西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(7)
西暦2015年1月30日:金曜日

【繰り返しのサイクルの終わり】
①弱肉強食の連鎖の世界
②必ず再発する対極の繰り返し
③光が続く限り闇も続く
④「決められた運命」の監獄
⑤輪廻による魂の監獄
⑥苦しみのサイクルの完全な終わり


【①弱肉強食の連鎖の世界】

【人間レベル】で見ると、世界は強者が作り上げる。強者で成り立つ世界だ。

西暦2015年1月23日:金曜日
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150123-OYT1T50036.html
「結婚もせんで」言葉のセクハラ、最高裁判断へ

これで裁判してたら、本物:佐藤篤代なんか何百回も訴えて裁判できるわな。というより実態は普通は弁護士自体が馬鹿にして取り合わなさそうだ。

どんなにきれいごとを言っても、実質的にこの世界は弱肉強食。弱者は強者に踏みにじられる世界だ。

世界の構造がスケープゴートのマイナス要素の押し付けで構成されているのだから当然だ。

だから、やらなくてはならないのは、その弱肉強食の連鎖からの脱出。

強者になることが解決ではない。

強者になっても、エゴあめで表面的問題の表面的解決が成功するだけとなり、逆に根本的解決に向かえなくなる。

強者は常に弱者へ転じる可能性を持ち、
弱者は常に強者へ転じる可能性を持つ。

だから、強者になることは完全な解決ではなく、いつでも真逆に転じる可能性に翻弄され続けることは避けられないのだ。

その連鎖の脱出の道への最初の扉が【A・Course・in・Miracles】。

知覚ある世界はエゴが作った幻想。
全てが同じ幻想なのだから、
敵はいないし、
味方もいない。

全てが同じエゴが作った作り物、幻想でしかないという視点でしか、世界の構造である弱肉強食の連鎖の脱出はない。


光が続く限り闇も続く二極性のこの世界で、完全解決はどちからの両極ではない。

どちらかを完全に終わらせたいならば、両極のどちらも終わらせなくてはならない。
それは、【A・Course・in・Miracles】で言うように知覚の終わりでしかなされ得ない。

世界に光が在る限り闇は終わらない。
エゴは光をより輝かせる為に、闇を濃くさせ、その為にスケープゴートを作り出す。その繰り返しは善や光の対極では終わらないのだ。



【②必ず再発する対極の繰り返し】

西暦2015年1月20日:火曜日から続いているイスラム過激派組織「イスラム国」による日本人人質事件は、1人湯川氏が殺害され、後は後藤氏の解放の為の取引となっている。取引は西暦2015年1月30日:金曜日現在、ヨルダン政府にかかっている状況だ。

西暦2015年1月28日:水曜日
http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000679/20150128-OYT1T50074.html
イスラム過激派組織「イスラム国」が27日に公開したとみられる新たな映像は、人質の後藤健二さん(47)とサジダ・リシャウィ死刑囚との交換期限を一方的に24時間と区切った。

西暦2015年1月29日:木曜日
http://www.yomiuri.co.jp/world/20150129-OYT1T50131.html?from=ytop_main1
イスラム過激派組織「イスラム国」とみられるグループが、ヨルダンで収監中のサジダ・リシャウィ死刑囚を29日の日没(日本時間29日深夜)までにトルコ国境で釈放しなければ人質を殺害するとした新たな音声メッセージを公開したことを受け、ヨルダンのモマニ情報相は同日午後(同日夜)、釈放には、ヨルダン人パイロットのムアズ・カサースベ氏(26)の生存の確証が必要だと述べた。
リシャウィ死刑囚をトルコには移送していないという。29日夕(同日深夜)、人質交換が行われないまま、新たな期限が経過した。

