西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(11)
西暦2015年2月17日:火曜日

【『全ての幻想を同じ』と見る視点】
①インチキなんかもういらない
②「知覚ある世界の全てを棄てる」とは、必ずしも物理的に、物質的に棄てるという意味ではない
③エゴが作った全てに対する無意味さと不毛さの実感
④他の全てと同じように自分をもエゴが作った「作り物のインチキ」と見る視点


【①インチキなんかもういらない】

西暦2015年2月5日:木曜日に『Amebaなう』の1日分の自動掲載が投稿されなかった妨害について書いた。これは時々やられるから書いているのだが、どうやらインチキがバレたらしくなんと、その日の夕方に自動掲載されていた。

恐らく、西暦2015年2月5日:木曜日に投稿した
「西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
がエゴにとっていずれかの【異世界レベル】の偽者の領域で問題になり、エゴレベルにおける妨害や改竄を、【人間レベル】の間違いや何らかの理由として取り繕いせざるを得なくなったのだろう。

妨害は『Amebaなう』ばかりではない。
局所的インターネット接続妨害やAmebaアプリ妨害はどう説明すんだ?
スマートフォンのGoogle地図ナビを使ったことがないのに、何故、誰かが、しかも異世界の誰かが勝手に使っているとしか言いようがなく「自宅から◯分」とか「仕事場まで◯分」とか表示されるんだ?
【人間レベル】のハッカーではないのは確実だ。どっかのクソ主婦が利用してるようにしか見えなかった。

改竄することにより、間違いとさせて、作家目指してた頃のエピソードを否定させたいんだろう。
だが、編集者に「是非とも後世に残したい名作」と言われた出版社に絵本を応募したら「(キャラクターが)かわいい」としか言われなかった。馬鹿でも判るわ、「かわいいだけじゃだめだ」と言われてると。
しかも、名作と言われた方の審査委員長の大作家は、ほぼ名指しでケンカ売るようなあからさまコメントを公募広告欄で公でしたと言っているのに。ほぼ名指しで公で否定されたんだよ。逆に余程印象的でなければそんなことされねーよ。普通、全然ダメなら無視されるに決まってるだろーが。
これも何回もブログに書いた。

別に本物:佐藤篤代に作家として才能があるとかないとかどーでもいいし、現在、西暦2015年ですべきことは文の内容が解りゃいいだけなんだが、【異世界レベル】の偽者の領域で、取り繕いされている理由は見過ごせないから書いといた。

【異世界レベル】の偽者の領域では、「世界は真実を隠すためにある」というのが不味いのだ。
「エゴが作った世界なのだから、エゴが奨励する内容が広く出回るのは当たり前だ」とバレるのが不味い。
だから、「公的に出回っている内容は浅く、薄っぺらい原始的な内容であり、エゴが奨励する内容だけだ」という、この世界の事実がエゴには不味い。

だから、本物:佐藤篤代の書くものを妨害したり、あらゆる方法で改竄したりして、信憑性をなくさせようとする箇所がある。だが、いつまで通用するかな。

真実が漏れて、「1つの自己※」が真実を受け入れるのに、別に本物:佐藤篤代の人間性や才能や能力自体なんか一切関係ないと解らなくてはならないだけなんだからな。

本物:佐藤篤代は他の全てと同じように、エゴが作った、エゴがコントロールする作り物のロボット的存在に過ぎない。

エゴが作ったロボットを【終わらせる為に作用する何か】が再利用するだけだ。他の全てと同じように。

大体、『偽者崩し』にならなかったら作家エピソードなんか書かねーよ。

しかも、読めば判る。改竄とか関係ない。中身は構成的に書かされているとしか言いようがない構成だ。
見えれば、読めば判る。

型じゃない、中身だと逆によく判るわな。
改竄されたことで余計に。

というように、作家も天職に関しても、本物:佐藤篤代は一切の未練がない。

世界の全てがエゴが作った幻想でありインチキでしかないと知っているからだ。インチキの作り物になど一切未練は残らない。

インチキなんかもういらない。
当たり前だろう?

世界の全てがエゴが作ったインチキならその全てをいらないと思う。
未練の欠片もない。
世界に対して幻滅しかない。

それともインチキを必要と言いたいのか?

