塾で初めて親子とお会いする時に必ずする質問があります。

それは、

「あなたの名前の由来はなんですか?」

というものです。

子ども本人に聞くんですが、意外とこれに答えられない人は多いです。

そこで、親御さんに聞くんです。

「ぜひ、お子さんの前で教えてもらえますか?」と。



なぜこの質問をするかというと、4つ理由があります。


1つは、「子どもの名前の由来に、親御さんのお子さんに対する最初の願いがあるので、それを身に刻んで、共にそのお子さんの成長を喜びたいから。」

もう1つは、「子どもの名前の付け方で、この家庭の価値観やパワーバランスがわかるから」

もう1つは、「お子さん自身に、親御さんの愛を知って欲しいから」

そして最後に、「親御さんに初心を思い出して欲しいから」……です。


例えば、

「健(たける)くん」

という名前だったとしましょうか。


苗字は基本的に自分たちで操作できませんが、下の名前は変えることができます。

若い時から子どもができたらこういう名前にしたいと思い続けてきた人もいれば、妊娠中に夫婦で決めた人もいれば、祖父母が画数で決めた人もいれば、近所の住職に名前を貰った人もいます。


家庭のパワーバランスという意味では、お父さんがつけたのか、お母さんなのか、あるいは2人で決めたのか。おじいちゃんなのか、おばあちゃんなのか、あるいは親戚なのか。

子どもの名前を決めるという大きな決断においては、一番その家庭のパワーバランスが見れるんですよね。

なので、例えば「おじいちゃんが決めたんです」となったら、当然ですが、お子さんの進路や家族の意思決定においておじいちゃんの意見を聞かないことにはなりません。そういう場合は、「今度お祖父さんとお話をさせてもらえますか?」ということもありえます。

また、「健くん」であれば、きっと、「すこやかに」「健康で」いて欲しいと思われているのでしょう。

画数を気にされている場合は、重要な判断においてスピリチュアルなことを重視されている、直感的なことプラス他者の判断を必要としているのかもしれません。

そして何より、この「名付け」には必ずストーリーがあるのです。


そして大抵そのストーリーは感動的なんです。

僕はそこで、この1人のうなだれて自分に自信がない子が、どれだけの人たちに愛され、期待されて生まれてきたのか、育ってきたのか、そして今目の前にいる目を合わせてくれない子が、なぜ目をキラキラ輝かせていないのか、そういうところに想いを馳せるのです。

すると、とても他人事ではないんですよね。


もちろん、その話を聞くと、子どもたちは「そうなんだ。知らなかった」となります。

また、親御さんは「あれ?言ったことなかったっけ?」となります。

これがとても重要なんですよね。


親子って、日常生活を共にしているので、
色んなことを、経験を共有していますが、なかなか深い部分の思いや原点みたいな部分ってコミュニケーションしていなくて、日常の1つ1つのこと目の前に常時来ることに対して「対症療法的な会話のみ」みたいなことが多いのです。

「お風呂洗ってきて!」「はーい」とか、

「宿題やったの?」「まだー」とか、

「学校でいじめられてるの?」「いや、そういうわけじゃないけど」

みたいな。

あるいは、そういう根本的な、思想的な話をしていても、量として対症療法的な会話が多いので、上書きされてしまうんですよね。


そこで、改めて「塾に入ろう」というこの瞬間は、
僕が触媒となって、改めて「自分が子どもに抱く想いを再確認してもらう場」であったり、「子どもが親の愛情に気づく場」にしたいなと思うので、この質問をするのです。



じゃあ、翻って、僕の名前なんですが、

「信貴(のぶたか)」といいます。


結構変わった名前でね、小学生の時は、

「野豚か」ともじられて、いじられたりしたりね、
言いにくいしね、あまり好きじゃなかったんですよね。

あと、留学して、あまりにNOBUTAKA が言いにくいからね、「プリーズコールミー NOBU」というとね、

英語の発音的に
「ノブ」が「knob」に聞こえてね、これはスラングで「亀頭」っていう意味があるんです。

だから笑われたりとかもしました。



結果、「自分の名前が好き」なんて思ったこと一度もなかったんですよ。


そもそもね、この名前の理由が、「お坊さんになった時の僧名を意識して付けられたもの」というものであったというのも、なんというかね、「呪い」みたいだなと思っていました。

信貴→しんぎ

と読ませるみたいな意図だったそうです。

もう生まれた瞬間に田舎のお坊さんになることが決まっていたわけですね。

いや、お坊さんがダメだとかいう訳じゃないんです。

「生まれた瞬間に決められている」ということにずっと抵抗を感じていたのです。


結果的に、母がお寺から僕を引き離してくれたからこそ、今の僕があるのですから、不思議な話です。


でね、

今日、ある出版ゼミがあったんですよ。

ここ最近の僕は学習意欲に溢れていて、なんなら学校に通おうかと思っているぐらいなんです。

で、とりあえず、超一流だと思う人の体系的な知識を学んでみたい!と思ってね、わざわざ行かなくてもいい出版ゼミにお金を払って通っているのです。

そこでね、

ジョンキムさんの言葉として「あなたの墓になんと刻まれたいですか?」というのが紹介されまして、
3分ぐらい考える時間があったのです。

するとね、

10秒ぐらいで、すぐにスラスラと出てきたのがこれでした。


「地球史上、最も人を信じ、貴んだ(とうとんだ)男、ここに眠る」




これが良いなと思ったんです。


「信じ、貴んだ」って、「信貴」なんですよね。


人の可能性を信じ、貴ぶ。


貴ぶ(とうとぶ)というのは、尊ぶと意味が少し異なります。

貴いは、「他に代えるものがない」「価値が高い」「貴重」という意味です。


つまり、一人一人がとても他に代えるものがないほど貴重な存在であると、その一人一人の可能性を信じるってことか!


とスラッと出てきた言葉の重みにめちゃくちゃ感動しました。


それ、ビリギャルの坪田先生じゃんっ!

って笑笑





↑これは伊藤淳史さん(^^)




いや、これを狙っていたとしたら、


うちの母、ヤバくない?


と思ったんですよね。


そして僕、見事に洗脳されてるなとも思いました 笑



何にせよ、もう、こうなると逃げられないなと。


自分の名前を祝福と捉えて生きていけるようになりたいものだと思いましたね。