達谷窟毘沙門堂(岩手県西磐井郡平泉町) | ハニーちゃんがゆく!

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令和2年11月1日参拝
盛岡出発前にブランチでわんこそば♡
こんなに食べなくてもよかったけどどうせなら限界に挑戦しなきゃね。
薬味がいちいち美味しくて終始飽きずに味わっていただけました (๑´ڡ`๑)
ただ、給仕のお姉さんが若くて止め際の強引なジャンジャン芸やってもらえず残念w

atそば処東家 駅前店

駅へ行ったら次のやまびこまで1時間、
平泉ゆきのバスは一日一本という絶望。。
ボーッとしてるより走ってくべー!とレンタカー借りてしまったよ。
結果的に動きやすくて正解◎でしたOK

御供所

|*・ω・) お、立て札に九曜紋。
平泉では妙見菩薩と同一視される摩多羅神が毛越寺と中尊寺にあるとかなんとかですがここでは妙見信仰や奥州千葉氏には触れず本題に戻ります。


毘沙門堂は延暦20年(801)坂上田村麻呂の創建と伝えられています。
翌延暦21年(802)奥眞上人によって開かれた達谷西光寺(天台宗)が別当を務めています。


『第50代桓武天皇から征夷大将軍に命じられた坂上田村麻呂が蝦夷を平定しました〜』の最前線となるのがこの辺りで、
悪路王・赤頭・高丸といった蝦夷の住処となっていたのが達谷窟と言われています。



田村麻呂は窟に籠る蝦夷を平定した後、
戦勝の御礼に京都清水寺を模した精舎を建立して武神の毘沙門天を祀り国鎮めの祈願所としたそうです。



これまで坂上田村麻呂創建伝承の寺社はたくさん行ったけど朝廷の敵〝蝦夷(えみし・えぞ)〟について深く考えた事なかった (๑ ' ϖ '๑)



京都清水寺にはこのような慰霊碑が建立されています。
阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)とは蝦夷の支配者なのですが、
悪路王ほかと同一視する説もあったりなかったり。
阿弖流為・母禮の碑 at 京都清水寺


では順路に従って窟へ。
延暦20年(801)の創建から度重なる火災や兵火にかかり現在の毘沙門堂は5代目になるそうです。


毘沙門堂・眞鏡山

東から上って西に下りる。
堂内にはこれでもかってほど大小さまざまな毘沙門天が並んでた。
はじめは108体の毘沙門天が安置されてたというからこれでも減ったんですね。
中央のお厨子には秘仏の吉祥天と善膩師童子が安置されていて次の御開帳は令和24年ということです!
毘沙門天・吉祥天・善膩師童子はご家族だそうで


次は北限の磨崖仏と称される岩面大佛。
なもあみだ🙏しながらもわたしの心は濁ってるので阿弥陀さんが見えません(⌇ຶД⌇ຶ)


明治29年の地震で胸から下がザーッと落ちてしまったそうで(アレお顔かな?)という感じだったのはそういう事だったのね。

岩面大佛どう?

弁天堂・蝦蟆ケ池

ここに来る直前の東600mに姫待瀧ってあって不動さんに関係する瀧だろうと思ったらやはりそうで飛び地境内だった。
お堂の腐朽が激しく寛政元年(1789)より本尊をこちらに移してるそうです。

姫待不動堂

平成8年に廃仏毀釈からの再興を果たした達谷西光寺の金堂がこちら!
毘沙門堂に覆い被さる眞鏡山に生える松から刻んだという薬師如来が本尊です。
高さがあるので建物から少し離れた方が内陣の様子を見れました。

金堂

御供所の神棚に興味ーっ!
立て掛けてあるお札は那智とかお寺ばかりでしたが御幣はどなたなのかしらと。


御朱印は三種類いただきました。
どれも美文字でさすが世界遺産のお寺!


関東住みだと坂上田村麻呂創建伝承の寺社はよく行くけどこちら程しっかり物語が組めてる縁起はあまりない(事実半分だとしても)。
清水寺に行ったばかりだった事もあり特におもしろかった。


■達谷窟毘沙門堂
岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16番地

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