こんなにインチキ臭い妨害にあったり、周囲が物理的法則、確率の法則、世界の法則を無視して問答無用にやり尽くすのを目の当たりにしてみ?

インチキ過ぎて世界全てに幻滅し尽くすって。

もういらないんだよ。
どうあっても未練の欠片も残らない。

「知覚ある世界の全てを棄てる」とは世界の全てに対して一切未練が残らないということだ。



【②「知覚ある世界の全てを棄てる」とは、必ずしも物理的に、物質的に棄てるという意味ではない】

西暦2015年2月8日:日曜日の「花燃ゆ」6話"女囚の秘密"を見て、インチキじみた棄て方が偽者の領域で横行し過ぎている事実が垣間見えた。

「花燃ゆ」の女囚、高須久子は大切なものを身を切る思いで棄てていた。
それは「棄てる」ということではなく、ただ単に「欲しくて仕方ないが諦める」行為だ。
単に欲の塊、痩せ我慢にしかなってない。

それは【人間レベル】の『棄てる』だ。

【A・Course・in・Miracles】で『知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想』だと知ったら、世界の全てを棄てなければならない。

だが、ここで必要な棄て方は、未練が一切残らない棄て方だけだ。

身を切る思いで棄てる棄て方では、余程執着が残るからだ。
それは「棄てることが出来ない段階にいる」ことを意味している。

「大切な何かを棄てる」という言葉自体が、矛盾している。
「大切な何か」とは「価値として棄てられない何か」という意味だからだ。

棄てられない何かは価値として棄てられない。拒否をして痩せ我慢ができるだけだ。

その「大切な何か」という価値が自分の中に占める時点で、棄てられる段階にいないことを意味する。

「知覚ある世界の全てを棄てる」とは、必ずしも物理的に、物質的に棄てるという意味ではない。
それが【仙人レベル】がやってしまった取り返しがつかない取り繕いようのない過ちだ。

【A・Course・in・Miracles】にも書いてあるから読めば一目瞭然だが、
「知覚ある世界の全てを棄てる」とは、『価値として棄てる』という意味だ。

要するに、『知覚ある世界の全てを無意味にさせる』という意味だ。
この言葉は【A・Course・in・Miracles】にも書かれている位だ。

『全ての価値を棄て、全てを無意味にさせる』という意味だ。

故に、棄てる時には身を切る思いは一切なく、苦しみもなく、棄てた後には未練も一切残らない。

『大切な何か』という価値は、この知覚ある世界の全てから一切なくなる。

『大切な何か』という言葉自体が無意味でインチキ臭い対象にしか思えなくなる位に大切な何かなどは、この知覚ある世界からなくなる。
そして、知覚ある世界の全てが無意味となる。

もし、「大切な何か」が心の中に残るとしたら、『全てを終わらせることだけ』となる。

「大切なもの=棄てる」
という方程式は成り立たない。

「不必要なもの=棄てる」
という方程式こそが成り立つ。

棄てられる前に、全ては価値として不必要にさせなくてはならない。

だから、実際に棄てる時には、その対象を大切に感じる感情がなくなっているということだ。

本物:佐藤篤代の作家になる願望が突如消えたのもこの為だ。
いらないから、願望が消える。
恐らく、既に別のルートで価値としては棄てられていたから突如消えたのだろう。
本物:佐藤篤代で願望が突如消えたのは、思考、感情、願望、知覚全てがエゴが作った「作り物」でインチキだと実感する為だ。

そして、棄てることができるのは対象に幻滅させられるからだ。
知覚ある世界の全てがエゴが作った幻想でありインチキだと本当に熟知したら、全てに幻滅する。
この幻滅感が全てを棄てさせる。

エゴとは正反対の作用【終わらせる為に作用する何か】が、各世界の主人公(偽者)も含めた、エゴが作った全てを幻滅させるように作用するのは、全てを棄てさせる為だ。

棄てる為にはまず対象に幻滅しなくてはならないのだ。

幻滅させることにより、全てを不必要にさせる。
エゴが作った全てを大切とは思わなくさせるのだ。

大切とは執着だからだ。

大切という感情がある限り、対象に執着しているということなので、大切である限りは物理的に棄てても、絶対に価値として棄てられないのだ。

ひと欠片の執着がある限り、エゴの欺きは成立する。
ひと欠片の執着がある限り、エゴが作った知覚ある世界を終わらせたくはない。
だから、ひと欠片の執着が知覚ある世界の中にある限り、全てが終わらない。

