西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(9)
西暦2015年2月8日:日曜日

【幻想を幻想として見る『赦し』】
①『人間レベル』の許し:
非難も許しもどちらも罪の糾弾に過ぎない
②『A・Course・in・Miracles』の赦し:
幻想を幻想として見る
③真実において他者は別の他者に影響を与えられない
④人を殴った手は痛い:心理学レベルにもないこの世界い
⑤『枠の中にある全てを1つと見る』視点


【①『人間レベル』の許し:非難も許しもどちらも罪の糾弾に過ぎない】

この世界の中の教えの範囲である【人間レベル】における「許し」は、
『罪を現実と見て、
その現実である罪を大目に見る』
という内容だ。

罪を現実として定めているので、結局成すのは「お前には罪がある」という糾弾だ。

現実の罪はどこまでも消えない。いつまでも「罪人」というレッテルはつきまとう。それこそ、死去した後にも。

罪が現実ならば、誰が「許す」と言っても、裁かれて牢で罪を償っても、永久に罪はその人間につきまとう。

だから、結局【人間レベル】で「許す」ことなどは不可能だ。許されても罪は現実のままであり、永久に消えない。

そうならば、なんの為の「許し」なのか?

【人間レベル】の「許し」とは、「自分には罪はないが、お前には罪がある」と宣告する為の「許し」だ。
要するに、許す者が、自分は潔白だが外側に罪があると定める為の「自分の高い位置」を死守する為の「許し」なのだ。

【人間レベル】の「許し」は【罪の投影】の為にある。

「許す者」は誰も許したいなど考えていない。やっていることは、自分の潔白の証明だ。その為に、解りやすい者が糾弾され罪の擦り付けが外側になされているだけだ。

この人間の傾向は、エゴが作った各世界の主人公(偽者)の傾向に由来する。

全主人公(偽者)達は【終わらせる為に作用する内容】の『芋づる式漏れ』作用により矛盾が生じるので、取り繕いが欠かせない。特にマイナス要素の漏れは、自分ではなく他者のものだと擦り付けたい。
この傾向が【人間レベル】の「許し」を作り出した。

他者に擦り付けたマイナス要素は、各主人公(偽者)の「高い位置」が危うくなればなるほど、大袈裟に盛られ、悪人とさせ、「イスラム国」のように残虐な事件を起こさせる位に極悪非道の悪人を世界に作り上げる。
だからこそ【罪の投影】というのだな。

最初は各主人公(偽者)はマイナス要素を擦り付け盛った悪人を糾弾する。対象が残虐であればある程、罪を糾弾すれば、糾弾した方は自分の潔白と「高い位置」を強調しながら守れる。

だが、糾弾は原始的だとバレる時点は必ず来る。
そこで「許し」が作られた。
罪を「許す」者は気高く神聖だ。表面上そう見えてしまう。故に、自分の「高い位置」を激しく強調しながら守れる。
糾弾の方法が巧妙化したワケだ。

「許し」が成し遂げたい唯一のことは、
「お前は許しがたい罪を犯した罪人だが、私は気高く神聖なので、お前の罪を許してやろう」という『罪の糾弾』であることに変わりはない。

罪をあからさまに非難することも、
許すことも、
どちらも根底では『罪の糾弾』であり、
自分の「高い位置」を守ることが狙いなのだ。

【人間レベル】にいて、他者を現実として見て、「狂っている」というレッテルを貼る者は、心理学レベルにもいない。
そんな見方をするのは、原始的な視点であり、中世ヨーロッパ的精神分野的見方だ。

心理学レベルにいるならば、他者に対して「狂っている」という乱暴で原始的な見方は絶対にしない。心理学的にすべき見方は「傷ついている者がいる」という見方だけだ。

しかしながら、心理学レベルも結局、実際にやっていることは、他者を現実として見る限りは、例外なく、罪の投影であり、スケープゴートへのマイナス要素の押し付けと型が異なる糾弾だ。

どんな分野であろうが、他者を現実として見る【人間レベル】で行われていることは、不毛な罪の擦り付け合いだけだ。

罪の非難という型の糾弾にしろ、「許し」という型の糾弾にしろ、この知覚ある世界の中で行われていることは、不毛な罪の擦り付け合いでしかない。

【人間レベル】では必ず、罪は現実とされるので、罪は永遠に残り、消えることはない。
罪は消化も救済もされずに永久に残されながら永遠に新な罪が作られていく。
世界は罪の新たな蓄積により罪の歴史を積み重ねていく。
それは罪が現実とされたからであり、罪が現実ならばそれは避けられない結果だ。

