先ほど、ご紹介致しましたNobk's-Home-Page様より転載させて頂きます。



『七夕伝承雑記』


(要旨)  我が国の民俗行事の一つである「七夕」の由来は単純ではない。数多くの要素が混ざり合って形成されたものである。
そもそもは、中国の西王母伝説の中の織女・牽牛の物語から始まる。織女は天帝の娘であり、華麗なる美貌の天女のイメージを伴うものである。しかし、やがて、二つの星が逢い合う七月七日の夜には、女性が手仕事の上達を織女の星に祈る乞巧奠が行われるようになる。この行事は宮中節会としては定着しなかったが、王朝貴族の個々の家の年中行事として伝えられてゆく。  

他方、我が国には古来から棚機津女信仰というものがある。それは、水辺で神の衣を織りながら神の訪れを待ち、やがて神の精を妊み神の妻となる巫女である。

この棚機津女信仰が、中国から伝えられた七夕伝説と習合する。「七夕」と書き、「織女」と書いて「たなばた」と読むのはこのためである。江戸時代になると、乞巧奠の流れを汲む七夕が、武家・町人の社会に五節句の一つとして定着するが、一方、農村では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水にかかわる農耕儀礼の性格を持ち、更にそれに盂蘭盆会の行事としての要素が加わる。


このように、七夕と云う我が国の民俗には実に多くの要素が混ざり合っているが、基本的には、中国から伝わった西王母伝説と、東南アジア由来の来訪神信仰との習合である。それは、異質な文化が見事に融合した実例の一つである。

現在の地球上に多発する民族紛争・宗教紛争は異質な文化同士の激突であると見ることができよう。

この意味において、異質な文化を融合させた七夕の民俗を持っていることを我々は誇りとしてよいのではあるまいか。


現代では、地方の観光行事か幼稚園のお遊戯になり果てている七夕を評価し直してもいいのではあるまいか。


(1)七夕の星たち  夏の夜空、天の川を挟んで、ひときわ明るい光を放ちながら、相対する二つの一等星。

東に位置するは琴座の主星「ベガ」(Vega)、西にあるのが鷲座の主星「アルタイル」(Altail)、その中間の天の川にあるのは、白鳥座の5つの星が作る北十字星。それらは、星空に壮大なロマンを描き出す七夕の星たちである。

中国では、ベガが、その近くの2つの星とで作る小さな三角形を「織女」と呼ぶ。アルタイルを真中にして、その両隣の2つの星とで作られる小さな一直線を「牽牛」(あるいは牛郎)と呼ぶ。白鳥座の十字形をなす星たちは「天鵞」と呼ぶ。

我が国では、織女三星を「織姫」(あるいは「たなばた姫」)、牽牛三星を「彦星」、そして、天鵞の十字星を「かささぎ(鵲)星」と呼ぶ。

織女と牽牛とは相思相愛の仲であるが、いつもは、天の川に阻まれて逢うことが出来ない。しかし、一年にただ一度、七月七日の夜だけは、鵲が両翼を広げて天の川の上に架けた橋を渡って、逢う瀬の一夜を過ごすことができる。七夕の夜である。


(9)棚機津女

他方、七夕を「たなばた」と読み、織女を「たなばた」と読むのは、我が国古来からの「棚機津女(たなばたつめ)」信仰が、中国から伝わった七夕伝説と習合したためと折口信夫氏は云う。

そして、中国から七夕の行事が伝わった時、それが急速に受け入れられたのは、我が国に以前から棚機津女信仰が存在していたためであると云う。

棚機津女は、水辺で機を織りながら神の訪れを待つ少女のことである。

日本書紀は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃となる木花開耶姫(このはなさくやひめ)をも、神代下第九段一書第六において、そうした棚機津女として描いている。

すなわち、「かの先立つる浪穂の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉も、もゆらに、機織る少女」と表現するのである。

その織りあげる織物は、神が着けたまう衣であり、少女は神に仕えて神の精を妊み、神の妻となる巫女である。

かくて、棚機津女もまた神として祭られた。

延喜式は尾張国山田郡に多奈波太神社を記しているが、それのみではなかろう。
河内交野原の天棚機比売を祭神とする機物神社も、そうした神社の一つであろう。

天照大神みずからも、また、棚機津女(たなばたつめ)の属性を帯びている。

古事記上巻「天照大神、忌服屋(いみはたや)に坐(ま)して、神御衣(かんみそ)を織らしめし時、------、天の服織女(はたおりめ)、
見驚きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死にき」