大切である限り、対象は自分にとっての現実であり真実だ。
とてもインチキだとは思えない。
インチキだと信じたくないからだ。

ここに受け入れ拒否が生じている。
知覚ある世界の何かが大切である限り、『知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想でありインチキ』という事実は受け入れ拒否される。
認めたくないからだ。
受け入れ認められ始めるまで、記憶は消され、受け入れ拒否状態が続き、"大切な"インチキの夢の中に浸りたいから、目を塞ぎ耳を塞いで閉じこもる。

「偽りの甘い大切ごっこ」を死守して世界に閉じこもり続けるか、インチキだと受け入れて全てを棄てて終わらせる為に進むかだ。

棄てる時に身を切るようなのは、対象を大切だと思い続けており、対象を現実としてしか見れていないからだ。
だから、棄てた後も現実だ。
それは「棄てた」とは一切言えない「棄てごっこ」に過ぎない。

真に棄てた時には一切未練は残らない。
価値として不必要だから棄てたからだ。
インチキに幻滅して棄てたからだ。
だから執着は一切残らない。

その先に、『大切な何か』を探し求めることは一切ない。

『大切な何か』はエゴの足留め手段であるだけだという認識下、もう新たな『大切な何か』を探し求めようとはしない。

こう書いても、エゴは新たな「棄てごっこ」を作り出すだろうが、
『インチキは要らないから棄てる』心には一切未練が残らず、その後新たな『大切な何か』を探すことはもう一切ないのだと知ろう。

この執着と未練が一切残らない棄て方ではないと、『エゴが作った幻想の全てを同じと見る視点』は得られない。



【③エゴが作った全てに対する無意味さと不毛さの実感】

これまで書いてきたように、過激派組織「イスラム国」の問題による日本人人質殺害事件問題において、殺害シーンを見せなくても「イスラム国」の残虐性は一目瞭然だ。ニュースの見出しを一目、見聞きしただけでも、バカにでも判るのだ。

しかし、小中学校の教師は人質殺害シーンを無修正画像で授業で生徒に見せて、「イスラム国」の残虐性と命の大切さを教えたことにより問題となった。

小中学校教師が教えるべきは、「イスラム国」の残虐性ではない。残虐性などニュースを1つでも見聞きすれば判る。ニュースタイトルを聞いただけでも判る。小中学校教師レベルで教えるべきは「何故、戦争が起こるのか」、「何故、世界に戦争が終わらないのか」くらいだろう。悪者の残虐性についてではなく戦争を無くし平和な世界にする為にどうすればよいのか、だ。

では何故、小中学校教師たちは、バカでも判る「イスラム国」の残虐性を強調し、殺害シーンをわざわざ見せたのか?
―その残虐性を見せつけることにより憎しみと非難を煽り、「イスラム国」を一方的に敵と認識させる為だ。
非難、糾弾をしたいから強調する。

小中学校教師達は「敵」を作り出したのだ。愛と理解を教えるべき教師は、実質的に愛と理解など教えていない。
偏った一面的な見方しかできない者ばかりが教師になったからだ。
だから「敵がいる」と教えているのだ。

残虐性を強調することは、物事の表面的な面だけしか見えないよう仕向けることだ。一面的な見方をする方向へ持っていくことがなされるだけだ。
これは思想のコントロールに繋がる。
これでは現代西暦年2015でも北朝鮮、韓国、中国に顕著に見られる偏った思想教育だ。戦時中の日本と何が変わりあるだろうか?