罪が現実ならば、罪は赦されず(消せず)、永遠に残る。

この知覚ある世界の構成員として生きる選択をしている者は全て、社会的義務系統、結婚系統他新たな特別な関係を築く者は、他者を現実としてしか見れないので、罪の投影が行われ、あらゆる方法で罪を現実にさせる。
だからどんなに「許し」や愛を語っても、実質的にやっていることは、罪の糾弾でしかない。

知覚ある世界の構成員として生きる選択をしている全ての者は、世界を現実としてしか見ることができないからだ。

この「非難」と「許し」という【人間レベル】での『罪の糾弾』が限界に陥る時、【A・Course・in・Miracles】の「赦し」へ移行する。ただ、この移行ポイントまでは、激しく長いルートで【人間レベル】の『罪の投影と糾弾』が繰り返される。



【②『A・Course・in・Miracles』の赦し:幻想を幻想として見る】

【A・Course・in・Miracles】レベルの「赦し」は、『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という大前提の受け入れがまずクリアできなければ行えない。

故に、【A・Course・in・Miracles】に【人間レベル】の『罪の投影と糾弾』を持ち出して歪めきっている偽者の領域は圧倒的多数だろう。
結婚したり新しい特別な関係を疎くも作ってしまった教師達が教えるのが、この【人間レベル】だ。
ジェラルド・ジャンポルスキーや大内博やマリアンウィリアムソンは確実にこの【人間レベル】だ。読んだから確実。
加藤三代子や香咲弥須子もAmazon情報からだけ見ても本の中身を見なくてもどうみても【人間レベル】だ。
Kenneth Wapnickも加藤三代子と同レベルの【人間レベル】としか言いようがないだろう。読みたかったから原文の本を買おうとしたのに入手も出来なかったが、あんな日本語本を出させてたら言い逃れできない。当時絶句させられたし。

まず、【A・Course・in・Miracles】レベルの「赦し」では、『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という核心のボーダーラインを超えなくてはならない。
超えてからも多々歪められてるし、誤魔化しが酷いから、余程の決意がなければ誤魔化しに引っ掛かり続ける。

それだけ、世界はスケープゴートへの罪(マイナス要素)の糾弾で構成されている。初期はあからさまに非難として糾弾し、後に作られた程、「許し」、「助け」、「救い」、「癒し」等の巧妙な糾弾方法になっていく。

一見素晴らしく見える巧妙な糾弾方法はいくらでもあり、
『知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想』と見て、「罪もエゴが作った幻想(インチキ・でっち上げ)」だという視点を獲得しない限りは、
世界の中の【人間レベル】の「許し」に留まり、あらゆる糾弾の中にいる。

故に、『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という核心のボーダーラインも相当の決断的受け入れ状態がなければ超えられないのだ。
だから、甘く緩く楽に生きてる奴に【A・Course・in・Miracles】の核心ができる筈がない。

甘く緩く楽に生きてるのほほん状態で、一体世界の何が棄てられるんだ?棄てる意欲も、棄てる決意もできないし、棄てる必要もなかろうが。

ギリギリのところまで追い詰められないと世界の全ては棄てられない。棄てられなければ、知覚ある世界の全てをエゴが作った幻想とは実質的には見れない。

そのくらいにエゴは欺くし、世界への激しい誘因は楽には絶ちきれない。
世界へ留めるために幾重にも甘い罠が仕掛けられてるに決まっているだろうよ。

だから、まずは『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という核心のボーダーラインが【A・Course・in・Miracles】レベルの「赦し」には欠かせない。
大体、「赦し」という言葉自体がエゴ罠だからな。

そして、
【A・Course・in・Miracles】の「赦し」とは、
「知覚ある世界の全てを幻想として見る」ことだ。

何故「赦し」という言葉を使って解りづらくさせているのかとツッコミしたいだろう?
それは【A・Course・in・Miracles】を与えた声の主がJesus(イエス・キリスト)であり、キリスト教の【人間レベル】の「赦し」として歪められたからだと言い訳がなされている。
これがエゴが『1+1=2』位に簡単な論理の核心を解りづらくさせる策略だ。

「赦し」などという解りづらい言葉など使わずに、そのまま「知覚ある世界の全てを幻想として見る」、「幻想を幻想として見る」と表現すればいいだけなのだ。

「赦し」という言葉を使うから、神聖な方向へ偏らせられる罠にかかる。
「赦し」という言葉自体が、傲慢だ。
自分よりも低い者がいて、「自分はお前よりも高い位置にいる」と宣言する言葉でしかない。
エゴが作った全てが同じという対等な立ち位置を自分だけが逃れて一段高い位置に登ろうとする言葉だ。
だから「赦し」などという言葉は棄ててしまえばいい。
判りやすく「知覚ある世界の全てを幻想として見る」と言えばいいだけだ。

