昨日は、朝の打ち合わせ以降は、半分オフみたいなものでした。

 

卒塾生の中村まどかちゃんがツイッターで「そろそろ坪田先生と話したい」みたいなことを呟いていたので、「ほんならランチでも!」といってミッドタウンでランチ。

 

そうか、彼女と出会ってもう十年か。

坂本龍馬と野菜のマニアだった彼女は、今年2回も高知県の桂浜にいって6時間ぐらいボーッとしたとか。

 

面白いなと思ったのは、悩んだり考え事をしたい時には「龍馬さんに話しかける」のだそう。

 

これはとても興味深かった。

 

自分の中で指針となる憧れの存在の思考をインストールして、その人に話しかけるのは「メタ認知がしやすい」のだそうだ。

 

「ねぇ、日記さん、聞いて」というのに近いのかもしれない。

 

さらに言えば、憧れの人の思考は、現状の自分との乖離も感じられるので、理想の自分に近づけるやりかたかも知れないと思った。

 

翻って、自分ならどうするかなーと考えた。

 

僕は思考するときは「論理的に」考える。

とはいえ、かなり壮大な設定(「世界史の教科書に載る」という自分のロードマップにおける論理的)なので、コンフォートゾーンは無視するのだけれど(なので、平気で色んなものを固執せずに捨て去ることができる)、そうじゃなければ、「論理的」というのは「あり得る答え」しか生み出さないのかもしれないなと思った。

 

彼女はいまベネッセで雑誌編集者をしつつ、出向で文科省に行っているらしい。プログラミング教育の運用マニュアルを作る中で、現場の先生や校長などと話していて、「なんでプログラミング教育が必要なのか」という目的の部分で理解を得られないことに悩んでいたけど、

 

「そもそもプログラミング思考ってなに?数学や現代文じゃダメなの?」と思った。

 

 

てか、そのプログラミング思考を得るために5教科やってきたんじゃないの?と。

 

個人的には、「英語の学習」なんてまさにプログラミング思考だと思っている。

 

実現したい表現があって、そのために対応するピースである単語を当てて、文法という論理を使ってまとめる。で、英語文法には「例外」があるので、その例外チェックをしながら、しかもその場で最も適当な条件に当てはまるものを作るっていう能力を養うのが今の日本の英語教育であり、「英語をマスターしてコミュニケーションする」というものではないと認識していたので、「なにを今更プログラミング思考とかいうの?じゃあ今までってなんだったの?」と思ったり。

 

そういう疑問を彼女にあてて、彼女が自分なりに答える…みたいなこういう時間がとても楽しかった。

 

彼女の成長もみれたし。

 

いつか絵本を電子書籍で出版したいとのことだったけど、「それならやろうと思えば1ヶ月でできるやろ」と伝えた。

 

お互い良い刺激になった。

 

 

そしてつぎはさやかちゃんとお茶をした。

 

インド、タイ、シンガポールと海外での講演ツアーに行って戻ってきた彼女はそれなりにカルチャーショックを受け、また日本人の現地駐在員の意識に驚いたようだった。

 

彼女とは初めて出会ってから13年だか14年が経つけれど、こうして近況を報告しあって、お互いの経験を同期するやりとりを半年に一回ぐらいは繰り返している。

 

ビリギャルを出版して5年半、STORYS.JPで死ぬほどバズってからちょうど丸6年が経ち、僕が40代になって、彼女が30歳になった。

 

共通の知人である「秋元ういちゃん」の絵本の爆発を共有しながら、「小学三年生で人気番組の行列に出るとか、ロケットの発射台が高すぎる笑  」と笑いながらお互いに羨ましいといっていたけど、

 

「でもさ、25歳の時に有村架純ちゃんが君を演じて、世界中で知られるようになったというのも大概だと思うぜ 笑」といったら、

 

「たしかに!笑」

 

となった。

 

今度はさやかちゃんの本が中国で翻訳されて出版されるそうだ。

 

 

途中、「でも、私って要は受験しただけじゃないですか」というので、

 

