あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ
小野茂樹


ふいにこの歌が脳裏をよぎるときがある、年に数回。


「あの夏」と言われたときの夏というのは
もうこれは眩しい夏である。
物理的な眩しさと精神的な眩しさの入り混じった眩しい夏。


「あの」という漠然とした言葉は何も表していないようでいて、
ものすごく「夏」のイメージを限定的に修飾している。
胸が甘酸っぱくなる夏。


「数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情」
このフレーズは、一音一音にアクセントをつけて読みたくなる。

か、ず、か、ぎ、り、な、き、そ、し、て、ま、た、た、つ、た、ひ、と、つ、の

「君」の表情がコマ送りで移り変わっていく。
あの夏の日の、いくつもの一瞬。
その一瞬のなかにあるいくつもの表情。


音(オン)のひとつひとつの変化が彼女の表情の変化とダブっていく。



数限りなく、かつたったひとつの表情、というのはどういうものか。

ここを解説するのは野暮だろう。


が、ここまで来たので読む。

おおかたは、
「あの夏の数限りないさまざまな表情が、時間を経た今はある表情に凝縮されて
ひとつのものになってゆく」
というような解釈になっている。





すっきりしすぎている。
そんなすっきりしたものじゃないだろうと憤る。


あの夏の数限りない表情は、
「かけがえの無い表情」という点で
まぎれもなくたったひとつに括られるべき表情であるけれども、


数限りない表情のひとつひとつは
「ひとコマ」の表情がたったひとつであるように
その瞬間性においてはたったひとつのものである。


「たつた一つの表情」というのは
時間の経過によって集約されたあるひとつの表情というニュアンスよりも
その瞬間瞬間に生じたひとつひとつの表情というニュアンスのほうが強いんだろうと思う。

おおかたの解釈だと、瞬間との距離が遠すぎる。
わたしの感覚ではもっともっと近視眼的に作者は瞬間を見ている。


「表情をせよ」とはつまり
その瞬間瞬間に生じたひとつひとつの表情をせよ、ということで、
不可能性に対する命令だろう。



解釈するというのは、つまり咀嚼して散文化すること。
で、散文化するにはどうしてもつじつまを意識せざるを得なくなる。


たつた一つの表情をせよ、というのは解釈し散文化する過程で
「集約されたあるひとつの表情」をせよ
という意味にどうしてもまとめられてしまう。
そうしないとつじつまが合わなくなる。


が、実際には「その瞬間瞬間に生じたひとつひとつの表情」をせよ
という不可能なことを言っている。
または、そういうニュアンスが多分に含まれている歌なんじゃないかと思う。

不可能性への命令から導かれるのは、
夏の太陽を直に見たときの
眩しいんだか暗いんだかどっちなのか分からない
眩暈のような軽い錯乱状態であって
それがこの歌の核なんであると思う。