エゴが作った全て、自分も含めて全てが作り物のインチキであり、幻想でしかない。
この見方を少しでも神聖にさせたいエゴが「赦し」という言葉を使わせる。

だが、エゴが作った全て、自分も含めて全ては所詮、インチキでしかない。
この「全てが同じ」だという動かせない事実に、エゴは何とかして例外と特別性を挟み込みたくて仕方がないのだ。

だからエゴは「神の教師」という概念を作らなくてはならなかった。何とか「全てが同じエゴが作ったインチキ」ではなく「だが超えた者は神聖」だと例外と特別性を挟み込んだのだ。

特別性の誘引は、それほどまでに強固であり、強烈なのだ。例外矛盾概念「神の教師」に飛び付いて特別性を貪りたい者は沢山いる。

「全てが同じ幻想」という見方はこれ程までに歪められやすいと知らなくてはならない。

だから、相当な警戒と疑いを持って進んでいかなければならない。

全ては『知覚ある世界の全てをエゴが作った幻想』と、一切の例外なく見ることができるか、だ。
他者を生きた一人の人間として見ている限りは、この一切例外のない視点は得られない。

イスラム過激派組織「イスラム国」の残酷な事件を見て、事件を現実としている者は、犯人を責めるか、【人間レベル】の許しで同情するか、被害者に同情するか何らかの感情移入をする。事件そのものを現実として捉えているからだ。

だが、【A・Course・in・Miracles】レベルにいたら、少なくとも、「事件は現実ではない。エゴが作った幻想に過ぎない」と見て、それを見せられた理由、エゴの目的を見出だす方向へ向かうだけだ。現実と捉えて感情移入はしない。

逆に言えば、目の前にやってくる全てを幻想として見れていない限り、同情など、現実と捉えた反応が生じるということだ。

『知覚ある世界の全てはエゴが作ったインチキであり幻想』。一切の例外なく。

要は、この徹底を基盤に、妥協せず、一切の例外をなくしていく方向へ向かわなくてはならないだけだ。

その先で【A・Course・in・Miracles】の中の矛盾に気付く時点がやってくる。

【A・Course・in・Miracles】も例外ではないという事実が判明すれば、そこからは【A・Course・in・Miracles】であろうが何だろうが関係なく全てを『エゴが作った幻想』という大前提の下、全てを見ることがやっとできるようになっていく。

そこで、『知る手段』の偏りも終わり、全てに例外をなくし、妥協せずに矛盾なく『知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想』として見る方向へ向かえる。

【A・Course・in・Miracles】に関係なく目の前にやってくる全てから全体を見て、『パズル的知り方』に自ずとなっていくのはこの【A・Course・in・Miracles】にも歪みがあると判った時点からだ。
エゴが作った幻想なのだから全てを信頼できる筈がないと思い知るのもこの時点だ。

全てがエゴが作った幻想なのだから、全てにおいて、信頼したり確信したりできる筈がない。

だから、目の前にやってくる全ての中に必ず含まれたエゴの目的を見出だそうとする方向へ向かう。
もはや知覚ある世界の何も信じない。
インチキとしか見ない。
経験もどんどん世界がインチキ臭くて仕方がないとしか思えないものになっていく。
他者も自分も全て、エゴが作りコントロールするロボット的な存在でしかないと経験から解っていく。

『全てが同じ』としてどんどん見られるようになっていく。
これが【A・Course・in・Miracles】の言葉で言えば「赦し」であり、幻想を幻想として見る視点だ。
この視点の中にどんどん例外をなくしていく過程で、【A・Course・in・Miracles】は超えられなくてはならないだけだ。

やっていることは徹底的な首尾一貫。
【A・Course・in・Miracles】の中にいてはこの首尾一貫ができない。

【A・Course・in・Miracles】もエゴが作った幻想だからだ。
一切の例外はない。

偏りや例外が生じている限り、エゴが作った幻想の全ては現実なのだ。



【③真実において他者は別の他者に影響を与えられない】

This course is a beginning, not an end.
Your Friend(※) goes with you.
You are not alone.
No one who calls on Him(※) can call in vain.
Whatever troubles you, be certain that He has the answer, and will gladly give it to you, if you simply turn to Him and ask it of Him.
He will not withhold all answers that you need for anything that seems to trouble you.
He knows the way to solve all problems, and resolve all doubts.
His certainty is yours.
You need but ask it of Him, and it will be given you.

