反比例した私のやる気のギャップに参っていたのだ。
程なくして実行委員になれなかったことを伝えられた。
残念だったけれど、実行委員じゃないにせよ、どのみち何かしら係りになれると聞いて安心し、私は結局卒業まで三年間、いつもショーで流す映像なんかを作った。
それは、純粋に楽しくてたったショーの中でのたった一部でしかないけれどいつも放課後がくるのが、楽しみだった。
が、逆に言うと、ファッションショーというのは、皆で壮大に手分けして協力しあって作るものだと思い始めていたので、自分は映像さえ作れば、ファッションショーを『作った側』になれていると思っていた。
そして、私が多分最後に文化でやったショーは、スタイリスト科の卒業ショー。
皆泣いてた。
私も泣いた。
ショーは、青春だった。
そして時は経ち2014なぜか私はまたファッションショーを今日やった。
まさか28歳で出来るとは…
しかし、このショーは今まで私が知っていたショーとは違かった。
少人数制。異文化。
日本Androidの会アクセサリ部と文化服装学院のコラボレーションなのだから。
これは、感情を綴ってるだけの日記なので内容の詳細はまた後日綴りますが、とにかく、文化の若い若い学生さんと、Androidの会のおじさんたちが繰り広げるショーだった。
私はちょうどその繋ぎ。
どちらの気持ちもわかるだけに気を揉むことも多かった。
何よりやることが多い。映像だけ作ったってショーにはならない。
わかってるようでわかってなかった。
メイクもモデル手配も照明指示も全部自分がやるショーなんて初めてだ。
ショーを学生時代何度もやったのに、こんなに全てをやるのは実は初めてだったのだ。
そしてなんとかショー本番。
さっきまでのリハーサルははっきり言ってやばかった。
どうにかはたしてなるのか自信はない。
オープニングSE。始まってしまう。始まって欲しくない。けど、終わって欲しい。
初めて青い顔でファッションショーを見つめた。
まばゆい光、そして美しく歩くモデル。シーンに合わせた音楽。
それは、きちんとしたファッションショーになっていた。
この上ない達成感。
あぁ、これがファッションショーだ。
ふいに思い出したのだ。
ステージはたった15分程度。しかしそれに費やした労力は、約半年。
なんで、こんな地味で辛いこともあるのに、私達ファッション星人はファッションショーを何度もやりたがるのだろうか。
そして、どんなに製作過程で苦しいことがあっても作ったステージをみるといつも感動してしまうのだ。
やってよかった。って。
最後に学生リーダーだった淡路くんが少し泣いていた。これこそが青春でありファッションショーなのだ。
満足感と疲労感の中向かう二次会への道の中ふいに思った。
初めて見たあの2005年のファッションショーが私の人生をかえてしまったのだ。
あれは魔法だった。
呪文もないし、変身もない魔法。
だって私はあの日文化に入ることを決めて、増田先生はじめ色々な出会いがあり今に至る。
私は人生は、タイミングが9割と思っているのだが、私が文化でちんたら就職活動をしていた中でリーマンショックがおきて、途方にくれた中でみどりちゃんが私をメイド喫茶に拾ってくれて。
そこでの出会いがあったから、今日のショーができた。
私が文化を出てアッシュペーとか、エーネットとかにアパレル的エリート就職がもしできてたら、こんなことは出来なかったのだ。
私の人生は、決して誰もに褒められうやまれるものではないだろう。
でも、実のところ私はこの人生をとても気に入っているのだ。
そんな人生に導いてくれたあのファッションショーに感謝するし、今日曲がりなりにもファッションショーをまた出来たことをとても嬉しく思います。
ショー中に写真を撮る余裕がなくて、打ち上げの写真しかありません。
みんなすごく打ち上げ嬉しそうだった。私も嬉しかった。
人間に生まれて28年。辛いことがあると猫や魚になりたいと思うこともありますが、私はどんなに辛くても唯一自分の意思で洋服を選んで着れる人類であることを心より嬉しく思いマス。
この日を一生忘れません。
iPhoneからの投稿