残虐性を強調しても、何の問題解決にも向かえない。

ニュース見出しを見聞きすればバカでも判る残虐性を執拗に強調するのには、必ず理由がある。
スケープゴートへの糾弾だ。

これは問題を本質的に解決したくない者の顕著な傾向だ。逆に、本質的問題解決から目を背けさせ、判りやすい非難対象を糾弾することだけに向かわせる。

だから目に見えて判りやすい非難対象を執拗に糾弾し、残虐性を強調する。

問題の本質から目を背けさせる為の、大義名分を掲げた意味の無い、何の問題解決にもならない非難ばかりが行われている。これがこの世界の実態だ。

だから、義務教育の教師は、「イスラム国」を一方的に敵と認識させ、「敵が残虐行為を行っただけだ」と決めつける教え方をする。

世界のトップ、大統領、首相クラスも非難しかしていないだろう。

それは、一目で悪者と判りやすい対象を非難することで、本質的問題解決から目を背けさせる為だ。その為のスケープゴートだ。

このように、一番原始的な世界では、一番判りやすい表面的カテゴリーにはめ込んでスケープゴートを糾弾する。

「テロを起こす者は悪者」、「人を殺害する者は悪者」―そのレッテルが一番判りやすい。だから一番原始的で表面的なカテゴリーなのだ。

目に見えてはっきりと誰にでも判ることが、一番原始的で表面的なカテゴリーだということだ。
この視点では、水面下などはどうでもよく、表層のみ、目に見えてはっきりしている要素だけを採用し、深く掘り下げて考えようともしない。
要するに、物質(物理)主義的物事の見方だ。

そして、本物:佐藤篤代の世界の領域の一番表層が、この一番原始的で表面的な領域の世界の表れだ。

「悪者は悪者」―悪者は悪者だから悪い。悪者はどこまでいっても悪者。更正の余地もないワケだ。悪者の立ち位置などどうでもよく、悪者には理由を与えず、理由を見ようともせず、理解しようともしない。そこに理解は一切ない。
この「悪者は悪者」という一面的な一方的な視点からだけ見る為だけに、この物質主義的見方の者達は理由と原因を非難を込めた種類だけ作り上げ採用する。
そして、この視点が一番原始的で表面的な物事の見方だ。

この物質主義的見方の段階は、スケープゴートに全ての責任と原因と罪とマイナスの要素を押し付ける。その為の物事の見方だ。

それが通用しなくなると、「悪者は更正できる」とし、次々に「悪者が悪者となった理由」を作り出す。この段階に入り、同情的な見方へどんどん移行する。

人間の心理を理解しようとする段階に入るので、精神主義的物事の見方となる。

より人の心理を理解しようとする傾向へ移行すると、心理学レベルに入る。この段階からより表層からは見えにくい水面下を探り、心理的原因を模索する方向へ向かう。
このレベルの中でもより浅い物事の見方と、より深い物事の見方があるが、ここでは長くなるので割愛する。

スピリチュアルレベルでは、運命や霊的な因果関係に原因を見出だそうとする傾向もある。これも同じ精神主義的見方に入る。

これらの物質主義的見方にしろ、精神主義的見方にしろ、「悪者が罪を犯した」としてその犯罪を現実として捉える見方の範囲が全て【人間レベル】だ。

「犯罪者がいる」と見て犯罪者を自分にとっての現実とさせ、「罪を犯した者」というカテゴリーにはめ込む全てが【人間レベル】だ。

一方、心理学やスピリチュアル等の精神主義的物事の見方の範囲の人間が、その罪を犯した者の心の(そうは言っても表面的な)原因を取り除く手伝いをするなどして心を救ったとしよう。
その助けた、救った者を「助け主」、「癒し手」、「救い主」等というカテゴリーにはめ込む全ても、同様に【人間レベル】だ。

言い換えれば、【人間レベル】とは、この世界の全ての教えレベルだ。

【A・Course・in・Miracles】における物事の見方は、この「罪を犯した者」も「救い主・癒し手」も『全てエゴが作った幻想』という1つの見方だけだ。
この1つの見方に例外を一切なくしていく。

だが、【A・Course・in・Miracles】レベルでは例外が生じてしまう。「神の教師」概念がどうしても例外を作り出し、現実的カテゴリーを設けてしまうので、結果全てが現実となってしまう。

ひと欠片でも例外があれば、全ては現実となるからだ。
―「神の教師」概念は、この事実を巧妙に隠しながら例外を作り、結果全てを現実にさせているが気づかないようにさせるためのエゴの手段だ。