(※)Your Friend=the Holy Spirit=Him(He・His)

【A・Course・in・Miracles】
WORKBOOK FOR STUDENTS:P487
EPILOGUE

脳に欠陥がある場合じゃなければ英語を読める者なら誰にでも判る。
この【A・Course・in・Miracles】はいずれ超えられなくてはならないと。
「このコースは終わりではない。始まりだ」と書いてあるのにいつまでも【A・Course・in・Miracles】に留まるのはエゴの足留めに引っ掛かっているからだ。

答えを求めるべきは他者ではない、神の教師でもない。聖霊だ。
【A・Course・in・Miracles】レベルでも、答えを求めるべきはあらゆる個々の存在ではないと言っているのだ。

同行するのは人でも他の存在でもない、聖霊(the Holy Spirit)だと【A・Course・in・Miracles】には書いてある。
本物:佐藤篤代は聖霊が歪みだと気付き、聖霊として歪められた元を【終わらせる為に作用する何か】と呼んでいるが。

みんなでワイワイ学習するのは【人間レベル】でしない。
【A・Course・in・Miracles】の「赦し」レベルにもいない者が、他者を現実としてしか見れないから、「みんなでやろうぜ」になる。

また、【A・Course・in・Miracles】レベルでは、名前、自分のアイデンティティーの全てを棄てなくてはならない。要するに、無意味にさせなくてはならない。自分のアイデンティティーを強調することは、自分を、自他共に現実とさせることだからだ。

だから【A・Course・in・Miracles】second edition前文には以下のように書かれている。

The names of the collaborators in the recording of the Course do not appear on the cover because the Course can and should stand on its own.

それは、【A・Course・in・Miracles】レベルでは自分自身を幻想として見なくてはならないから、自分を棄てなくてはならないからだ。そして、更に大きな理由は、個体への特別性を誘引させるからだ。
「神の教師」概念故に「他者が別の他者に真実において影響を与えられる」とさせるレベルにしかない【A・Course・in・Miracles】レベルではこの点において既に矛盾だ。

故に、【A・Course・in・Miracles】レベルにいれば、きちんと本道を追求していれば、自分の名前やアイデンティティーを広告のように大々的にアピールするなどあり得ない。大体、公で教師として名前やアイデンティティーを出すなどあり得なさすぎる。
それは自分を「赦せてない(幻想を幻想として見れてない)」ことになるからだ。

【A・Course・in・Miracles】レベルにいたら、公で教師として教えることが無意味であり、あり得ないことはすぐに判る。

自分を含めた全てをエゴが作った幻想として見なければならない課題の下、何故自分の名前やアイデンティティーをアピールして自他共に現実とさせるのか?
何故そこに矛盾を見出ださないのか?

【A・Course・in・Miracles】レベルにいれば、自分の名前やアイデンティティーの全ても棄てることは必須項目であり、特別性を自他共に誘引させないようにする為、自分の名前やアイデンティティーを前面に出してインターネットを含めた公で何かの活動をすることはあり得ない。公で教えるなどあり得ない。

この点において判るように、Jesus(イエス・キリスト)がやったことは、他者を長い歴史の流れにおいて、特別性で呪縛しただけだ。
【A・Course・in・Miracles】が歪みであり矛盾だらけだと、ここからもよく判る。

自分の名前やアイデンティティーを棄てた者が再利用できるのは、【A・Course・in・Miracles】レベルを超え、【異世界レベル】の【偽者概念】に気づき始めた後だ。

西暦2014年段階の佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/18717650/23
(1)『A・Course・in・Miracles』領域を超えた内容
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970066806.html
(4)他は無い・他は幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970071517.html
(6)偽者概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970074185.html

【他は無い・他は幻想】という見方が経験から徹底的になっていくと、真実を扱う上で、他者(あらゆる他の存在)には一切影響を与えることが出来ないと解ってくる。
これで同時に【A・Course・in・Miracles】の「夢の主人公」概念が歪みだと判明する。

他者もあらゆる他の存在もエゴが作った幻想、作り物に過ぎない。欺かれる対象ではないのだ。
それはエゴに作られた自分も例外ではない。自分も他者もあらゆる他の存在もエゴに欺かれる対象ではなく、逆に欺き手だ。
エゴの作り物なのだから当たり前だったのだ。
知覚ある世界の全てが同様だ。

欺かれる対象は、知覚ある世界の全てを見せられている何らかの1つだ。それを本物:佐藤篤代は「1つの自己※」としている。

故に、真実を知らなくてはならない唯一の対象は「1つの自己※」だけだ。

エゴの作り物が真実を知らなくてはならないのではない。エゴの作り物は「1つの自己※」が真実を知るための再利用手段にしかならない。
それ以上でもそれ以外でもない。
そして、エゴの作り物を再利用するのは聖霊として歪められた【終わらせる為に作用する何か】だ。

自分も他者もあらゆる他の存在も、知覚ある世界の他の全てと同じように、エゴの作り物であると同時に、【終わらせる為に作用する何か】が「1つの自己※」へ真実を知らせて全てを終わらせる為の再利用手段でしかないのだ。

