西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(12)
西暦2015年2月22日:日曜日

【エゴが作った幻想の再利用】
①【A・Course・in・Miracles】の聖霊の再利用概念は歪み
②全てを終わらせる為に必要なのは世界全てへの幻滅だ
③全てを終わらせる為だけに、エゴが作った幻想全てを再利用する


【①【A・Course・in・Miracles】の聖霊の再利用概念は歪み】

【A・Course・in・Miracles】の聖霊概念では、
「聖霊は幻想を作らない。
だが、エゴが作った幻想を再利用する。
それで、神から分離してバラバラになった元は1つである『神の息子』達に真実を知らせ、目覚めさせる手段とする」
というような内容がある。
「聖霊と1つになり世界を脱出した神の教師は『償いの計画』に参加し、他の『神の息子』達を目覚めさせる手助けをする」ともある。

西暦2015年段階で本物:佐藤篤代が言っている"再利用"とは【A・Course・in・Miracles】のこの聖霊概念が元になっている。

本物:佐藤篤代は聖霊概念に矛盾があると気付いてから、一から【A・Course・in・Miracles】の概念を検証し直した。それで、再利用概念も歪みだと気づいたのだ。

【A・Course・in・Miracles】に混同しかねない歪みの元になってるとしか言いようがない余計な表現が多々入っているのは最初から判っていた。それは、まだ終われない人間(ヘレン・シチュクマン)が真実を受け取ったせいだと考えていた。

しかし、【A・Course・in・Miracles】に決定的な矛盾があると気付いたのは、本物:佐藤篤代に偽者がいると気付いた後だった。

西暦2011年はまだ【A・Course・in・Miracles】決定的な矛盾に気づきたくなかったが、矛盾ははっきりとしたイコールにならない方程式として、思考に突き付けられた。

「【A・Course・in・Miracles】まで歪んでいたら、それどころか全部嘘だったら、一体何を信じればよいのか?」
―もしそうならば、何を基盤とすればよいのか、どの方向性をとればよいのかわからず、軸を失い、地盤を失い、本物:佐藤篤代は揺らいだ。

だが、決定的な矛盾に気付かないフリをするのをやめて直面することにした。直面しなければ方向性を完全に失う位に決定的な矛盾だった。それで、【A・Course・in・Miracles】の全部が嘘なのか、それとも何かの歪みなのか見極める為に、慎重に一から検討した。
これは西暦2011年~西暦2012年位の時期だった。

現状を見ると、西暦2010年の大混乱期を過ぎていたので、1つだけ確かな事実があった。
「知覚ある世界は欺きの為の幻想」だという決定的な事実だ。
これだけはもはや取り消しようがない事実だった。

世界がまともな理由から作られた現実ならば、こんなことは生じないという西暦2010年の大混乱期は過ぎていたし、その後の経験からも、とても世界が現実だとは今更信じられなかった。
そのくらいに全てはインチキ臭くなりすぎていた。

故に、【A・Course・in・Miracles】の『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という第1の核心概念は、現状と一致していた。
だから、この一致点を基盤に検証し直すことにしたのだ。

『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という基盤から、矛盾が生じた全てを歪みやエゴ概念として区別し、区別できない概念は保留状態、宙ぶらりんにしながら【A・Course・in・Miracles】を慎重に一から検証した結果、【A・Course・in・Miracles】自体が歪みだと判明した。

検証から、エゴの傾向がよく視えた。

エゴの最大の狙いは特別性を可能な限り保護することであり、例外が許されない決定的概念の中に例外をなんとか誤魔化して残し温存させる傾向だ。

このエゴの傾向が視えれば、後はどんどん【A・Course・in・Miracles】の中の歪みがどこにあるのかが視えていった。

とにかく、『知覚ある世界は欺きの為にエゴが作った幻想』という打ち消せない決定的概念を根底の基盤としながら、
「だからエゴが作った全てを棄てなくてはならない。終わらせなくてはならない」、
「エゴは特別性の誘引で欺いて世界へ惹き付けるので、特別性をどうあっても保護して温存する傾向がある」、
「故に最大のエゴの欺きの手段である特別性を完全に棄てなくてはならない」
という概念は事実なので、
これらを基盤にした方向性を取ることにした。