しかし「神の教師」概念は足留めに過ぎず、徹底的な例外なき矛盾をなき追究により、いずれは限界となる。

【A・Course・in・Miracles】の『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という核心概念を矛盾なく例外なく徹底追究すると、「神の教師」概念は歪みでしかなく、例外を作り出して、エゴが作ったインチキの作り物を特別に神聖にさせる物事の見方になっていると気づく。

「罪を犯した者」も「救い主・癒し手」も【A・Course・in・Miracles】学習者も教師も、それを超えた者も、脱出したという者も、自分もあらゆる他者も他の存在も、全て、エゴが作った『作り物のインチキ』でしかない。
その視点において、一切「程度」も「違い」もない。

【A・Course・in・Miracles】は神聖ではない。聖霊はエゴが作った世界の中へ【A・Course・in・Miracles】を挿入できないし、与えられない。
エゴが作った世界の中へ挿入するということは幻想を作るということになるからだ。
だが、聖霊は幻想を一切作らない。

同時に、【A・Course・in・Miracles】を与えたという「声の主」も、著者も、創設者も、管理者も、組織全て、聖霊は作っていない。
エゴが作った世界の中にあるように見えるのだから、それら全てが幻想だ。
だが、聖霊は幻想を一切作らない。
聖霊概念では、それら全てが不可能であり、成り立つ筈がない。
エゴが作った世界の中へ、それら全てを聖霊にはもたらすことは出来ないのだ。
聖霊は一切幻想を作らないならだ。

【A・Course・in・Miracles】を与えたという「声の主」も、著者も、創設者も、管理者も、組織全て、エゴが作った世界の中にあるように見えるという時点で、それら全ても同様にエゴが作った幻想だということだ。ならば、エゴが作った欺きの目的が必ず含まれる。
エゴが作った世界の中にある時点で、全て同じだということだ。

しかも、エゴは世界の主人公の視界レベル、知覚レベルで世界を作るのだから当然、例外なく全てはエゴが作った。

知覚するならば、その知覚された全てが、エゴが作った幻想ということだ。

故に、聖霊概念は矛盾であり、不可能な概念なのだ。

聖霊概念は例外を作り出しす為に、エゴが歪めた概念だ。

だから【A・Course・in・Miracles】レベルを超えなくてはならない。このレベルに留まる限り、例外をなくせない。

【A・Course・in・Miracles】を超えて取るべき視点は、神の教師も【A・Course・in・Miracles】も含めた全てが、エゴが作った「作り物」であり、インチキだという視点だ。
その視点に一切の例外はない。

これが『全てを同じ幻想と見る視点』だ。

この視点で、知覚する全ての対象が無意味となり、結果不必要となる。

「こんな、エゴが作ったインチキなんて意味がない」となる。
インチキでうまくいっても意味がない。
インチキで幸せになったり、癒されても意味がない。
だから「こんな、エゴが作った『作り物』なんて全部いらない」となる。

エゴが作った全てに対する無意味さと不毛さの実感だ。

それで、知覚する全てが無意味になり、「いらない」となる。

だから、この『全てを同じ幻想と見る視点』を得る為には、世界の全ての価値を棄てていかなければならない。
棄てて、この『全てが同じ1つ(エゴのインチキ)』という視点を得なければ、エゴが作った幻想の全てを再利用することは出来ない。

エゴが作った全て、知覚する全てに対して、何の特別な感情も生じず、「無意味で不必要」という実感がなければ、対象を尊重してしまう。
対象を尊重すれば、そこに現実的捉え方が必ず生じる。
対象は自分にとっての現実となる。
それで全てが現実となる。
自分にとって現実となった対象は、決して再利用としては使えない。


エゴが作った幻想の中に違いや程度を見たりしてレッテルを貼っているうちは、全てを同じとしては見れない。
『知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想』という核心概念を説明する場合に、本物:佐藤篤代はこの世界の内側の概念をこのように持ち出す。
それが再利用だ。
結果、『知覚ある世界の全てはエゴが作った』、『例外なく全てがエゴが作ったインチキ』という結論へ持っていく全てが再利用と言える。