「あのね、世の中にはさ、さやかちゃんみたいな経験した人なんていくらでもいて、受験しただけといえばそうなんだけど、僕に言わせれば、世の中そんな人沢山いる中で君がこうなったのは、君のキャラクターや人間力が突出してるからだよ。そうじゃなかったらコンテンツになりようがない」と答えた。

 

それ言い出したら、「織田信長なんて戦っただけじゃないですか」とか「ピカソなんて絵を描いただけじゃないですか」となる。

 

みんな「同じようなことをしている」のだ。

 

「僕さ、自分のこと、運が良いとよく言ってる。その方がなんか感じが良いでしょう?笑  でも、偶然でそうなったなんて全く思ってない 笑笑  当たり前だけど、1つ1つの選択の賜物でそうなったわけで、それを選んだのは自分。もちろん多くの人の助けがあったわけでそれに対する感謝はすれど、そもそもそれこそ、みんな同じような助けを受けているし、みんな何かしらの環境の中で運が良かったり悪かったりしてるわけで。とはいえ、僕は「運が良かったんですー」っていうよ。公にはね。だってその方が感じ良いじゃん 笑」

 

 

 

僕はミスチルが好きだけど、「HERO」の歌詞の解釈に違和感がある。

 

あの歌詞は、要は「世界中の人を救うようなヒーローにはなれないけど、あなたひとりのヒーローになりたい」というもので、

 

それは根本的に間違っているし実現不可能。

 

なぜなら、結局、世界中の名もないだれかを救いたいと思って行動してる人じゃないと目の前の大切な一人も救えないからだ。

 

というのも、なんで「世界中の知らないだれかを救えない」かというと、「そこに利害関係がないから」だ。

 

つまり、自分にとって「知っている」とか「大切」だという感情や損得、愛情などがあれば救えるけど、そうじゃなければ救えない」というのはとても内向きで自分の損得で行動していることになる。

 

ということは、「目の前の大切な誰かのために命を投げ出す」ような瞬間は、その大切な人を救うことが自分にとっての利にはなり得ないし、さらにいえば関係性が悪くなったらその人のためには何もしないということになる。

 

つまり、ある種の無私の精神がある人で、名もない、利にならないような人のためにですら命を投げ出せる人こそが、今目の前で窮地に立っている「大切な人」が、大切じゃなくなったり、自分にとって損な状況になっても立ち上がることができる。

 

で、さやかちゃんのお母さんが「自分の子どもだけでなく、世界中の子どもたちが幸せにならないと、結局自分の子どもが幸せにならない」という考え方は、本当にその通りで、真理なのだ。

 

つまり、仮に僕の娘が親の愛情に恵まれ、経済的にも、人的にも余裕を持って生きて行けるとしても、途中で出会う「不幸な子どもたち」が沢山いればいるほど、いじめられたり、不利益を与えられたりする。

 

なので、結局、みんなが幸せであれば、多くの人が余裕を持っていて、子どもに優しくしてくれる。

 

これって、僕のいうヒーロー理論と同じなんだと思っている。

 

だからこそ、吉本の大﨑会長の提唱する「ラフ&ピース」という概念が僕は好きで、

 

多くの人が笑える社会を作ることで、平和がもたらされるのだという思想に激しく共感した。

 

確かに!

 

 

「笑顔」や「笑い」はゼロサムゲームじゃないのだ。

 

いくらでも増幅できる。

 

そこまで詳しくはさやかちゃんには言わなかったけれど、改めて、喋りながら、

 

「教育」もゼロサムじゃないし、こうして、色んな子どもたちと接して、活躍をサポートすればするほど、世の中良くなるんだろうなーと思ってる。

 

そして、何より、彼らが社会人になって笑いながら色んな話をする時間が僕にとっての至福の時なのだ。

 

あー、良い1日だった。

 

 

*注    ミスチルさんを批判しているわけじゃないし、ヒーローの歌詞が嫌だと言っているわけではなく、大好きですが、そこで多くの人が「解釈」しているモデルが、本質的に櫻井さんが伝えたいこととは違うんじゃないかと思っているという意味です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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