西暦2015年1月29日:木曜日
首相、「自衛隊の能力生かす」…在外の邦人救出
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150130-OYT1T50000.html?from=ytop_main6
安倍首相は29日の衆院予算委員会で、自衛隊による在外の邦人救出について、「領域国の受け入れ同意があれば、自衛隊の持てる能力を生かし、救出に対して対応できるようにすることは国の責任だ」と述べ、今国会に提出予定の安全保障関連法案の成立に意欲を表明した。
ただ、昨年7月の閣議決定では、邦人救出の際の自衛隊の活動範囲は「その領域において権力が維持されている範囲」と限定しているため、日本人人質事件が起きた「イスラム国」は対象外となるとみられている。
以上

この「イスラム国」による、日本人人質事件により、安倍首相は自衛隊による在外の邦人救出について、自衛隊の活動範囲を更に拡大させようとしている。

やはり、西暦2012年の自民党政権奪還の際、自衛隊の呼び方を変えて「軍隊」を強化させたいような動きが見えたり、西暦2014年に憲法解釈を変更し、集団的自衛権の限定容認を強引に閣議決定したりする動きには、自衛隊を軍隊にさせたい安倍首相の意図があるのが窺える。

【異世界レベル】の偽者用に合わせたいからだろうが、安倍首相の動きは、自衛隊を「軍隊」にさせて、日本でも戦争をやりたい動きだ。

これまでにブログで書いてきたように、日本は第二次世界大戦の責任から、憲法で戦争の永久放棄が定められ、憲法9条により軍を持つことが出来ない。

日本国憲法第9条
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC9%E6%9D%A1
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
以上

安倍首相はこの絶対不可侵をごり押しして変えようとしている。いずれ戦争を正当化しかねない。

二度と日本が戦争を起こさないように、二度と日本が戦争に参加しないように定められた日本国憲法だった。
その要が第9条だった。
日本は平和の為に武力と軍を棄てさせられ、ずっと憲法9条を保持してきたのだ。永久平和の憲法だった。

絶対不可侵の憲法9条を無視し、安倍首相は憲法解釈を変更し、集団的自衛権の限定容認を強引に閣議決定したワケだ。

一度外された絶対不可侵のボーダーラインの扉の鍵は、もう閉められず、どんどん戦争の領域へ侵入していくのは止められない。
その歯止めの為の絶対不可侵の戦争放棄だったのだ。

どんどん安倍首相は、自衛隊を軍隊へ近づけていき、終いには戦争を正当化してくるだろう。

安倍首相はこの「イスラム国」の日本人人質事件を利用し、自衛隊を軍隊へ近づける口実にしている。後藤氏と思われる最初のメッセージ「安倍首相、あなたのせいだ」というのは、やはり実態だったという可能性が強まった。

人質救出に全力を尽くしてるように見せ掛けて、安倍首相がやっていることは、「イスラム国」への挑発だ。「イスラム国」を挑発し、残虐な方向へ誘導し、その残虐な結果を大義名分とし、自衛隊を軍隊へ近づけようとしているようにしか見えない。

やはり、識者が言っていたように、日本政府は適切な対処をしていない。水面下では人質救出の対策など行っていない可能性が高い。軍隊を作る大義名分を作ろうとしているだけだ。

そのくらいに、安倍首相がやっていることは「イスラム国」への挑発だ。火に油を注いでいるようにしか見えない。
だから「イスラム国」はその意図が見え、取引をヨルダン政府へ変えてきたのではないかとすら考えられる。
日本政府の意図から日本政府では取引が有効ではないからだ。
だからこその、西暦2014年に問題となった特定秘密保護法なのではないかとすら考えられる。

このように、永久戦争・武力・軍隊放棄、永久平和を掲げてきても、絶対不可侵と言われても、それを侵そうとしてくる者が出てくるということだ。

日本は唯一の被爆国だ。
唯一、戦争で原爆を落とされ、壮絶な悲劇を目の当たりにしてきた。
だから、もう戦争には懲り懲りの筈なのだ。戦後生まれの本物:佐藤篤代が言うのだから、日本では余程戦争の悲劇は学校で教え込まれて、平和の必要性を刷り込まれて来ている。
日本では軍隊の復活などあり得ないと信じられる位に教え込まれて来た。