もう、袋小路の迷路に迷い込むのは嫌だった。だから、徹底的に、矛盾なく、例外なくこの基盤を追究した。
絶対に妥協しないと決めた。
矛盾が少しでも見えたら徹底追及。
曖昧なものは宙ぶらりんにし、いつでも概念が覆ってもいいように、何にも確信を持たないようにした。

確信を持てるのは『知覚ある世界はエゴが作った幻想』という裏付けられた概念だけだ。もうこの基盤は覆らない。

この状態下、【A・Course・in・Miracles】も他の全てと同じ幻想に過ぎないという視点を獲得し、知覚ある世界の全てはみな例外なく同じ幻想という視点となった。

本物:佐藤篤代はここから【パズル的な知り方】へと自然となっていった。
全ては例外なく同じエゴが作った幻想なのだから、全てにはエゴの目的がある。見せられ知覚する全てには、必ずエゴの目的がある。
だから、知覚する全てからエゴの目的を見いだそうとする知り方だ。
これならば、知覚する全てに確信を持たないし、信頼せず、知り方は一切偏らない。
この方向性から、知るべきことが知れるようになっていった。
この状態下では、全ては例外なくエゴが作った幻想であり、知る為の再利用手段となる。

「知覚ある世界の中の何にも、信頼も確信も確実性も置けない」、と【A・Course・in・Miracles】自体が歪みだったという事実から痛感している。
しかも【A・Course・in・Miracles】自体に、「知覚ある世界の何にも信頼も確信も確実性も置いてはいけない。何故ならエゴが作った幻想だからだ」という内容を書いているのだ。
だから、知覚ある世界の中の何にも、信頼も確信も確実性も置かないように慎重に気を付けた。

【A・Course・in・Miracles】の聖霊概念は、神概念が歪みであるので、歪みだ。となると『償いの計画』も『再利用』も完全なエゴ概念か歪みだ。

検証した結果、『再利用』は歪みだと判明した。

本物:佐藤篤代は何故【A・Course・in・Miracles】を知り、しかも【A・Course・in・Miracles】自体が歪みだと気付いたのか?
知覚ある世界はエゴが作った幻想でインチキだと何故気付いたのか?
それは、明らかに、知覚ある世界の作り手の欺きの意図に反した何かの影響だからだと考えた。
聖霊概念の元になる何かがある。

欺き続けられるならば、決定的に『知覚ある世界はエゴが作った幻想』だと書かれた【A・Course・in・Miracles】を欺き手は作らなかった筈だ。ならば、作り手である欺き手は、作らざるを得ない自体に陥っているということだ。

故に、作り手である欺き手エゴの意図とは正反対に作用する何かがあると考えた。しかもその作用により、エゴは作りたくないものを作らざるを得なくさせられている。

そのエゴとは正反対に作用する何かを、本物:佐藤篤代は
【終わらせる為に作用する何か】と呼ぶようになった。

聖霊概念では、「聖霊は一切幻想を作らない」とある。【A・Course・in・Miracles】自体、エゴが作った幻想の中にある幻想なのだから、何かが幻想として作ったから世界の中にあるように見える。
だが、聖霊は作らない。
ならば【A・Course・in・Miracles】を世界の中へ実質何が作ったのか?表したのか?
―エゴしかいない。

この点における聖霊概念の矛盾がはっきりと歪みだ。決定的にイコールになっていない。
矛盾なく検証していった結果、この聖霊概念の大元に【終わらせる為に作用する何か】の作用概念があったのだと納得いく説明がイコールで繋がった。

全て、例外なく、知覚される全てはエゴによってのみ作られた。
【A・Course・in・Miracles】も神の教師も例外なくエゴが作った。欺く意図がなければエゴは作らない。
故に、【A・Course・in・Miracles】にも神の教師にも欺くエゴの意図があるからこそ世界の中にあるように知覚されている。
この視点で、エゴが作った幻想全てを『同じ』と見ることができる。

これならば納得がいく。

そして、聖霊とは違うが、聖霊のように真実を知らせようとする何かがあるのは確かだ。聖霊とは違い、真実を知るように、エゴに作らざるを得ない状態に陥らせる作用ということだ。

この作らざるを得ない状態は、本物:佐藤篤代の現状に表れていた。
偽者が【異世界レベル】でいて、全偽者の領域に、本物:佐藤篤代のあらゆる要素が漏れているという『芋づる式漏れ』が垣間見えていたのだ。
偽者とは各世界の主人公だ。