真実を知らなくてはならない唯一の対象は「1つの自己※」だけなのだ。

故に、世界の主人公としてエゴに作られた個体である自分が、他者に真実を知らせなければならないとさせたいのはエゴだけだ。

「世界の主人公が他者に真実を知らせて真実を分かち合うという出来事」を作ることが出来るのはエゴだけだと知らなくてはならない。
そして、エゴだけが真実を分かち合う出来事を作りたい。何故なら、分かち合いで特別性を温存出来るので真実を覆い隠し続けられるからだ。

そこで、他者やあらゆる他の存在に真実を知らせることは無意味だと判る。

では、【終わらせる為に作用する何か】が真実を知らせる為にエゴに作らせるよう作用するのは、「1つの自己※」が真実を知らなくてはならないからだということだ。

「1つの自己※」が真実を知るように、【終わらせる為に作用する何か】はエゴの作り物を再利用して、エゴに作らせていく。

要するに、根本的に真実を知らせる作業をする段階の、【終わらせる為に作用する何か】に再利用される主人公は、それよりも前にエゴが作った【異世界レベル】の全主人公の領域に影響を与えるような知らせ方をさせられるわけだ。

真実において、知らせる作業をして影響を与えるべきは、【異世界レベル】の全主人公の領域というワケだ。その各主人公を本物:佐藤篤代の領域では【偽者】と呼んでいる。

この段階になると、真実において同じ領域には影響を与えられないと主人公(偽者)自体が知っている。故に特別性の誘引はなされず、万が一なされた場合は【終わらせる為に作用する何か】の作用により失墜させられる。

主人公(偽者)自体がこれらについて知っているということは、見せられている「1つの自己※」の受け入れが済んでいる段階の内容ということだ。
だからエゴは世界に表現しなくてはならなくなり作らざるを得ない。
無論隠せない内容は採り入れながら、別の切り口から欺くために。

その一切特別性が誘引されない段階において、主人公(偽者)の名前やアイデンティティーは一番完全に棄てられた後に再利用可能になる。

【終わらせる為に作用する何か】はエゴが作った作り物を再利用し、別の領域の主人公(偽者)の要素をまた別の主人公(偽者)の領域へ『芋づる式漏れ』にさせる。

西暦2014年段階の佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/18717650/23
(8)芋づる式漏れ・芋づる式カバー
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970850551.html

この『芋づる式漏れ』作用により【終わらせる為に作用する何か】は、エゴが作った全主人公(偽者)の型を限界へ持っていく。
この点において、最後の主人公(偽者)型が限定されなければ、際限なくエゴは偽者型を作れてしまう。
それ故に、最後の主人公(偽者)は自分の名前やアイデンティティーや出来事を完全に棄てた後でさらけ出す。

主人公(偽者)型に限界を敷く為の、自分の名前やアイデンティティー等の提示は、【終わらせる為に作用する何か】の再利用として利用できるワケだ。
全てはどちらの何の目的で行うかだ。

その上、全主人公(偽者)の型は何らかの魅力で必ず魅了するので、最後の主人公(偽者)は全主人公(偽者)型を崩す為に、どんどん型崩しさせてきて最終的にエゴが作らなくてはならなくなった最終形態と言える。

最後の主人公(偽者)は『偽者崩し』の為に言動するようにエゴは【終わらせる為に作用する何か】に作らされる。

再利用の概念記事のところで、またこの名前やアイデンティティーの再利用法については書くので、ここまでにしておく。

とにかく、全てが徹底的にエゴが作った幻想だとして見られていない状態下で言動される全ては、世界の全てを現実とさせるだけだということだ。

完全に幻想を幻想として見られている状態下では、自他共に特別性が誘引される事態には一切ならないのだ。

何故なら、真実を知らなくてはならない唯一の対象は「1つの自己※」だけだからだ。

そして、本物:佐藤篤代は【A・Course・in・Miracles】を超えた領域にいて、自ら再利用手段として尽くしているからこそ、影響してくる【異世界レベル】の主人公(偽者)の領域を崩す為にツッコミをする。
だが、本物:佐藤篤代とは同じようにできない各主人公(偽者)の領域が取り繕いの為にこのツッコミを真似すると単なる【人間レベル】の非難と化す。
これも『崩す』為の嵌め込みの地雷なのだが、同じ領域に対して影響が与えられるとして、他者にツッコミをすることは、単なる非難でしかない。
これを行っている主人公(偽者)の領域では他者は現実でしかないから非難なのだ。

例えば、他者に影響を与えられると考え、同じ領域にいると信じる他者の間違いを指摘することは非難でしかない。
悪態も同様だ。
この視点において、他者も間違いも全ても現実としか見れていない。
それは【A・Course・in・Miracles】レベルにおいて、明らかに赦せていない(幻想を幻想として見れていない)となるワケだ。

