〔秩父2番〕真福寺(埼玉県秩父市) | ハニーちゃんがゆく!

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令和2年11月23日参拝
札所地図を見る限りはスンナリお参りできるものと思われたが‥◟꒰◍´Д‵◍꒱◞ 
楽チンな道は工事で封鎖、
通れるのはくねくねカーブの急坂のみ。
車を置いて歩こうにもお寺の駐車場は上に行かないとないのです。
ど田舎だったら少し失礼して路駐しちゃうけど住宅がある地域だからそうもいかず、
2番さんで早くも難所でしたわ‥( ノД`)
* 工期は各自ご確認を


仕方なく狭い坂道を車で進むのですが、
他県ナンバーのアルファードとすれ違う時はこちらも横幅ある車なのでヒャッとしたわ!
ゴラァ!狭いとこ入ってくんじゃねぇ!
ギャーギャー騒ぎながらもどーにかこーにか真福寺に到着したようです。

軽く桃源郷チックなとこでした

秩父はあちこちで十月桜が咲いてました。
神社仏閣をまわり始めるまで存在さえ知らなかった冬の桜。
寒そうで心配になってしまいますが。


ヤブツバキが満開で写真撮ろうと近づいたら耳のそばを大きくブン‥ 羽音が走った。
ク マ ン バ チ w(*゚o゚*)w


おとなしいってウワサ聞くけどハチはハチ。
逃げろ〜 三 (lll´Д`)ノ
この日は黒ずくめだったので焦ったよね。
この格好はバレたら確実に追われる‥w

全身黒!(4番さんにて)

どんくさいわたしもこーゆう時は早いよ。
初見なのに上に観音堂あるの感じてしゅしゅしゅっと走る 三 (lll´Д`)ノ


真福寺は曹洞宗の寺院で本尊は聖観音菩薩。
岩窟の観音さまに老婆が連日お参りにくるのである日気になって大棚禅師が話しかけると、
自分の嫉妬深さを改めるとともに同じく悩む人も救いたいのだと言う。
ならば新たに観音堂を建てようかと持ちかけると老婆は喜び「これは人間のものにあらず、これをもって今日の布施とす」と竹杖を残して消え去った、
という不思議な話が伝えられています。


観音さまの変身レパートリーが33通りなことに因み観音霊場は33ヶ所で構成されるわけですが、
今でこそ三十四ヶ所の秩父観音も開創当時は三十三観音でした。
32番札所法性寺が所蔵する現存最古の番付『長享2年(1488)の札所番付』に真福寺は入ってなくて、
西国+坂東+秩父で百観音にするため一ヶ寺増やそうとなった時に編入したのが真福寺です。
幕末の火災まで真福寺は本堂・観音堂・仁王門・羅漢堂などを備える大きなお寺だったので、
信徒からすると「なんでうちのお寺は入ってないの?」という声が上がってたそうなんです。
そこで真福寺を34番にしようとすると33番さんは「え、うち結願寺じゃなくなるの?」という話になる。
そんなこんなで江戸からの利便性を考慮した番付の改変が行われた結果、
延享元年(1744)の番付ではすでに2番さんで入ってる、
というお話をうかがいました。

焼失を免れた彫刻は再建時に転用された


案内が出ている通り、
こちらは無住なので光明寺で御朱印を頂戴することになります。


というわけでやって来た光明寺さん。
随分立派なお寺さんですがそれもそのはず‥。


大同2年(807)桓武平氏の始祖高望王の弟にあたる恒望王が兄の菩提を弔うために光明庵を建立。
当初は真言系だったが武蔵七党のひとつ丹党の関口丹後守が鎌倉建長寺より法性国師を迎えて光明寺となりました。


戦乱による荒廃が続いていたところ、
天正15年(1587)地元大工の次男である越生龍ヶ谷の龍穏寺15世を迎えて曹洞宗に改修して現在に至ります。
領主の交代で宗旨変えというのはよくある話ですが郷人の繋がりで再興というのが何ともあたたかい。


真福寺の御朱印です。
アートですねぇキラキラ


次のお寺さんも光明寺の末寺だったという3番札所常泉寺です。


■大棚山 真福寺(無住)
埼玉県秩父市山田3095
□向嶽山 光明寺(納経所)
埼玉県秩父市山田2191