海外で戦うボクサー!石田順裕 前編〜ルディとの出会い、妻の支え、世紀の大番狂わせ〜 | @TUG_man石田順裕応援ブログ

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世界リアルボクシングドキュメント

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先週7日、大阪LLCスクラム交友会にて石田順裕トークショー『海外で戦うボクサー!石田順裕』が開催された。

このイベントは当初、麻衣夫人との掛け合いで、夫婦漫才風トークを予定していたが、急遽変更、石田順裕&本石マネージャーというコンビでのショーとなった。

@TUG_man石田順裕応援ブログ-石田順裕と本石マネージャー
アットホームな雰囲気の中、ますは石田順裕のあいさつから始まった。それから順を追って、これまで海外で戦って来た日々について、

なぜ海外へ行こうと思ったのか、そのきっかけから実際に試合が決まるまで。そしてべガスでの大番狂わせに海外タイトルマッチまで。さらには石田順裕の苦悩や麻衣夫人に支えられたエピソードまでも語られた。


【海外トレーニング最初のきっかけ。vs大東旭戦】
@TUG_man石田順裕応援ブログ-石田順裕vs大東旭
2003年。今からちょうど10年前の話だ。石田順裕(当時28歳)は日本ランク1位に着けていて、そこから上、東洋のサバイバルマッチで結果に苦しんでいた。そんな折りに世界上位ランカーとの試合が決まったのだ。

大東 旭(48戦38勝26KO7敗2分)との一戦だ。大東は、WBC世界ランク5位で日本王座10連続防衛という驚異的なレコードを誇る、当時国内最強ボクサーだった。

「今のままでは大東さんには絶対に勝てない。自分を変えないとダメだ」

デビューからわずか6戦で東洋のベルトを獲得した時には〝世界は近い〟とすら感じていた。しかし、そこからが長かったのだ。もうかれこれ2年半も東洋圏にいる。石田は何としてもこの〝世界の壁〟を乗り越えなければならなかった。

「そうだ。アメリカへボクシングをしに行こう」

その時頭によぎったのが、ずっと憧れだったアメリカのボクシングだった。

しかし、思い立ったはいいものの、当時は今と違って単身アメリカのジムへ乗り込んでボクシングをする、なんて行動は現実離れした突拍子もないことだった。その頃の石田にもちろん海外のツテなんてない。アドバイスを聞く人もいなければ、どうしていいかすら分からないのだ。

@TUG_man石田順裕応援ブログ-マック・クリハラ
そこで、薬師寺保栄を育てた事でも有名な、マック・クリハラ氏の名前が浮かび、インターネットで居場所を調べて直接メールを送る事にした。ボクサー石田順裕個人の直談判、直接交渉だ。

〝初めまして、日本のプロボクサーで石田と申します。是非アメリカで練習させて下さい〟

そうして石田順裕は初めて海を渡った。試合前1ヶ月間のロスキャンプ。ボクシングの本場でトレーニングを積んだ。行く前に漠然と抱いていたアメリカ中量級のイメージは、黒人ばっかりで白人はもの凄く強い、一言で言うと〝レベルが違う〟というもの。

実際に日本人というだけでずいぶんと舐めきった態度を取られたと言う。

例えばジム内でスパーリングを呼びかけても〝6ラウンドやりたいだって?お前には無理だろ3ラウンドにしておけ〟と相手にされなかったりした。

しかし、日々トレーニングを重ねて行く中で、とある真実に気が付く。

「結局、強い奴は強いし、弱い奴は弱い。肌の色も何も関係ないんだ」

これは現実に海を渡り、実際に肌で感じなければ絶対に知る事ができなかった答えだった。石田順裕は世界レベルで戦う自分のイメージと出会う事に成功した。

@TUG_man石田順裕応援ブログ-海外でのスパーリング
次第にジム内でも認められる存在となり、時のチャンピオンクラスとも拳を交えた。そうして連日激しいスパーリングをこなした石田はより自信を深めて行った。

