西暦2014年段階の佐藤篤代(1)
西暦2014年12月28日:日曜日

【『A・Course・in・Miracles』領域を超えた内容】

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしたブログだ。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

徹底的に追究した結果、組織も本やあらゆる個体も個々の存在もエゴが作った欺きの手段に過ぎないので、信頼に値しないと実感に基づいた経験から、本物:佐藤篤代は自分も含めた全てが同じように『エゴが作った幻想』以上には見ない。

知覚ある世界に在るように見える全ては、エゴが作った欺きの手段でしかない。

あらゆる知覚もエゴが作った欺きの手段だ。知覚とは感覚や思考や感情だけではない。意識ある状態、何かに気づいている状態が知覚している状態だ。
その知覚全てがエゴの欺きの手段。

故に、知覚がある限り、エゴの欺きの範囲内に在るということだ。

エゴは欺けるという判断をしない限りは何も作らない。人間的では一切ない作用だからだ。

何かを知覚している状態下、エゴの欺けるという判断から作られているからだけ生じている。

ということは、知覚がある限りはエゴの欺きの範囲内にあるので、何も終わってはいないということだ。

Jesus(イエス・キリスト)を代表とするアセンディッドマスターなど、エゴが作った世界から脱出したと言われる存在(「神の教師」)達は、脱出した後に「聖霊」と1つになり『償いの計画』に参加すると【A・Course・in・Miracles】では言う。しかし、これは酷い矛盾だ。

世界の中の全て、そして知覚する範囲内は、エゴが欺けるという判断からしか作らないのだから、『償いの計画』というものは世界へ表現されない。
エゴの意図に完全に反する計画をエゴが作る筈がないからだ。
エゴは作らない。では、何が幻想の中で【A・Course・in・Miracles】を与えた"声"や、本や組織を作ったのか?それらも幻想の世界の中の表現なのだから、何かが幻想を作ったということだ。
だが、聖霊は一切幻想を作らない。

故に、『聖霊の償いの計画』には矛盾があり不可能だと判る。

同時に、結果的に知覚状態となっているアセンディッドマスターのような脱出した『神の教師』概念も不可能だ。もし完全にエゴの意図に反した計画ならば、エゴはこの幻想の型を作らない。利用価値がないからだ。

エゴは利用価値がない全てを作る筈がない。だから、『聖霊の償いの計画』も『神の教師』も作る筈がない。だが、在るというならば、エゴの欺けるという判断からしか作られない。

この点から、先にエゴの幻想から脱出した者がいて、エゴの幻想を全て終わらせる為に、知らせる為に助けるという説が不可能なのだから、この『聖霊の償いの計画』や『神の教師』概念は歪みだと判る。

だが、エゴとは正反対に働く何かがあるのは確かだ。でなければ、ずっと幸せで楽しく楽なユートピアの楽園で満足しきって何も知らずに閉じ込められたままだった筈だ。

では、その楽園がエゴが作った欺きだと気づかせる何かがあるということだ。「聖霊」として歪められた何かがある。

だから、エゴは楽園とは正反対の残酷な世界を作らざるを得なくなっていった。「もうこんな世界はいらない」と感じさせるようになるまでに、エゴが自ら作る必要はなかった筈なのだ。

楽園でぬくぬくさせとけば何も気づかず、全ての終わりなど求めなかった。
欺いて世界に閉じ込めるならば、何不自由なく楽園にいさせる。

エゴが永久の楽園で欺き通せなくなった何かがある。

そこで、本物:佐藤篤代はこれまでの経験から、エゴとは正反対に作用する【終わらせる為に作用する何か】があると考えた。これが歪められて「聖霊」概念が作られたのだろう。

西暦2014年12月28日:日曜日
佐藤篤代





西暦2014年(年号:平成26年)
午(馬)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
A Course in Miracles セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:原本自体が歪みそのものだと気づき、訳すと更に歪みがひどくなり広がっていくと気づいた為。
1回既に訳して内容を知っているので、再度敢えて訳す必要性に疑問を感じ、続行か否かは検討しやめた。
要するに、「A Course in Miraclesも他の全ての存在する(未来も含)本も同じ、真実ではあり得ない、エゴの手段であると気づく為の1手段にすぎないと気づくために、再度訳したのだ」という結論に至っている。

A Course in Miraclesの原書はこの佐藤篤代が言うことの歪みでしかないので、最初の頃だけでブログ投稿はやめた。同じ理由で日本語訳は絶対にインターネット掲載しない。意味がない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、やり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだった。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2014年3月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2014年)。
佐藤篤代
生年月日:西暦1976年1月17日
(※西暦2014年で38才)
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。



メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーション迷惑だからやめて下さい。
なされる全てが【偽者用コメント】でインチキだと判明している為です。
故に、『偽者用コミュニケーション』だと言う突っ込みしか入れません。
(西暦2014年現在)

佐藤篤代

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