それを覆そうとする者が日本の政治家に現れるなど、信じられないことだ。狂気の沙汰だ。
そのように教え込まれて来た。

絶対不可侵など、この世界にはないのだ。
永久に続く何かなど、何もないのだ。

この知覚ある世界に永久な平和はない。
永久の戦争・武力・軍隊放棄はない。

必ず繰り返される。
戦争→悲劇→変革→平和→戦争→悲劇→変革→平和…
延々と続く。
それはこれまでの歴史が証明している。

全てが両極への移行の繰り返しだ。
争いは平和により完全解決できない。
必ず争いは再発する。

苦しみは癒しでは完全解決できない。
必ず苦しみは再発する。

永久に続く対極はない。

知覚が続く限り、必ず、対極の問題解決はまた真逆の対極へ移行し再発する。

延々とその繰り返しだ。

この知覚ある世界は、両極への移行の繰り返しの二極性の世界だ。

そして、知覚ある限り、二極性の領域から脱することはできない。

知覚は欺きの為にエゴが作ったからだ。
だから、エゴが作った全てに永久であるものは何もないから、知覚がある限り全てが有限なので、二極性の領域に閉じ込められているということなのだ。

エゴが作った全てが永久ではなく有限である理由は、欺きが永久ではないからだ。だから全てが有限だ。そしてだからこそ、エゴが作った知覚ある世界の全てが二極性なのだ。

エゴの欺きが永久ならば、永久に楽園だった。楽園以外のマイナス要素をエゴが欺く為に作る必要がないからだ。

【A・Course・in・Miracles】で言うように『知覚ある世界すべてはエゴが作った幻想』だ。
そして『すべての知覚はエゴが作った』。
だから、知覚ある世界の中のすべては有限であり、二極性の繰り返しの監獄なのだ。

対極へ移行する両極間の問題解決は完全ではなく、必ず再発する繰り返しの監獄だ。



【③光が続く限り闇も続く】

漫画『マギ』では、ソロモンが神の意志に代わった後、イル・イラーという神が世界に舞い降りた時、地上にいるほとんどの命から生命の源であるルフを奪い去り、地上の動植物が一斉に死に絶え、資源がなくなり、人々はその世界では生きていけなくなった。
そのアルマトランでは、イル・イラーを降臨させて世界を滅ぼそうとするためにルフを黒く染める技術により反乱を起こした組織アル・サーメンを異空間へ封印した。異空間へ封印されても、主人公アラジンの世界でもアル・サーメンは陰から世界を滅ぼそうとしていた。

アニメ『ジュエルペット』でも、負の感情の増大により、混沌の穴が世界に開いた。

このように、物語でも多く見られるパターンだが、悪・闇・マイナスの何かを封印して解決という傾向が多い。
人々の負の感情が世界に溢れるときその封印が破られ、世界が滅ぶ危機が生じ、主人公達が再び封じるか、他の方法で解決する。

これが問題の根元を解決しない表面的解決例だ。
同時に、体のいいマイナスの要素のスケープゴートへの押し付けだ。

根元を無視しているから必ず問題は再発する。

要するに、悪・闇・マイナスの何かは、封じても、どんな他の方法で解決しても、また問題が再発するということなのだ。完全に消滅させることは不可能。

悪・闇・マイナスの何か『だけ』を世界から完全に消滅させることは不可能なのだ。

悪・闇・マイナスの何か『だけ』を完全に解決することは不可能なのだ。

必ず、何らかの形で、形を変えて、悪・闇・マイナスの何かは世界に再発する。
世界から完全に消滅させることは不可能なのだ。

この世界が二極性の世界だからだ。

光だけの楽園でエゴが欺けていた時点にはもう戻らない。
エゴが作った楽園へ同じくエゴが作ったマイナスの要素が漏れた時点から、マイナスの要素は隠せない。
エゴが神聖な目的で楽園を作っていたのではない証拠であるマイナスの要素があり得るという事実は、漏れた時点で隠せない。だから楽園には戻れない。