西暦2014年段階の佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/18717650/23
(6)偽者概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970074185.html
(8)芋づる式漏れ・芋づる式カバー
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970850551.html

この『芋づる式漏れ』作用により、【終わらせる為に作用する何か】の再利用法がピタリとパズルにはまったかのごとく解った。

エゴには、時間と空間は無関係だが、作る順番がある。偽者の領域を作るには順番が生じる。そして偽者は多種いることが判っていた。だから、エゴは最初の偽者から順番に【異世界レベル】の偽者を多種多様に作ったのだと判明した。

順番が生じ、多種多様に偽者をエゴが作った理由は、『芋づる式漏れ』の為に型が次々に限界に陥ってきたからだ。

【終わらせる為に作用する何か】は【異世界レベル】の偽者の型崩しをしていると窺えた。
理由ははっきりしていた。
偽者の特別性の誘引を断ち切る為だ。
要するに、特別性を誘引する理想像・魅力崩しをしているということだ。

これで、理想像型の要素が限界に陥ると、型を崩し新たな魅力の偽者とその世界をエゴは作り出す。その連続が最後の偽者まで生じざるを得なかった。

ということは、【終わらせる為に作用する何か】が持っていこうとした、エゴに作らせる方向性は、偽者の理想像型崩しの方向性だ。
目的は、偽者の理想像による特別性の誘引の限界誘発だからだ。

偽者の理想像に惹き付けられなくなれば、偽者による特別性の誘引は終わる。

エゴの目的は、あらゆる特別性の誘引により、世界へ留まらせることだ。
ならば、特別性を誘引する全てを限界へ持っていけばよい。

そこで、【終わらせる為に作用する何か】は、真実を知る方向性へとエゴに作らせる一方で、全異世界の偽者を限界に持っていくように作らざるを得なくさせた。

偽者の領域を限界に持っていくには、その領域に、矛盾を生じさせればいい。
例えばニュースや歴史だ。
こんなニュースはこの世界の経緯ではあり得ない、こんな歴史はこの世界にはなかった―これは激しい違和感を世界に生じさせる。
そしてその違和感を生じさせるには、エゴが別の偽者用の世界として後で作った(前でも使えそうだが)、異世界のニュースや歴史を漏れさせればいい。
これが『芋づる式漏れ』だ。

隠しきれなければ、エゴは異世界から漏れたニュースや歴史をその世界に採り込んで、作り直さなくてはならなくなる。

こうして、【終わらせる為に作用する何か】の目的に沿って、エゴに作らせることが可能になる。
これが、エゴが作った幻想の再利用だ。
エゴはなんとか誤魔化して取り繕わなくてはならないだけだ。

そして、エゴが最後に作らされた偽者は、もはや全てを終わらせる為に作らされたとしか言えない状態になっている。

違和感と矛盾を生じさせる異世界の漏れが生じたら、そこでエゴは作り直しだ。だからこれは否応なしだ。エゴにとっては欺く為だが、全てを終わらせる為に作らざるを得なくなるだけだ。

最後の偽者の型も同様に、全ての偽者型を終わらせる為の型としてエゴは作らされる。最後の偽者が『偽者崩し』をやり始めると、マイナスの要素が多過ぎて、別の偽者用では漏れたら、サイドストーリーのスケープゴートとして作らなくてはならない位に、最後までやりたくない要素となる。

そして、最後の偽者も、エゴが作った幻想全てを全て価値として棄てて、一切の特別性を棄てて絶ち切った後で、エゴが作った幻想全てを再利用しながら、知るべきを知り、全てを終わらせる為に『偽者崩し』の為だけに言動する。
そのように最終的に【終わらせる為に作用する何か】はエゴに作らせたワケだ。

これで、【終わらせる為に作用する何か】はエゴが作った幻想全てを再利用して、終わらせる方向へ全てを持って行けるわけだ。

【終わらせる為に作用する何か】は終わらせる為に一切幻想を作っていない。
終わらせる為に、エゴに作らざるを得なくさせることで、その全てを再利用する。
西暦2015年2月段階で、本物:佐藤篤代では、この再利用の論理が納得いく考察だ。
聖霊概念ではもう説明がつかない。



