僕は2週間前に実家のある九州に一人で飛んだ。

僕が尊敬する伯父さんが余命3ヶ月の宣告を受けたと母から聞き、会えるうちにあっておこうと判断したからだ。

急性骨髄性白血病だそうだ。

御年84才で、現役の医師として働いていて、1/20には名古屋で整形外科の看護師の研修会の講師を務めると聞いて、意味がわからんと思っている。

「白い巨塔」で有名な大阪大学医学部の整形外科の助教授だった伯父は、その後、久留米大学の医学部教授となった。

そして、研鑽を重ねて股関節の手術の世界的な権威となり、数年前まで現役で手術もこなしていて、それこそブラジルなど地球の裏側からも手術を受けるために来て、何年も待ちが続く状態だったそうだ。

僕の妹が医師を目指し、女性としてはあまりなるべきじゃないと言われている整形外科医になったのも、「伯父さんのような人になりたいから」と言うものだった。

小学校の一年生の時に両親が離婚しているので、僕にとっては父の存在がよく分からないのだけど、小さい時から本当に可愛がってくれた。だから、僕にとっての父親像は伯父さんだった。

伯父さんの息子(僕の従兄)も同じく医師で、日本で医師資格を取った後に、アメリカに渡り、小児救急医としての専門資格もとって長いこと活躍し、その後世界中の医療未発達地でその技術を伝えていて、今はJAICAの仕事でモンゴルにいるのだけれど、実の息子である従兄に対しては「男は抱いて育てるものではない」と言い、遊園地などにも連れて行ったことがないのに、

僕のことは、抱っこして高い高いなどしていたので、「唖然とした」とのちに従兄がいうぐらい、可愛がってくれていた。

とにかく気さくで、僕が小さい時には、いつも手品を見せてくれた。僕が真剣にタネを見破ろうとして教えてくれと言っても茶化しながら絶対に教えてくれなかった。

温泉に一緒に行った時に、最後の支払いで金色のカードを出し、「お金を払わないで」宿を去る姿に、「おじちゃん、なんでお金払わないでいいの!」と聞いたら、「このカードはね、名前を書くだけでお金を払わなくてよくしてくれる魔法のカードなんだよ」と笑いながらいうので、僕は「どうしてもそのカードが欲しい」とねだったら、

「あのね、これは伯父さんと同じ名前をちゃんと書けるようにならないと使えないんだ。なので、漢字で同じように伯父さんの名前を書けるようになったらあげるよ」といたずらっぽく笑ったので、僕は必死でそれから伯父さんの名前を練習した。

その結果、自分の名前より先におじさんの名前を漢字でかけるようになった。

僕が中学生の時に、初めて中間テストがあって、その成績表を見せた時に、確か学年360人中30番ぐらいだったのだけど「信貴、一位になる必要はない。ただ、上位1割には常に入っていなさい。それは努力でどうにかなるから。そして、どんな集団に入っても上位1割には入るようにしなさい。一位にはならなくていいよ。そうすればたくさんの選択肢から好きなものを選べるようになるから」と言ってくれた。で、1割に常に入るように頑張っていたら一位になった。面白いものだと思った。

僕が高校、大学と海外に行くことになった時には、お金を一部出してくれた。

大学時代にLAにいた時には、学会に伯父が呼ばれて、その合間を縫って、一緒にアナハイムのディズニーランドに行ったりもした。

20歳ぐらいの僕と、当時60歳を超えていた伯父の男二人で本場のディズニーランドに行くという、訳の分からない感じをいまだに覚えている。一緒にサンダーマウンテンに乗った。

大人になってからは、会うたびにニコニコしながら、飄々と接してくれていた。

そんな話を一通り、ソファに座りながら伯父さんとした。

彼は、ニコニコ笑って聞いてくれていた。

そして「信貴は愛おしかったんだよ」とボソッと言ってくれた。

1時間ぐらい話して、まだ話は尽きなかったけれど、ニコニコしながらも疲れてそうだったので写真を撮って帰ることにした。

伯父さんと伯母さんには本当にお世話になったので、何かの足しにとお金を入れた大きめの封筒を渡した。

もちろん、固辞されたけれど、

「変な感じにグレずに今の僕があるのは、伯父さんがいたからだと思ってます。ありがとうございます。」

と頼むから受け取って欲しいと言った。

すると、

「今の貴方があるのは、貴方が努力をしたからです。
僕はただ、見守っていただけです」

と伯父さんは本心でまっすぐ僕を見ながら小さな声で言った。

僕の口からはすぐにこんな言葉が出てきた。

「伯父さんに見守ってもらったことに、意味があるんです」

伯父さんは、少し涙目になりながら僕に握手を求めてきた。

僕は、これがもしかしたら最後かも知れないと思いながら、84歳になった伯父さんの手の温かみを受け取った。

「次は一緒にUSJ行きましょう!」

僕はそう言って玄関を後にした。

飛行機に乗って、最初にイヤホンから流れてきた曲は、米津玄師の「Lemon」だった。

あまりにもできすぎていた。

でも、「今でもあなたは私の光」という歌詞は本当にそのものだ。

USJ行けるといいな。僕の子どもたちにも会わせてあげたい。

——

そんな日記を書いて1週間ちょっとが経ち、

伯父が先日他界した。

USJは行けなかったし、子どもたちにも会ってもらうことは叶わなかった。

伯父さんのために僕が何かできたかというと、僕は何もできなかった。

そもそも自分のために何かを求めた人じゃなかった。いつも患者さんのことを考えていた。

ちょうど僕の海外出張のタイミングと重なり、葬儀には参加できないので、僕のタイミングでお祈りをさせてもらった。

久し振りに会った従兄が「息子である僕ができなかったことをいろいろしてくれてありがとう」と抱きしめながら声をかけてくれた。

笑顔で感謝をしたいと思ったけど、

伯父が棺に入っている姿を見て、とめどなく涙が溢れてきた。

「ありがとうございます」

何度かそう言って、その場を立ち去った。


一階に降りると、教会で、従姉の息子さん(3歳ぐらい)が大暴れしていた。

「一緒に外に行かないかい?」と声をかけたら無視された。

そこで、懐中電灯をもって歩いていたので、


「探検に行かない?」と声をかけた。


「いかない!」と言いながらも今度はちょっと反応してくれたと嬉しかった。


そうか、彼に決めてもらう言い方に変えてみようと、


「ねぇ。おうちにそのままいる?それともお外に探検に行く?」と聞いた。


すると、


彼は、大きな声で、笑顔で、


「探検に行く!」

と言って近づいてくれた。



そうだった。


伯父さんはいつも、僕にそうやって接してくれていたんだった。

伯父さん、本当にありがとうございました。