ツッコミが有効性を生じさせるのは、自分も含めた全部がエゴが作ったインチキだと捉える視点においてだけだ。
この場合、影響を与えるのは同じ領域ではなく【異世界レベル】の各主人公(偽者)の領域だという認識が大前提だ。
本物:佐藤篤代でも、この認識が得られる前までは【A・Course・in・Miracles】レベルにいたから、ツッコミなどはあり得なかった。

常に問うべきは、「何の目的か?」だ。
エゴはいかようにも言い訳の目的を作り出すが、「何のために目的を追及するのか」を忘れなければ、いずれ気づく。
それは非難の為ではない。

非難の為に「何の目的か?」と目的を追及させられないように気をつけるべきだ。特に、スケープゴートを糾弾させる為のエゴ罠に陥らないようにな。

スケープゴートへの非難、糾弾はエゴの足留めであり、時間の無駄でしかないと気づけ。



【④人を殴った手は痛い:心理学レベルにもないこの世界】

西暦2015年2月4日:水曜日
http://www.yomiuri.co.jp/world/20150204-OYT1T50002.html
イスラム過激派組織「イスラム国」とみられるグループは3日夕(日本時間4日未明)、拘束していたヨルダン軍パイロットのムアズ・カサースベ氏(26)を殺害したとする映像をインターネット上に公開した。

「人の死に痛みも感じない」とヨルダン兵士が殺害されたニュースで「イスラム国」を一方的に非難するキャスター。

だがそれは、キャスターも世界も一面的にしか物事を見ることができない証拠でしかない。

人を殴った手は痛い。
時に殴った方の手の方が痛いのだ。
そして、殴った方の心とて痛くない筈がないのだ。痛くない者はいない。痛すぎて痛すぎて麻痺してしまった者ならいる。

「人の死に痛みも感じない」と「イスラム国」を一方的に非難する者こそが、人の痛みに鈍感なのだ。無知なのだ。
一面的にしか物事を見れない。だから殴った方の気持ちを考えられない。

それは、非難が目的だからだ。
目に見えて判りやすいスケープゴートを作りだし、非難の矛先を向けられれば楽だからだ。

被害者の痛みについて言うのは容易い。
目に見えて判りやすいからだ。
しかし、加害者の攻撃する方の痛みは無視されやすい。
見えにくいからだ。
そして、表面ばかり見ている世界の傾向故に、より見えにくく、見る意思もないから、余計に見えない。
だから世界は盲目なのだ。

判りやすいものに走る。

「人の死に痛みを感じない」と非難する者は、殴った手が痛いなどと考えもつかない。攻撃した者を非難しやすいから、非難したいから、理解しようともしない。殴った方の手の方が一層痛いなど考えもしない。

まさに獲物を求めるかの如く、非難できる判りやすい対象が登場すると、世界中で非難の嵐が巻き起こる。

非難が目的だから実際は何が原因か何が起きているのか見ようともせず、理解しようともしない。

世界が求めているのは、まさに判りやすい非難の対象:スケープゴートだ。

そして、この一連の事件から断言できるのは、『世界が心理学レベルにもない』という事実だ。

傷つけようとする者はもっと痛みを抱え、傷ついているとすら解らない。
心の仕組みも解らない、解ろうと努力もしない。心理学レベルにもいない。

それで『許し』、『赦し』とか掲げている世界には失笑してしまう。
茶番劇にしか見えない。

【A・Course・in・Miracles】レベルにいて、「イスラム国」を一方的に非難している者がいたら、それこそどうかしている。

敵味方とかとやかく言ってるなら、確実に世界にハマり込んでるとしか言いようがない。

【A・Course・in・Miracles】レベルにいる段階ならば、心理学は熟知し、心の仕組みに精通している筈だからだ。
『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という核心概念を扱うのに、心理学レベルの心の仕組みも解らないのでは、世界を幻想として見れる筈がない。

『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という核心概念は、あらゆる問題の原因を追究した末に見いだし、受け入れられる概念だ。あらゆる教えの段階を経るのは当然だろう。
方法という方法を探し求め、模索し尽くした先に【A・Course・in・Miracles】を見出だすことができるのだ。
何の段階も経ずに見出だすなら、それはインチキでしかない。そんなんで【A・Course・in・Miracles】からは何の核心も得られない。

心理学レベルで心の仕組みも熟知し尽くして、この一連の「イスラム国」の事件で何が表面的原因かを幾多の段階的に熟知している上で、【A・Course・in・Miracles】レベルがやるべき唯一のことは「この事件はエゴが作った幻想」として見ることだけだ。
それが【A・Course・in・Miracles】レベルの『赦し』だ。

【A・Course・in・Miracles】レベルでは、「世界の中における原因と結果が結局エゴが作った幻想でしかない」と知っている段階だ。だから、段階的に世界の中の心理学レベルもその他のあらゆる原因と結果レベルについては熟知されているレベルにある。