この世界の内側では、必ず程度と違いがある。だから、再利用としての『世界の全てがエゴが作ったインチキ』という説明の際に、例として程度と違いを持ち出す。

再利用の際に本物:佐藤篤代がやっていることは、
「『1+1=2』であり、
『1+1=10』は全然違うし、
『1+1=11』はマジックだし、
『1+1=田』はトリックだろ!?」
とツッコミをして世界がインチキである証拠を突きつけているだけの話だ。

欺かれている対象は「1つの自己※」であり、各世界の主人公達は全て、エゴの欺きの手段であり、欺き手だ。

違いと程度がある世界故に、各世界の各主人公(偽者)により、特別性の誘引の種類も、種類による強度も異なる。偽者によって特別性を誘引する要素の強度が違うのだ。
その特別性の誘引を弱めさせ、最終的に断ち切る為に、特定の特別性の誘引要素を崩すよう否定し、長々と矛盾提示により扱い叩かなければならない場合がある。
それを『芋づる式漏れ』で漏れた故の取り繕いとして歪めた【異世界レベル】の偽者では、レッテルを貼り、カテゴリーにはめ込み、対象を現実として扱うことで、程度と違いを現実とさせ、差別と非難としかならない言動をとってしまう。
そうした偽者達は自らが型にハマり込み、がんじがらめになり、いずれ崩壊の原因となる。



【④他の全てと同じように自分をもエゴが作った「作り物のインチキ」と見る視点】

西暦2015年2月16日:月曜日はよくあるタイミング頻度が確率の法則を超えすぎる現象が多々見られたので、例として列挙しておこう。これはほんの一部だ。

西暦2015年2月16日:月曜日は生まれてこのかた39年間一緒に住んでいる【祖母】の送迎の日だった。
このような外出日は、周囲の物理的法則異常が高まる。

西暦2015年2月16日:月曜日
・北隣【近藤】(公務員40代位)はサボり
・南近所【本津】50代位女
送帰時→同時に帰宅し玄関入り
直後洗濯物込み家事手伝い時→外にいて黒車で外出
・東向かい【寺内】
帰りの迎行時→30才位男同時玄関出シルバー車外出
・帰宅時→60代位男白ワゴン車で同時帰宅
以上がしょっちゅうやられるタイミング狙いだ。それぞれに頻度が高すぎる一例。

北隣【近藤】は普通ならば【解雇】レベルのサボりっぷり。動きはストーカー的だ。超常現象レベル。

南近所の【本津】、東向かい【寺内】は必ずという位のタイミング狙いだ。「今日も狙われるか?」と警戒しながら狙われないと「あー今日は狙われなかったー」とホッとする位だ。

東向かい【寺内】は誰かしかタイミングを必ず狙ってくる。どこかで必ず狙いほぼ100%に近い。同時玄関出入りを毎回のようにやられてみ?うんざりの極みだ。

だから頻度の確率の法則なんてインチキだと判る。

そして、最近西暦2015年2月は、高級車出没頻度が高すぎる。
行く先々高級車ばかりだ。庶民が行く先に何故高級車状態だ。
栃木県宇都宮市にこれほど高級車が出没したら、栃木県は金持ちだらけになってしまうが、実質、栃木県に金持ちはそんなに多くない。

東京などの都会に高級車が多発するならわかるが。

それを理由づけるかのように、西暦2015年2月16日:月曜日は東武百貨店尽くしの1日だった。
【実母】が葬式の引出物に東武百貨店の菓子を貰ってきた。
【祖母】が外出先で東武百貨店の紙袋入り包み紙を貰ってきた。中身はブランドっぽい趣味悪いコテコテのバッグだった。金持ちが持ってそうな。
因みに【実母】はその前の週の西暦2015年2月10日:火曜日に東武百貨店(栃木県宇都宮市)に行っていた。

これは完全に東武百貨店、要するに金持ちをやりたい偽者用の影響だ。どうにかして本物:佐藤篤代に関連づけようとする。

だから、【金持ち系偽者用】が関連づけてくるような、そういう周辺では、香水のような臭さが辺りに漂う異常現象が発生する。
臭い元がないのに臭う時も多々ある。
洗濯物には気をつけているのに、洗濯物込み家事手伝い時、臭いを確認しても、後で着る時に突如香水のような臭さで汚染されることもある。
洗濯物込み家事手伝い時に、臭いが香水的になってたら洗い直しだ。
そのくらいに問答無用にやられる。