もはや世界から闇は隠せない。

だから、エゴは光を輝かせ続ける為に、闇を作り続けなくてならない。

光が在るから闇もある。
もはや光が闇を必要としている。
光が輝き続ける為に。

故に、光が在る限り、
闇も在り続ける。

この二極性状態は延々と続く。
もはや闇がなければ光が輝き続けられないからだ。
それではエゴが欺き続けられない。

だから二極性は終わらない。

ならば、
光が在るから闇もあるのだから、
光がなければ闇もない。

完全に解決するには、光も闇もどちらも消滅させるしかないということなのだ。

世界の中の全ての目的はエゴの欺きから作られる。

ならば、完全解決の為にやらなくてはならないのは、光も闇も、エゴが欺きの目的で作ったと認識し、受け入れ、そして光と闇のどちらも終わりにさせることだろう。

エゴの全ての欺きを終わりにさせるとはそういうことだ。

問題の根元を扱い、根本的な問題を図るとは、このレベルにおける話だ。

【A・Course・in・Miracles】の核心概念『知覚ある世界はエゴが作った幻想』とは、世界の中の全て区別なく含まれるということだ。
善も悪も、光も闇も関係ない。
単に、どちらの両極も、エゴが作った幻想ということなのだ。

善や光だけが例外なのではない。



【④「決められた運命」の監獄】

西暦2015年1月16日:金曜日に買った漫画『マギ』24巻から例を挙げよう。

この概念記事により、スピリチュアルレベルの青写真位には広範囲で知らなくてはならなくなったようだ。

『マギ』24巻では、アルマトラン編で、主人公アラジン達の世界の前の世界について描かれていた。アルマトランのソロモン王達4人が次元を超えて『神』を発見し、世界の全ての魔導士が『神の計画書(アジェンダ)』を知った。全てが『神』により決められていたと知った。

アジェンダと使っている点からして、【みんなでやろうぜ系】止まりな内容だが、「決められた運命」という実態が解りやすい表現となっている。

その部分を『マギ』24巻から抜粋してみよう。

『その時、私たちは全てを理解した。
神の『計画書(アジェンダ)』と呼ばれるものの真実を。
すなわち……運命を。
それは、予知ではなかった。
世界には、ただ純然たる「流れ」が存在していた。すべては1つの結末へ向けて流れていくのだ。
偶然に見える喜び、怒り、悲しみ、生・死ーそれらは「世界」と呼ばれる何かが前へ進むための構成要素だ。
神は、この世界を何かに進めるために、たくさんの事象を起こしているのだ。
私たちが一生の中でどんなに崇高な何かを志してもー…
または罪をおかし、おかされ、もがき、苦しみ、立ち上がり、それらがすべて自分の意志のように見えてもー…
すべては神のために決まっていたこと。
私たちは神の奴隷ー…
「運命」の大きな流れから決して逃れられぬよう、定められた存在に過ぎぬということをー…
私たちは理屈ではなく体感的に知ってしまった。「神(イル・イラー)」に与えられた魔力(マゴイ)を受信する「第三の目」を通じて。すべての魔導士が真実を共有した。いや、させられた…ダビデという男が、ここでこうなるように仕向けたのだ。
どんな苦しみも…神が神殿を築くための些細な踏み台として決められていたことだというのか。
「そして俺たちはどんな風に生きようとも絶対に逃れられない。「運命」に定められた無数の悲しみ、苦しみの連鎖から…」』
『マギ』24巻から抜粋

スピリチュアルレベルの青写真はこの「決められた運命」を軽く捉えている段階のレベルだ。お遊び半分。だからまだ受け入れられる。
『マギ』の方が先に進んでいるかもしれない位に。