【A・Course・in・Miracles】レベルでは「幻想を幻想としか見ない」ので、世の中に起きる全ての出来事に感情移入しない。だから何も感じない。
単に冷静に「この出来事はエゴが作った幻想でしかない」と見るだけだ。
現実ではないインチキだと熟知しているから、出来事を現実として捉えていないから、一切心は動かされない。

現実として捉えていない限りは、目の前の出来事に感情移入しない。嘘だと解っている仕掛けに驚かないのと一緒だ。

【A・Course・in・Miracles】レベルを超え段階では、この事件を何故エゴが作ったのかの目的を探し出し、そのエゴの目的を潰す。【異世界レベル】の働きかけの為に、そのエゴの【異世界レベル】の目的を潰す為にツッコミをする。
このレベルでは、別の原因レベルにおける捉え方で感情を発することはある。ただ、目の前の出来事を現実と捉えて感情移入することは更に一切なくなる。

「『1+1』は『10』でも『11』でも『田』でもない。
『1+1=2』じゃないんですか?」
とツッコミをすることにより、エゴの【異世界レベル】の目的を潰す。

初期に作られた【異世界レベル】の主人公(偽者)の領域であればある程、より思考パターンが原始的だ。
単純というべきか。

判りやすい非難の対象をそのまま非難したい傾向は、原始的な、単純な思考パターン例だ。

初期の偽者の領域はこちらとしては驚く程に原始的な思考パターンだ。言われれば誰でも解るような考えが考えられない。これを【エゴの思考システム】と言う。

あまりに動物的な単純思考パターンなので、西暦2015年で40~50代位の偽者を【ゴリラレベル】、60代以上を【猿レベル】と言わざるを得ない位に原始的だ。その原始的さに最近本当に驚かされている。とても【人間レベル】にいるとは言えない【動物レベル】の思考パターン。

全偽者は【異世界レベル】だ。
だからこそ、猿にでも判る位に 「『1+1』は『10』でも『11』でも『田』でもない。
『1+1=2』じゃないんですか?」
というツッコミをしなければ、全偽者の領域の原始的で動物的な単純思考システムを限界へ持っていけないのだと最近よく解った。

この【異世界レベル】の全エゴの思考システムの崩壊の為のツッコミ提示が【A・Course・in・Miracles】レベルを超えた段階のすべきことだ。
崩壊させる為に作用するのが【終わらせる為に作用する何か】だ。



【⑤『枠の中にある全てを1つと見る』視点】

イスラム過激派組織「イスラム国」にしろ、憎悪と罪の連鎖は、この世界レベルでは終わらない。

正義のための戦争は、憎しみしか生まない。争いにより傷つけられた者は憎しみを膨れ上がらせて復讐する。大切な人を争いによって傷つけられた者は、その傷つけた対象を憎み、復讐する。
「イスラム国」も同じなのだ。

この罪と憎悪の連鎖は、歴史的に繰り返される。この世界がある限り永久に続く。

両極の対極である光は闇を完全には解決できないのだ。

漫画「裏切りは僕の名前を知っている」では繰り返しの輪廻の監獄の中における悪魔との戦いだ。

その輪廻の監獄の中で、黒刀(クロト)は相方を悪魔に殺害された憎悪を元に復讐の為に戦い続けていた。新たな相方、千紫郎も祖父をその悪魔に殺害された憎しみから戦う決意をした。

繰り返しの輪廻の中、憎しみの為の復讐にがんじがらめになりながら戦い続けるなど、なんと不毛なことか。憎悪と復讐の為の戦いを自らやめない限り永久に続くのだ。うんざりする程の繰り返し。
まさに監獄だ。

復讐の対象である悪魔にも特別な者がいたら、その特別な者が憎しみに駆り立てられて復讐するだろう。悪魔だとか人間だとか関係ない。

これを人間で当てはめれば更に判るように、憎悪から復讐の為に戦い、それで対象が死去したとしても、その対象の関係者が憎しみに囚われ、復讐の為に戦おうとする。憎しみは憎しみしか生じさせない。
その繰り返しに終わりはない。
一時的に、対極の愛や癒しや光で救われたように見えてもまた再発する。
新たな憎しみの連鎖は世界に必ず再発する。

この知覚ある世界の中で、この憎しみの連鎖は終わらない。

憎悪と罪の連鎖は必ず再発し完全には終わらない。

世界にハマり込んだ状態では、憎悪も罪も全てが現実であり、完全な連鎖の終わりも救いもない。

この知覚ある世界の内側で解決しようとするあらゆる方法は必ず再発する。
だから完全な解決はない。

神聖さを強調し、光や善に偏っていれば、聞こえはいいしカッコいいだろう。両極の内プラスの方は世界へ惹き付ける為にあるのだからな。

だが、光や善だろうが対極に偏っていれば単に世界へのハマりなのだ。

闇や悪に偏るならば、スケープゴートだ。光や善にやっつけられる為の引き立て役だからだ。

光か闇、どちらかの対極に偏っていれる者にはこの【繰り返しのサイクルの終わり】は言えない。

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23
(7)繰り返しのサイクルの終わり
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11983485361.html