この海外初修行で得た成果のおかげで、大東選手に勝つ事ができたのだ。

石田順裕はこの劇的勝利により、世界ランキング16位にまで上昇した。
→2003.9.26 石田順裕vs大東旭の試合動画はこちら


【2度目の渡米。憧れのルディとの出会い。vsマルコ・アベンダーニョ戦】
@TUG_man石田順裕応援ブログ-石田順裕vsアベンダーニョ
再び渡米する事になったのは2008年、夏の話。石田順裕は大一番、WBA世界スーパーウエルター級暫定王座決定戦を控えていた。相手は同級4位のマルコ・アベンダーニョだ。手の内を知り尽くした者との、約1年ぶりの再戦である。第1戦目は接戦の末2-1で辛くも勝利を手にしていた。

スーパーウエルターという階級では、どんなに勝ち続けても、待ち続けても、世界戦は無理かも知れない。そう何度もくじけそうになった念願の世界タイトルマッチだ。こんなチャンスは2度と来ないだろう。次どうなるか分からない。

「このままではあかんぞ。もっと自分、強くならないと。もう一回アメリカへ行こう」

@TUG_man石田順裕応援ブログ-石田順裕とルディ・エルナンデス
そこで石田は、以前からずっと憧れていた世界的名トレーナー、ルディ・エルナンデスにお願いをした。2度目の渡米と言っても石田とルディに直接ツテはない。またインターネットで検索する所から始まった。膨大な同姓同名の中から本人を捜し出し、メールで直談判すると、快くOKをもらう事ができた。

ちなみにルディ・エルナンデスは、メイウェザーやデラホーヤと世界戦を戦った、元WBA&WBC世界スーパーフェザー級王者ヘナロ・エルナンデスの実兄である。

ルディとの出会いは、後の石田のボクシング人生を大きく変える事となる。

「ゆくゆくはルディの元でボクシングがしたい、と心から思った。信頼できるチーム、トレーナーがいてくれる事の大切さを感じました」

@TUG_man石田順裕応援ブログ-アルフレド・アングロ
アルフレド・アングロとのスパーを中心に、心身ともに充実した環境でトレーニングに励む事ができた。ルディにノリ隆谷氏、ダイスケトレーナーらと一緒に過ごす時間。それらが全て力となって、石田は世界タイトル奪取に成功したのだった。

そして、その後もルディとは、海外で試合を行う度に集結し、チームISHIDAとして共に闘う最高のパートナーとなったのだ。
→2009.8.30 石田順裕vsマルコ・アベンダーニョ試合動画はこちら


【メキシコでの正規決定戦で王座陥落。vsリゴベルト・アルバレス戦】
@TUG_man石田順裕応援ブログ-石田順裕vsリゴベルト・アルバレス
2010年。この時石田順裕は、ボクシングをする環境に様々な問題を抱え、悩んでいた。とても競技に集中できるような状態ではなかったと言う。

そんな中決まったWBAスーパーウエルター級正規王座決定戦。この一戦は計量器に細工されるなど試合前から波乱含みだった。

リング外で何があろうと、リング上で戦って勝てばいい。石田は優勢のうちに試合を進め、そして終了のゴングを聞いた。

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「2-1だったんですけど。自分では勝ったと思ったんですけど。嫁さんらも勝ったと思ったらしく、チームもうみんな勝ったと思った試合だったんですけど、負けて帰ってくる事になって」

敵地メキシコの洗礼は試合後にも起こったのだ。勝ち名乗りを受けたのは、劣勢の地元アルバレスの方だった。この判定に麻衣夫人も怒りを露にした。椅子を倒しながら近くの通訳に詰めより、抗議を訴えるよう言った。

〝あんた!そんな顔して勝ったと思ってるの?いい加減にしいや!〟

しかし、判定が覆るはずもなく、石田順裕は王座から陥落してしまった。

石田順裕は頭を悩ませていた当時の環境も、こうした判定も、リングの内も外も全てひっくるめて、ボクシングの何もかもが嫌になってしまった。

「もうボクシングなんてやりたくない。しょうもない。面倒くさいからやりたくない」

投げやりに引退をほのめかす石田順裕に麻衣夫人はこう切り返した。

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〝あかん!実力で負けたんやったら、そらもういいけど。それ以外の、しょうもない事が原因で全部ヤメたらあかん!〟

