土津神社(耶麻郡猪苗代町) | ハニーちゃんがゆく!

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平成31年4月14日参拝
米沢からどこをどう通ってきたのやら〜?
会津磐梯山を眺めるため車を停めたよ (n´∀`n)


今回の神社は猪苗代スキー場の麓に鎮座する土津神社です。


なんでここ来たかってさ ( ´▽`)ノ
お願い会津藩主松平家墓所キラキラ
墓オタの友達に連れられてどっちかっつーと神社より墓目当てでした。


土津神社の後方‥、
磐梯山麓の見祢山に葬られているのは二代将軍徳川秀忠の第4子で会津松平家初代 保科正之です。


墓所へ行く前に神社にお詣りします
保科正之は自ら猪苗代の地を訪れ、
「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と遺言を残していました。


創建時に造営された東北の日光といわれたほど壮麗な社殿は戊辰の戦火に焼失してしまったそうです Ꙭ
延宝3年(1675)よりすでに神式で藩祖を祀っていた霊社が政府にそのまま認可され明治13年(1880)再建という形で神社になりました。



御祭神は土津大明神(保科正之)、
相殿に高良玉垂大明神(武内宿祢か)と三代〜九代の歴代藩主です。
☝︎大事なことなのでもう一度!
保科正之は会津藩主松平家の祖で〝二代将軍徳川秀忠の第4子〟です。



松平家初代なのにどーして保科姓なの?という疑問
二代将軍秀忠は織田信長の姪にあたるお江(崇源院)を正室として二男五女をもうけ、
側室は持ちませんでした。
生母が側室と見なされていない正之は信州高遠藩主保科正光の元へ養子に出されました。
幕府から松平姓の使用を勧められていたのに養子として育ててくれた保科氏に感謝の意を表し生涯保科姓を名乗ったという( ノД`)よよ
三代からは松平姓になります

父からは公に子と認められなかったが、
三代将軍家光は正之が異母弟と知ると側近として重用しました。
義理堅い正之は徳川家への忠誠心を示す「家訓15箇条」を制定します。
会津松平家は尊皇思想を持ちながらも藩祖の教えを貫き佐幕派の中心として戦う事になるのだから皮肉なものです ( ノД`)
秩父宮雍仁親王(第123代大正天皇の第2皇子)と松平勢津子さま(容保六男の長女)の結婚は朝敵といわれてきた会津人に大きな感動を与えたそうです。
境内にたくさん植えられた宮さまお手植えの松が時代を超えた公武合体の象徴に思えてなりません!٩(๑•̀ω•́๑)۶

高松宮殿下お手植えの松


土津神社の御朱印です。
大きな三つ葉葵ですこと!
黒いスタンプの図案は磐梯山と碑石。
大サイズの帳面です

では奥の院(保科正之墓所)へ。



松林の参道を10分程歩きました。


参道の真正面に門が現れた時は震えましたわ。
そんな派手なお墓じゃないけど参道の長さと佇まいがサスガ徳川家康の令孫の墓〜!



あとの歴代藩主が葬られている若松の院内御廟についてはまた後日😇


墓石に刻まれた会津中将源君之墓の会津中将とは保科正之に授けられた官位です。


土津神墳鎮石の置かれた円墳が墓。
大きな塚の上に鎮め石を置くのが松平家スタイルのようです。


そんでその塚を下から霊神之碑を背負った亀趺が見つめる。
松平家の繁栄を願って置かれた縁起物です。



その大きな碑石には保科正之の生い立ちや功績などが彫られています。
規模は違えどわたしたちの墓でいうとご先祖さまの戒名や肩書きが書かれた墓誌ですね。


地面に張っている高さ1m程の松は、
その樹形からハイマツ(這い松)という高山種です。
巨大な盆栽みたく整った枝をのびのびと地に這わせる姿がまるで亀趺 🤔


保科正之が崇敬した磐椅神社は延喜式神名帳に記された陸奥国耶麻郡 磐椅神社の比定社です ( ノД`)
土津神社からとても近いらしいのでお急ぎでない方は合わせてお立ち寄りくださいませ〜。


武将とか今まで ('ε') フーン だったわたし、
今じゃ保科正之と会津松平家の大ファンになってしまったよねハート


◆土津神社
福島県耶麻郡猪苗代町字見祢山3