それでも、【繰り返しのサイクルの終わり】は【A・Course・in・Miracles】レベルだ。
本物:佐藤篤代が持つのと同じ【A・Course・in・Miracles】の内容をやれる者になら書ける。
【A・Course・in・Miracles】レベルにいたら、漫画やアニメは利用しにくいがな。【A・Course・in・Miracles】レベルにいたら、恐らく棄てるべき対象としてしか見れないだろう。
このように再利用できるなんて想像できないだろう。

問題は、世界へのハマりだ。
世界を現実にさせる姿勢と視点が問題なのだ。
世界を現実にさせず、世界へハマらずに、全てを同じように見れば、何でも再利用できるのだ。

【A・Course・in・Miracles】教師や学習者は、『神の教師』概念により、よい人格を現実にさせるために目指してしまう。だから、全てを同じようには見れない。だから、何でも再利用できるとは見れない。

幻想を幻想として世界の全てを見る際に必要なのは、プラス要素に偏りマイナス要素を拒否することではない。
だが、【A・Course・in・Miracles】レベルにいると、知らず知らずプラス要素に偏るように仕向けられてしまう。

だから、傍観者的立ち位置は実質的には取れない。

それは中庸で在るということでもない。
両極の中間にいることは、対極にあるのとなんら変わりはない。

世界にハマり込まず、世界から一歩引いている状態ー世界の構成員としてハマり込んで生きることを拒否する状態が、取るべき傍観者的立ち位置だ。

枠の中に入らず、枠の外側から全てを見る。
枠の中にいると気付けないし、見ることができない視点が
『枠の中にある全てを1つと見る』視点。
枠の中にある全ては、同じ『枠の中にあるもの』。ひとまとまりに、枠の中にいたら見れないのだ。

この視点が、幻想を幻想として世界の全てを見る視点。
【A・Course・in・Miracles】の『赦し』の視点であり、本物:佐藤篤代の現段階の見方と一致している点だ。

恐らく、まだ【A・Course・in・Miracles】の神概念の包括的な神の愛概念で、『知覚の終わり』を誤魔化してくる勢いは終わっていない。
今後は、きちんとその歪みについても言及し、これまでに気づいている歪み全てを通用させなくさせる。


佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(9)
【幻想を幻想として見る『赦し』】
西暦2015年2月8日:日曜日

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23

(1)エゴの隠す特質
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11974654245.html
(2)エゴが隠し取り繕う過程
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11975807518.html
(3)2つの正反対の思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11976707775.html
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11978246696.html
(5)スケープゴートの世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11979880043.html
(6)原因と結果の法則
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11982652628.html
(7)繰り返しのサイクルの終わり
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11983485361.html
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11986007920.html


この本物:佐藤篤代のブログは
【A・Course・in・Miracles】の核心「知覚ある世界はエゴが作った幻想」を矛盾なく徹底的に追究し、
【他が幻想であり、他がない】
と証明する、
『世界の起源を扱う』、
『人間レベルではない』、
【自分発信、自分受信】
の自分が知るために自分が自分に知らせる為のブログだ。

敵はいない。
味方もいない。
全部同じだからだ。
全てが同じエゴが作った幻想でしかないからだ。

本物:佐藤篤代は『エゴが作った幻想』という見方でしか何も見ないから、敵も味方もいない。

この『全てはエゴが作った幻想』という視点でしか『全部同じ』としては見ることはできない。

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしている。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

※本物:佐藤篤代が言う「1つの自己」とは【A・Course・in・Miracles】の意味とは違う


西暦2015年(年号:平成27年)
未(ひつじ)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
【A・Course・in・Miracles】セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:【A・Course・in・Miracles】は本という型なので真実を完璧に表現できない。エゴは視界レベルで作り直せると気づいた為。
エゴはあいまいな記憶の水面下をいかようにも作り変えられる。時にはあからさまに作り変える。

同じ理由から【A・Course・in・Miracles】原書は全部はブログ掲載はしない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、後半ではやり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだと考えていた。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

西暦2013年に新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2015年1月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2015年)。
佐藤篤代は西暦2015年1月17日(土)で39才。
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。

メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーション迷惑だからやめて下さい。
なされる全てが【偽者用コメント】でインチキだと判明している為です。
故に、『偽者用コミュニケーション』だと言う突っ込みしか入れません。
(西暦2015年現在)

佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(9)
【幻想を幻想として見る『赦し』】
西暦2015年2月8日:日曜日

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