そして、本物:佐藤篤代の領域で日本では、西暦2015年現在ではメジャーなスピリチュアル分野の教えとなっている。西暦2006年前後に、タレントの美輪明宏やスピリチュアル教師の江原啓之がテレビに出演しまくり、スピリチュアルブームになったせいだ。
スピリチュアルレベルの青写真位は一般的に知られている。

本物:佐藤篤代の領域では、「決められた運命」などは珍しくもない教えなのだ。

スピリチュアルレベルでは「決められた運命」が「神の意志」として正当化され、神聖化されている。なだめ透かしだ。目的が神聖ならば受け入れられる。

だが、この「決められた運命」が神聖な神の目的ではなく、欺く意図のエゴの目的だったという【A・Course・in・Miracles】の領域に入るボーダーラインで、強烈な拒否反応が出る。

これまでの苦しみも、何もかも全て、運命は欺くエゴの意図から作られたという事実を知った時、まず最初に受け入れ拒否が生じる。
絶望。全てが無意味だった。努力も忍耐も闇の中の希望も苦難の中の前向きさも全て無駄だった。無駄なことを延々とさせられてきた。
しかもエゴの欺く意図から。
それを知った時、まだ世界に未練があるならば、記憶を消して、またエゴの欺きの決められた運命が続けられる。受け入れられるまで、その繰り返しだ。
受け入れざるを得ない時点が来た時、まず虚無感に支配される。
しかし、虚無感を抱えながら、この道を行くしかないと判っているから、すべき方向へ向かうためにすべきことをする。
歪みではあったが【A・Course・in・Miracles】にとりあえず最初にすべきことは書いてあるから、まずこれを道しるべにして進んでいける。
絶望の中で唯一の先を示す指針だ。
この時点が『知覚ある世界はエゴが作った幻想』の概念領域へ入るボーダーラインだ。
だから虚無感は最初の内だけで、次第に消えていく。
この現象は【A・Course・in・Miracles】にも書いてある。根元を根こそぎにするという件で、何度もブログに書いてきた。

漫画『マギ』のソロモンは理想郷を作るためにすべての種族が平等に争わず前へ進める可能性を作るために、神と1つになり、意志は上書きされて、ソロモンの意志と代わった。
だが運命は消えたわけではない。運命は神からソロモンの意志と代わっただけで、人々は運命の監獄に支配されていると知っている。
だから、受け入れられない者達はソロモンに反して「八芒星の共同体(アル・サーメン)」が反乱を起こし、世界は滅んだ。
その後、ソロモン王に託されたウーゴが異世界へ次元のトンネルを通り、そこへアルマトランの残った民を移住させて、全く新しい主人公アラジン達の世界が創られた。

漫画『マギ』のように、運命を作り出している意志を別のものと代えたり、反乱を起こしても、全く変わらない。運命は何かの手のひらの上の支配であるままだ。

そして、知らなくてはならないのは、その全ての運命を作り出しているのが、神聖な何かの意志ではなく、エゴの欺く意志からだということなのだ。

そして漫画『マギ』でも言われているように、『「運命」に定められた無数の悲しみ、苦しみの連鎖』は、運命が続く限り続くのだ。

運命が続く限り、たとえ一時的な平和や幸福が訪れても、幸不幸のサイクルは終わらない。
しかも、その意図が欺くエゴの目的だ。

その事実を知った時、向かわなければならない方向性は、運命のサイクルの終わり、全ての異世界を含めた全世界の終わりだ。

エゴの欺きから全てが作られていると知りながらまだ、世界を変えたい、存続させたいと願うヤツはいない筈だ。受け入れられないならば忘れるしかない。

事実を受け入れられた時、向かわなければならない、向かいたい方向性は、エゴの欺きの終わりだ。

エゴは全ての世界も知覚も作った。
エゴの欺きの終わりが目的になった時、故に目指すのは、完全な世界の終わりであり、知覚の終わりだ。

世界も運命も欺きから作られ、欺かれてきたのだから、それは欺かれることを望んできたからなのだ。欺かれることを望んできたのだから、この事実は受け入れ難いに決まっている。