日本書紀神代上第七段本文「天照大神の、みざかりに、神衣(かむみそ)を織りつつ、斎服殿(いみはたどの)に居ましますを見て」


日本書紀神代上第七段一書第一「稚日女尊(わかひるめのみこと)、斎服殿(いみはたどの)に坐(ま)しまして、神之御服(かむみそ)織りたまう」

日本書紀神代上第七段一書第二「日神(ひのかみ)の織殿(はたどの)に居します時」などが、それを示している。





(10)ニライカナイ  
沖縄の古い民俗にニライカナイの信仰がある。ニライカナイとは海の彼方にある神の国である。神がそこから訪れて来て豊穣や幸いをもたらしてくれると考える。沖縄の古歌謡集「おもろさうし」には、ニライカナイは東方にあると云う。これは、ニライカナイの主神を太陽神とし、太陽が昇る方向にそれがあると想定したものである。しかし、地方によっては必ずしも東方に限られていない。

沖縄の各村落にあって、村の祭祀を統括し主宰した「のろ(祝女)」は、ニライカナイから来訪する神を迎えて祭り、また、神が帰って行くのを見送る。奄美地方では毎年二月の壬(みずのえ)の日に神を迎える。
これを「おむけ」と云う。そして、四月の壬の日に神を送る。これを「おほり」と云う。

このような、海の彼方からの来訪神への信仰は、広く東南アジア・オセアニアにも分布しており、沖縄におけるニライカナイは、そうした文化の一環であるとみられる。

他方、我が国における棚機津女信仰が沖縄のニライカナイ信仰と同一のものであることは明白と云えよう。

日本書紀が棚機津女として描く木花開耶姫は、太陽神天照大神の孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を笠沙の浜に迎える。笠沙が薩摩半島の先端に近く、沖縄・奄美と指呼の地であることも、この考えを勇気づける。


このようにして、棚機津女信仰は遠く東南アジアに起源するものと考えて間違いないであろう。


(11)機織り御前

日本各地に伝えられる伝説の中には、水辺で機を織る女性に関するものが、随所に見られる。柳田国男が「日本の伝説」の中に、「機織り御前」という題の下で記しているところを表の形に整理してみたものを本稿の末尾に別表として掲げる。このように全国各地に見られる機織り姫伝説の中には、単に川瀬の水音を擬人化しただけのものもなしとは出来ないが、ほとんどのものは「棚機津女」信仰の流伝であり変形したものであると考られる。

これらの中には、著しく変形してしまったものもある。機を織る場所も泉のほとり、沢の岸から、池の底、淵の底にまで変化し、機織る女性も若い姫から、山姥、竜宮の乙姫、水死した女に至るまでの広がりを見せているが、根幹となる(1)水辺、(2)機織り、(3)女性、の3点は、おおむね揺るいでおらず、これらが棚機津女信仰がたどった最後の姿であることを示している。

他方、このことは、遠くニライカナイの神に由来する棚機津女信仰が、古くは日本の隅々にまで広がった民俗であり信仰で尾張の式内社多奈波太神社や交野の機物神社などは、実は、その広い底辺を持った民俗の氷山の一角に過ぎないことを示しているものと思われる。



掲載誌:「七夕の星たち(伝承雑記):北河内文化誌「まんだ」55号(1995年7月)
改訂掲載誌:「七夕伝承考」:関西外国語大学研究論集71号(2000年2月)


金谷様が真摯な眼差しで見つめ、研究し、書き上げた貴重な文章を拝読し、大変感銘を受けておりました。

多角的な面から、広い視野をもって体系的な研究となし、想いが込められている『七夕伝承雑記』だと感じます。


私が、見えない世界から伝えられて、聞き、見ていたものを抱いていた時に、たどり着き出会った意味もあると深く感じており、金谷様に改めて御礼申し上げます。


今回の記事では、この貴重な『七夕伝承雑記』のご紹介と、感謝の想いを綴らせて頂きました。


金谷様のHPには、多くの作品が掲載されており、大変興味深く拝読させて頂いております。皆様もご覧になって、喜び、結びとなりますようにと想っております。


有難うございました。