それは、現象がインチキだからだ。
知覚がインチキだからだ。

金持ちは西暦2015年段階になると仕事をやめる理由として株などの収入で巨万の富を稼ぐから仕事をする必要がないというのをやっているらしい。

しかし、世界を作ったのはエゴだ。エゴが全てをコントロールしている。株価の動きも無論エゴの意通りだ。
そんなことも解らない【A・Course・in・Miracles】関係者はいたとしたら、確実にインチキだがな。
【A・Course・in・Miracles】レベルでは株、宝くじ、貯金などの理由は通用しない。

要するに、確率の法則、運の法則、株などの流動する手段での富の取得は、確実にエゴの意図がなければそうはならないので、エゴのアメでしかない。欺く意図がなければエゴは作らない。

【A・Course・in・Miracles】関係者で株の成功などをやって仕事をしない理由に使っていたとしたら、『知覚ある世界の全てはエゴが作った』という意味をどれほど誤魔化されているかが判る。

因みに、株などガッチリやっていたら、株式市場の値動きから目を離せないから仕事しなくてもあまり時間はないだろうがな。しかも迂闊に株をやると数分で億単位の利益が生じる代わりに数分で億単位の損失が生じる。それを回避しながら利益だけを得ているとなると天才だ。そうなるともはや【エゴの寵児】でしかない。天才的な代理人に任せるとしても【エゴの寵児】でしかない。

ハイリターンだが、かなりのハイリスクであることには変わりはないのだから、そのハイリスクを回避できるということは、【エゴの寵児】でしかない。

エゴが作った知覚ある世界の全てを棄て、完全な終わりへ向かわせる為に、世界を楽しみ謳歌する必要がないのは正常な思考ならば判るだろうに。慰安は必要ない。終わらせる為に再利用できる必要以上の富が得られると何故考えるのか意味が判らないな。

再利用する時点では、その個体レベルの再利用が機能する時点では、終わらせる為に再利用できるものしか手には入らない。
それは当たり前だろう?

【A・Course・in・Miracles】レベルならば、世界の全てを価値として棄てなくてはならないのが判る。だから、株などやってるヤツは明らかな履き違えだ。終わりの時点で金持ちはあり得ないとも判る。
判らないのは内容が違う【A・Course・in・Miracles】だからだ。

【社会的義務系偽者】が仕事をせず働かないのは、単なる『エゴの楽園』か『逃げ』だ。

社会的義務を果たす選択をするとは、仕事をし、生計を立て、納税し、結婚をし、子育てをするという選択だ。だから、それらを1つでもしないということは単なる怠惰である選択だ。
全部を棄てるか、全部をやるかのどちらかの選択だ。

だが、仕事は楽ではない。結婚も子育ても楽ではない。苦労の方が多く、とても両立などできない。実態はな。実態ではとても楽に生きてなどいけない。
だから全てが限界へ向かっていく。

エゴが作った世界なのだから、エゴは都合により楽園にも地獄にも作るからだ。

そのエゴの作った地獄ではとても世界で生きてなどいけない。

知覚ある世界は甘くない。
甘いフリはする。
その甘さがエゴの欺きからだからだ。

その事実を知れと言っている。
偽りの甘さの楽園を享受するのか?

株などで仕事をせず甘い人生を送っている【社会的義務系偽者】はエゴが作った偽りの甘さの楽園を生きる選択をしているだけだ。

仕事は甘くない。
暇な時間など許されない。暇になる時間は訪れなくはないが、「仕事(やるべきこと)は探せばいくらでもある」とボーっとしている時間はなかった。
逆に何もしていないと注意された位だ。
どの職場でも、いつも何かしらやるべきことをやっていた。

ゆるい仕事をまだ取り繕いたい偽者用があるようだが、その『ゆるさ』がエゴの偽りの甘さの楽園だと言っている。

葬式などで仕事を休めるのは身内だけだ。
伯母の通夜の日もギリギリまで仕事をやって仕事帰りに通夜に行った。バイトでもそうそう休めないんだよ。

葬式なんかで仕事を休む口実を作りたい偽者用があるようだが、どうしても行くべき葬式でも、休むなどあり得ない。ほんの一時間位なんだから、仕事途中で抜け出し、終わってから仕事に戻るのが普通。