だから、何度も何度も繰り返しこの「決められた運命」と作り手であるエゴの欺く意図の事実を突き付けられながら、受け入れられずに何度も記憶を消してきた。

だから、全体における流れの中で、いずれ受け入れざるを得ない時点を迎えた。

それで、この事実を知っている者が作られた。

そして、この事実を知る者も、エゴが作った。

エゴが欺けるという判断からしか作らない、とどんどん矛盾なく妥協なく知っていく。

エゴとは正反対に作用する、【終わらせる為に作用する何か】が作用し、エゴが終わりへ向けて作らざるを得ないように、後からエゴが作ったものを再利用して、異世界を超えて事実を漏らすからだ。

【A・Course・in・Miracles】は難解だと言われるが、何度も言うように、難解なのではなく、歪みが難解にさせている。
知らなければならない事実と真実は常に簡単な『1+1=2』レベルの論理だ。

その誰にも理解できる簡単な論理が受け入れられるか、受け入れられずに忘れることを選ぶか、なのだ。



【⑤輪廻による魂の監獄】

漫画『裏切りは僕の名前を知っている』では、よくある輪廻を扱う物語だ。
スピリチュアルでは、生まれ変わると前世の記憶が消され全て忘れて生まれてくる。
だが、この物語では、悪魔と戦う為に、意図的に戦力となる能力者の転生を術で操作し、大抵は前世の記憶を持って生まれ変わる。消し去りたい記憶は特に。いわば、捕らえられて逃げられない魂の牢獄。
その中で、悪魔と対抗するため禁忌をおかし悪魔を体内に宿し不老不死になり千年以上生き続けている天白というリーダー的な男もいる。
戦って傷つき苦しんできた過去を引きずりながらの生まれ変わりの繰り返し。そして千年以上もその全てを抱えて生きている相当な重荷。繰り返し、繰り返し、全てが終わるまで繰り返される。

この悪魔(闇)との戦いの繰り返しの終わりで待っているのは何か?
それは再発の可能性だ。
完全に終われる筈がない。

光が続く限り闇は続くのだから、形を変えてまた光と闇の戦いが再発する。1つの長い戦いが終わったように見えても、根元は何も終わっていない。闇が在る限り形は変えられて戦いが再発する。
その繰り返しなのだ。

だが、光が在る限り闇は在る。
どちらも終わらない限り何も終わらない。これが二極性の世界だ。

両極における対極の解決では、何も終われない。

ということは、戦いの根本的原因は闇にはないということになる。
この世界でも同じだ。

あらゆるマイナスの要素の根本的原因は闇や悪にあるのではない。
それを対極である光や善で解決しようとするから、完全には解決できない。
また必ず再発する。

「絆」は何の解決にもならない。
傷の舐め合い、傷の理解、相手と結び付いた理解し合う愛は何の解決にもならない。

「絆」とは、エゴが繰り返しの苦しみや悲しみ等のマイナス要素を超えられるという錯覚の魔法にかける為の甘美なアメだ。まさに特別性で魅了し世界へ縛り付ける為のエゴの最大の手段でしかない。

「絆」という甘美なアメで、苦しみや悲しみ等のマイナス要素を相殺させ、苦しみの繰り返しの監獄でも「僕にはこの人がいるから大丈夫、どんなに辛くても生きていける」と思わせる。

「絆」は完全解決の代償に、絶対に解決できない苦しみの繰り返しに耐えさせる為の甘い代用品だ。

「絆」があろうと、絶対にあらゆるマイナス要素は完全解決できない。
再発の表面的解決しか得られない。
繰り返し、繰り返し、「絆」という甘い代用品の表面的解決法が通用しなくなるまで、マイナス要素の再発と表面的解決の繰り返しがなされるだけだ。

「絆」はエゴのアメの受け入れであるだけだ。その代償は完全解決。「絆」という代用品を受け入れる限り、完全解決には近づけもしない。

完全解決への道のそらし。
あるいは足留め。
これが特別性の実態なのだ。

生まれ変わりは何の解決にもならない。
生まれ変わる際にこれまでの記憶を消して忘れて、また新たな人生をやることに何の意味があるのか?

