西暦2014年段階の佐藤篤代(4)
西暦2014年12月28日:日曜日

【他は無い・他は幻想】とは

『他を幻想と見る』のは困難だ。普通の経験をしているだけでは、まず他は現実としか信じられない。

しかし、【A・Course・in・Miracles】の核心概念『知覚ある世界はエゴが作った幻想』だと実感するには、『他が幻想』と実感しなければならない。

【A・Course・in・Miracles】で言う『赦し』とは『幻想を幻想として見る』ことだ。『他者を赦す』とは『他者を幻想として見る』ということなのだ。

※『赦し』という言葉は【人間レベル】の大目に見るという意味に取られやすいので、本物:佐藤篤代はもう『赦し』という言葉は使ってない。そのまま『幻想を幻想として見る』と言った方がわかりやすいからな。

そして、エゴの欺きの全てを終わらせるには【A・Course・in・Miracles】では『赦し』という、『幻想を幻想として見る』ことは欠かせない。

また、『特別性を棄てる』ことは『幻想を幻想として見る』ということだ。

全てが同じ程度に『知覚ある世界はエゴが作った幻想』であり『知覚する全てはエゴが作った幻想』だと見る。
この視点で『全てが同じ』となる。
故に、特別性は完全に棄てられる。
この見方でしか、世界の中で公平な視点は得られない。

それは実践というよりも経験で得られる視点だということが、『赦し(幻想を幻想として見る)』の実践の果てに判る。

関わりの全てを『人間』として捉えているうちは、どうしても『他は現実』としかならないし、生きて生活している『一個の人間』てして考えると「生きている」と血液が循環しているイメージに囚われどうしても尊重してしまう。『エゴが作った欺きの手段』としては捉えられなくなる。要するに、尊重が生じると再利用として使えなくなるワケだ。

『全部同じエゴが作った欺きの手段』という観点に立てなければ、自分もあらゆる他者も再利用としての道具(ロボット)としては見れないのだ。

他者が人間として血が通っているイメージが実感としてあるうちは、どうあっても『他は現実』としか見れないので、『エゴが作った欺きの手段であり、自分も含めた全てが同じ』という視点で見ることは不可能だ。

しかし、他者が1階にいた筈なのに、イキナリ物理の法則を無視して2階のトイレから出てきて「瞬間移動か!」とツッコミしたくなる状況になったり、消えたとしか言いようがない状況になるのを目の当たりにし続けると、全てがインチキにしか思えなくなる。全てがエゴが作った幻想という実感のみになっていく。

ここで、他者が人間として血が通っているイメージを有する現実性を払拭するには、これまで信じていた法則などの覆しが効果的だと判る。

物理的法則の覆しだ。

他者が度々物理的法則を無視した、覆す動きをとるのを見ていくうちに、他者どころか目に見える全てが、『エゴが作った欺きの手段でしかないインチキ』だとしか思えなくなる。

この経験から、もう他者に対して血が通っているイメージを有する現実性を感じられなくなる。
『全部インチキで、全部作り物』という実感はもう覆せない。

この実感から、他者も自分も知覚する全てを、エゴの欺きの手段として全部同じに見れるようになるので、区別なく、全てを終わらせる為の再利用の為の手段、道具(ロボット)として見て、遠慮なく利用できるようになる。

エゴが作った全てが【終わらせる為に作用する何か】の再利用手段になれるとはこういうことだ。

ただ、終わらせる為のロボットとしての自覚を持った個体に必要なのは、再利用し采配するのは【終わらせる為に作用する何か】の作用であり、自分ではないと、采配される側としての自覚も持つことだ。
但し、終わらせる為の再利用の為に、エゴが作った欺きの手段全ての中で利用できそうなのは何かを考えて、利用しようとする意欲は必要だが。

ここでの『再利用』とは、【A・Course・in・Miracles】の概念の中の『聖霊』がエゴが作った幻想を再利用して、全ての幻想を終わらせる方向へ持っていくというような概念がベースとなり矛盾をそぎおとした考えだ。
『償いの計画』関連だ。
だが、本物:佐藤篤代は矛盾をそぎおとしていくなかで『聖霊』と『償いの計画』は歪みだったと断定している。