甘い仕事ごり押ししようとしてんじゃねーぞ、【社会的義務系偽者】。
そういう甘さが通用しないように提示していく。
こちらは最終ルートだからだ。

知らせるべき、知るべき対象は「1つの自己※」のみ。
「1つの自己※」が偽者の領域の甘い誘引にがんじがらめにされている状態へ、実態を突きつけて、その全ての誘引を絶ち切らせる。
それが再利用だ。

だから、再利用する為には、他の全てと同じように自分をもエゴが作った「作り物のインチキ」と見る視点がなくてはならない。

「エゴに作られコントロールされ、それを【終わらせる為に作用する何か】に再利用されるロボット」くらいに、自他とも知覚する全てを見なければ、個体レベルでは再利用としては機能しない。

自分をも再利用手段としてみれなくてはならない。

でなければ、全てを同じとして再利用はできない。

全ては同じエゴが作った幻想。
全てが同じくらいに無意味。
全てを同じくらいに無価値として見る。
この意味において全てが同等だという見方ができない限りは、エゴが作った全てを個体レベルでは再利用できない。

この見方以外では、個体レベルとしては再利用として機能しておらず、エゴの目的に支配された再利用となる。

特別性が欠片でも、一部分にでもあれば、必ず対象に囚われる。
文字通り対象に捕まる。

対象はエゴの目的を果たしながら世界の誘引となり、触手のように無意識に世界へ絡め捕る。そして知らず知らず世界へハマり込まされている。


佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(11)
【『全ての幻想を同じ』と見る視点】
西暦2015年2月17日:火曜日





西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23

(1)エゴの隠す特質
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11974654245.html
(2)エゴが隠し取り繕う過程
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11975807518.html
(3)2つの正反対の思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11976707775.html
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11978246696.html
(5)スケープゴートの世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11979880043.html
(6)原因と結果の法則
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11982652628.html
(7)繰り返しのサイクルの終わり
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11983485361.html
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11986007920.html
(9)幻想を幻想として見る『赦し』
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11987258358.html
(10)やり直しのスパイラル
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11989740061.html

西暦2015年1月
http://simplog.jp/comment/19628362/23
西暦2015年2月
http://simplog.jp/comment/19628500/23


この本物:佐藤篤代のブログは
【A・Course・in・Miracles】の核心「知覚ある世界はエゴが作った幻想」を矛盾なく徹底的に追究し、
【他が幻想であり、他がない】
と証明する、
『世界の起源を扱う』、
『人間レベルではない』、
【自分発信、自分受信】
の自分が知るために自分が自分に知らせる為のブログだ。

敵はいない。
味方もいない。
全部同じだからだ。
全てが同じエゴが作った幻想でしかないからだ。

本物:佐藤篤代は『エゴが作った幻想』という見方でしか何も見ないから、敵も味方もいない。

この『全てはエゴが作った幻想』という視点でしか『全部同じ』としては見ることはできない。

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしている。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

※本物:佐藤篤代が言う「1つの自己」とは【A・Course・in・Miracles】の意味とは違う


西暦2015年(年号:平成27年)
未(ひつじ)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
【A・Course・in・Miracles】セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:【A・Course・in・Miracles】は本という型なので真実を完璧に表現できない。エゴは視界レベルで作り直せると気づいた為。
エゴはあいまいな記憶の水面下をいかようにも作り変えられる。時にはあからさまに作り変える。

同じ理由から【A・Course・in・Miracles】原書は全部はブログ掲載はしない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、後半ではやり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだと考えていた。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

西暦2013年に新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2015年1月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2015年)。
佐藤篤代は西暦2015年1月17日(土)で39才。
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。


メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーション迷惑だからやめて下さい。
なされる全てが【偽者用コメント】でインチキだと判明している為です。
故に、『偽者用コミュニケーション』だと言う突っ込みしか入れません。
(西暦2015年現在)

佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(11)
【『全ての幻想を同じ』と見る視点】
西暦2015年2月17日:火曜日

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