麻衣夫人は何度も何度も、何ヶ月も何ヶ月も石田の耳元でこう言い続けたのだ。それを聞いているうち、段々と石田順裕の気持ちが揺れ動くのである。

「俺、もういっぺん、やってみるわ…」

そうして石田順裕はフリーの身となり、ルディの元へ。また海を渡ったのだった。

明日どうなるかも分からない、海外のリングを目指して。
→2010.10.9 石田順裕vsリゴベルト・アルバレス試合動画はこちら


【掛け率17:1、世紀の大番狂わせ。vsジェームス・カークランド戦】
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2011年。石田順裕は、妻と子ども2人を残して、日本を旅立った。単身ロスへと乗り込んだ石田だが、この時ビザを取得していなかった。

「とりあえず3ヶ月間、アメリカで頑張るわ。それまでに試合が決まらなかったら…もう、やめる。それでええやろ」

手持ちのパスポートで滞在できるのは90日間。およそ3ヶ月間という制限付きの挑戦だ。世界戦クラスのボクサーが順調に、コンスタントに試合をこなしたとしても、通常は4ヶ月に1試合ペースがいいとこだろう。

現時点で試合のあてなど全くない上に、ホームを離れての海外挑戦である。厳しい状況だ。何のオファーも来ない可能性の方が高い。

〝うん。分かった。3ヶ月間、目一杯頑張って行き〟

わずかな希望を胸に、期日まであらん限りの命を燃やし、トレーニングに励む。試合が決まらなければそのまま引退となる。石田は覚悟を決めた。

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ルディとの充実したトレーニングの日々、キレて行く肉体とは裏腹に、試合の話は一向に進まなかった。もうダメかも知れない。

タイムリミットが差し迫る。刻一刻と時は過ぎて行く。それでも最後までやり遂げる。

その時、突然ルディの元へ1本の電話がかかって来たのである。

〝hi!ルディ元気かい。そうそうものは相談なんだがね…〟

何でもジェームス・カークランドの対戦相手を探しているらしい。カークランドは当時世界ランク4位、米国の期待を一身に背負うスーパーホープだった。戦績は27戦全勝24KO無敗、未来のスターを約束された男である。

「めちゃめちゃスゴい選手からオファーが来た。しかも場所はラスベガス。MGMのメイン会場、グランドガーデンアリーナ。ここには日本人は誰も立った事がない、スゴい場所なんですよ」

カークランドは世界戦直前に拳銃の不法所持で捕まり、出所して来たばかりだった。カークランド陣営の心中を察するに、元世界王者石田を相手にも、万に一も負けるとは思ってないだろう。何ラウンドで倒せるか。それを知りたがっているようであった。

「やるんやったらこれしかないなと思った」

この危険なオファーに、石田順裕はOKの返事をした。もとより3ヶ月間というタイムリミットがある。腹は括っていた。どの道やるか、やられるか。それならばむしろ相手としては最高ではないか。

試合当日。ラスベガス中が、いや世界中がカークランドに注目している。誰も石田順裕が勝つとは思っていなかった。オッズはなんと17:1という大差がついていた。

ゴング1時間前。これから試合へ出て行くという時、石田順裕は麻衣夫人と、これまで色んな事があったよな、と話をした。

そして別れ際、石田順裕は軽い冗談のつもりで何気なくこう言った。

「お前が〝ボクシングやれ、続けろ〟って言ったからやるんだぞ。だから、ここで俺が1ラウンドKO負けして、恥ずかしい目に遭ったら全部お前のせいやぞ」

これを聞いて麻衣夫人はとてもビックリしていたと言う。石田本人は軽い冗談のつもりでも、まさか試合前にこんな事を言うなんて初めての事だった。

それだけに、痛いほどピリピリとした決意が伝わって来る。

「俺は絶対に生きて帰って来るから…」

前夜、石田は必ず書き置きするはずの遺書を、妻の目の前で破り捨てた。

石田順裕がこの試合、絶対に勝ってみせるという強い執念と、決死の覚悟なのは誰よりも麻衣夫人が知っていた。

〝じゃあ勝ったら全部、私のおかげやな。頑張っておいでな〟

石田順裕は麻衣夫人のこの一言で吹っ切れた気がした。それまで強張っていた肩の力が抜け、気合いと緊張のほど良いバランスが一瞬にして整った。

そして、あの伝説のアップセット試合、世紀の大番狂わせを起こしたのだ。

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