「『他者が人間として血が通っている』イメージを有する現実性」と書いて漏れると、エゴは【偽者用】取り繕いで必ずスケープゴートを用意する。
特に【人間レベル】ではそうとしか取り繕い出来ないだろう。

【偽者用】取り繕いは、よく犯罪者かその予備軍を作り出してなされる。

だから、書いておくが、「『他者が人間として血が通っている』という現実的実感を払拭する」とは、他者をいかなる方法で傷つけても何の効果もなく何の解決にもならないという実感だ。

それで、冷血漢になるわけでも残忍になるわけでもない。

血を見れば、恐くならないわけではなく、
【A・Course・in・Miracles】で言うように、『知覚はエゴが作った幻想』でありインチキなので、
エゴの目的で【偽者用】『芋づる式カバー』の為に出来事が作られ、恐怖が必要ならば、恐いと知覚される。

知覚はエゴの目的から作られたインチキだからだ。エゴの目的次第でいかようにも知覚は作られ、コントロールされるのだ。

ゆえに、この『他者が人間として血が通っているイメージを有する現実性』を払拭し、
『自他共に同じ程度にエゴが作った幻想であり欺きの手段』だという実感を得ることは、一切残忍性とは無関係な方向性だ。

「他者をあらゆる方法で傷つけることは、何の意味もない」という実感であるだけだ。

「幻想でしかない」と認識されている敵を攻撃することは全く意味がない、と判るので、誰も攻撃しようとしないという意味だ。

幻想の敵を攻撃するのは、幻想を幻想として認識出来ず、幻想が現実だと信じ込んだ者だけだ。

そして、この世界が現実だと信じる者は、この状態にあるということなのだ。

目の前に出現している幻想という問題を解決する上で必要なのは、幻想を、現実ではなく幻想だと認識し、それから消滅させるための方策を取るということだとは【A・Course・in・Miracles】にも書いてあったがな。
要するに、『この知覚ある世界はエゴが作った幻想である』とこの世界への現実性を否定し、世界が幻想だと認識し、それから消滅させるための方策を取るということなのだ。

その方策が【A・Course・in・Miracles】では『聖霊の償いの計画』だったが、これはエゴの欺きの方策だった。
エゴの欺きの方策は沢山あるというわけだ。
この知覚ある世界に留めるためにな。

これらを踏まえて、特別な関係を続けたり新たに作る行為は、他者を現実性を持たせるのは避けられないので、エゴの欺きを受け入れる意思表示だとはっきり解るだろう。

同時に、エゴが作ったこの世界で生計を立てる行為、自分や他者の為に仕事をすることが、エゴの欺きを受け入れる意思表示だ、ともはっきりと解る筈だ。

エゴの欺きの方策は巧妙だ。
だから、エゴが作ったと【A・Course・in・Miracles】でも言う知覚の完全な終わりが完全な終わりだという内容にはこれまでのところまでは矛盾がないから、知覚の完全な終わりへの方向性を本物:佐藤篤代は取っている。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

エゴの幻想を終わりにさせるとはそういうことなのだ。

西暦2014年12月28日:日曜日
佐藤篤代



この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしたブログだ。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。







西暦2014年(年号:平成26年)
午(馬)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
A Course in Miracles セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:原本自体が歪みそのものだと気づき、訳すと更に歪みがひどくなり広がっていくと気づいた為。
1回既に訳して内容を知っているので、再度敢えて訳す必要性に疑問を感じ、続行か否かは検討しやめた。
要するに、「A Course in Miraclesも他の全ての存在する(未来も含)本も同じ、真実ではあり得ない、エゴの手段であると気づく為の1手段にすぎないと気づくために、再度訳したのだ」という結論に至っている。

A Course in Miraclesの原書はこの佐藤篤代が言うことの歪みでしかないので、最初の頃だけでブログ投稿はやめた。同じ理由で日本語訳は絶対にインターネット掲載しない。意味がない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、やり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだった。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2014年3月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2014年)。
佐藤篤代
生年月日:西暦1976年1月17日
(※西暦2014年で38才)
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。



メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーション迷惑だからやめて下さい。
なされる全てが【偽者用コメント】でインチキだと判明している為です。
故に、『偽者用コミュニケーション』だと言う突っ込みしか入れません。
(西暦2014年現在)

佐藤篤代

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