一時的な苦しみからの脱出と憩いのための記憶の消去からの新たな生まれ変わりは、何の意味があるのか?
何の解決にもならない。

生まれ変わりにおける魂の一時の休息に何の意味と解決があるのか?
死去により魂が一時的に休息するという天国の一時的な休息と平和と憩いに何の意味と解決があるのか?

生まれ変わっても、また新たな苦しみ、悲しみ、不幸、絶望、そして対極の癒し、楽しみ、幸福、希望の両極の繰り返しであるだけだ。

この延々と続く両極間の繰り返しに何の意味があるのか?何の解決があるのか?

繰り返し、繰り返し、
苦しみ、悲しみ、不幸、絶望、
そして対極の癒し、楽しみ、幸福、希望
この両極間の繰り返しが永久に続くことに何の意味があるのか?

人間は、歴史上、この繰り返しの意味を追求してきた。

言い替えれば、エゴが作った世界の主人公(偽者)達は、エゴが作った意味を次々に追求していき、しかし矛盾した意味に限界が生じ、どんどん新たな意味を探す方向へ向かわされてきた。

しかし、この繰り返しに意味はない。
エゴが作った欺きの世界だから、この知覚ある世界に、両極が繰り返される前向きな正常で正当な理由など、あるはずがなかったのだ。

すべきことは、繰り返しのサイクルの新たな意味を追求し見出だすことではない。

取るべき唯一の完全解決の方向性は、この無駄な無意味な繰り返しのサイクルを終わらせることだけだ。


【⑥苦しみのサイクルの完全な終わり】

原因があるところでしか解決はなされない。これは【A・Course・in・Miracles】にも書かれている。

完全に解決がなされるのはその原因があるレベルにおいてだ。

根本的原因を究明し、その原因があるレベルでの解決をしなければ、完全に解決はできない。

闇や悪に原因があるのではないから、あらゆる世界のマイナスの要素は対極である光や善では完全に解決ができない。
原因が他にあるから完全に解決はできない。

闇も悪も表面的問題でしかない。
だから光や善という表面的解決では完全に解決ができない。
根本的原因は他にある。

苦しみが対極の癒しによって表面的解決されても、根本的原因は他にあるから、苦しみはまた再発する。
また癒しの表面的解決。
そして苦しみの再発。
延々とその繰り返しだ。

全ての根本的原因は世界の起源にある。だから、世界における全ての問題は起源レベルでしか完全に解決はできない。

起源レベルを扱う解決の方向性でなければ、あらゆる解決策が表面的解決しかできないのであり、必ず再発し、繰り返しの監獄に陥り、根本的解決は不可能だ。

その起源の問題と原因の説はいかようにも浅くエゴが作っている。

それらの表面的問題の原因を次々に超えて真の原因に到達することでしか、完全に解決は図れない。

まずは、真の根本的原因を見出だすしかない。だが、この根本的原因をエゴが幾重にも幾重にも、この世界全体で覆い隠している。

この世界は真実を隠す為にある。

だから何度も何度も繰り返しエゴが作った『根本的原因と解決法』を見せられる。

ゆえに、根本的原因を探し当てるのは本当に困難だ。
そして、それを困難にさせているのが「1つの自己※」の欺かれていたい願望だ。全ては「1つの自己※」の真実を受け入れたい願望にかかっている。

「1つの自己※」の願望の比重において、欺かれていたい願望よりも真実を知りたい願望が勝ればよいわけだ。
そうすれば、その比重によりどんどんエゴは欺けなくなっていく。

「繰り返しのサイクル」とは、表面的問題の解決故の再発の延々と続くサイクルのことをいつも本物:佐藤篤代は言っている。

この、決して完全に解決できない問題再発の繰り返しのサイクルを本物:佐藤篤代は終わりにしたいのだ。
だから、根本的原因へ向かい、根本的解決を図っている。

『知覚ある世界はエゴが作った幻想』でありエゴの欺きの目的から作られたと知ったならば、そのエゴの欺きの全てを終わらせることに従事する。

エゴに欺かれている対象(「1つの自己※」)があることに気付いたら、その欺かれている対象が真実を知るように自分ができることだけに従事する。

エゴとは正反対の全てを【終わらせる為に作用する何か】が作用しているのに気付いたら、その作用がより効率的に効果的に終わらせる為に作用できるよう、終わりが可能な限り早まるよう、自分ができることに尽力する。

全ての完全な終わりが知覚の終わりだから、本物:佐藤篤代はその為に尽力するだけだ。
その為だけに生き、残りの時間を尽くしている。

知覚ある世界が続く限り、苦しみは必ず再発する。対極の癒しでは完全に解決できないからだ。
だから、本物:佐藤篤代は根源へ、根本的原因へ向かわなくてはいけなかった。

この苦しみのサイクルを完全に終わらせる為に。

完全解決。完全な終わり。
その他の何もいらない。

再発するどんな表面的原因も、表面的解決も、もういらない。


西暦2015年1月30日:金曜日
佐藤篤代

西暦2015年段階の概念
(7)【繰り返しのサイクルの終わり】



西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23

(1)エゴの隠す特質
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11974654245.html
(2)エゴが隠し取り繕う過程
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11975807518.html
(3)2つの正反対の思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11976707775.html
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11978246696.html
(5)スケープゴートの世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11979880043.html
(6)原因と結果の法則
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11982652628.html


この本物:佐藤篤代のブログは
【A・Course・in・Miracles】の核心「知覚ある世界はエゴが作った幻想」を矛盾なく徹底的に追究し、
【他が幻想であり、他がない】
と証明する、
『世界の起源を扱う』、
『人間レベルではない』、
【自分発信、自分受信】
の自分が知るために自分が自分に知らせる為のブログだ。

敵はいない。
味方もいない。
全部同じだからだ。
全てが同じエゴが作った幻想でしかないからだ。

本物:佐藤篤代は『エゴが作った幻想』という見方でしか何も見ないから、敵も味方もいない。

この『全てはエゴが作った幻想』という視点でしか『全部同じ』としては見ることはできない。

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしている。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

※本物:佐藤篤代が言う「1つの自己」とは【A・Course・in・Miracles】の意味とは違う




西暦2015年(年号:平成27年)
未(ひつじ)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
【A・Course・in・Miracles】セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:【A・Course・in・Miracles】は本という型なので真実を完璧に表現できない。エゴは視界レベルで作り直せると気づいた為。
エゴはあいまいな記憶の水面下をいかようにも作り変えられる。時にはあからさまに作り変える。

同じ理由から【A・Course・in・Miracles】原書は全部はブログ掲載はしない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、後半ではやり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだと考えていた。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

西暦2013年に新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2015年1月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2015年)。
佐藤篤代は西暦2015年1月17日(土)で39才。※まだ38才
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。

メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーション迷惑だからやめて下さい。
なされる全てが【偽者用コメント】でインチキだと判明している為です。
故に、『偽者用コミュニケーション』だと言う突っ込みしか入れません。
(西暦2015年現在)

佐藤篤代

西暦2015年1月30日:金曜日
西暦2015年段階の概念(7)
【繰り返しのサイクルの終わり】

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