【②全てを終わらせる為に必要なのは世界全てへの幻滅だ】

これは西暦2015年段階概念:佐藤篤代
(9)幻想を幻想として見る
③真実において他者は別の他者に影響を与えられない
の内容をまとめて加筆した内容だ。同じ文章も含まれている。

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23
(9)幻想を幻想として見る『赦し』
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11987258358.html

【A・Course・in・Miracles】レベルでは、『知覚ある世界の全てはエゴが作った幻想』として全てを幻想と認識し受け入れる過程で、自分自身を幻想として見なくてはならないから、自分を棄てなくてはならない。

【A・Course・in・Miracles】レベルにいれば、自分の名前やアイデンティティーの全てを棄て、あらゆる特別性も棄てるのは必須項目なので、
特別性を自他共に誘引させないようにする為、
自分の名前やアイデンティティーを前面に出してインターネットを含めた公で何かの活動をすることはあり得ない。
公で教えるなどあり得ない。
それは自分を「赦せてない(幻想を幻想として見れてない)」ことになるからだ。

【A・Course・in・Miracles】レベルにいたら、公で教師として教えることが無意味であり、あり得ないことはすぐに判るのだ。大体、「エゴが作った世界なのに公できちんと真実が伝えられるのか」を疑問に思わないのは、エゴの思考システムにあるからだ。

「神の教師」概念故に「他者が別の他者に真実において影響を与えられる」とさせるレベルにしかない【A・Course・in・Miracles】レベルではこの点において既に矛盾だ。「神の教師」というだけで、どう考えても自他共に特別性を誘発させてしまう。

「他は無い・他は幻想」と実感して受け入れなくてはならない課題が台無しになり、あまりの強烈な魅力の「神の教師」の存在感に惹き付けられ過ぎて、どうあっても「他は在る・他は現実」にしか思えなくなってしまう。
明らかに誰も幻想とは見れない。

この点において判るように、Jesus(イエス・キリスト)がやったことは、他者を長い歴史の流れにおいて、特別性で呪縛しただけだ。

自分の名前やアイデンティティーを棄てた者が再利用できるのは、【A・Course・in・Miracles】レベルを超え、【異世界レベル】の【偽者概念】に気づき始めた後だ。

西暦2014年段階の佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/18717650/23
(4)他は無い・他は幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970071517.html
(6)偽者概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970074185.html

【他は無い・他は幻想】という見方が経験から徹底的になっていくと、「真実を扱う上で、他者(あらゆる他の存在)には一切影響を与えることが出来ない」と解ってくる。
これで同時に【A・Course・in・Miracles】の「夢の主人公」概念が歪みだと判明する。

他者もあらゆる他の存在もエゴが作った幻想、作り物に過ぎない。
エゴに欺かれる対象ではない。
それはエゴに作られた自分も例外ではない。
自分も他者もあらゆる他の存在もエゴに欺かれる対象ではなく、逆に欺き手だ。
エゴの作り物なのだから当たり前だったのだ。
知覚ある世界の全てが同様だ。

欺かれる対象は、知覚ある世界の全てを見せられている何らかの1つだ。それを本物:佐藤篤代は「1つの自己※」としている。

故に、真実を知らなくてはならない唯一の対象は「1つの自己※」だけだ。

エゴの作り物が真実を知らなくてはならないのではない。エゴの作り物は「1つの自己※」が真実を知るための再利用手段にしかならない。
それ以上でもそれ以下でもない。
そして、エゴの作り物を再利用するのは聖霊として歪められた【終わらせる為に作用する何か】だ。

自分も他者もあらゆる他の存在も、知覚ある世界の他の全てと同じように、エゴの作り物であると同時に、【終わらせる為に作用する何か】が「1つの自己※」へ真実を知らせて全てを終わらせる為の再利用手段でしかないのだ。

真実を知らなくてはならない唯一の対象は「1つの自己※」だけなのだ。

故に、世界の主人公としてエゴに作られた個体である自分が、他者に真実を知らせなければならないとさせたいのはエゴだけだ。

「世界の主人公が他者に真実を知らせて真実を分かち合うという出来事」を作ることが出来るのはエゴだけだ。
そして、エゴだけが真実を分かち合う出来事を作りたい。何故なら、分かち合いで特別性を温存出来るので真実を覆い隠し続けられるからだ。

そこで、他者やあらゆる他の存在に真実を知らせることは無意味だと判る。

真実を知る上で特別性が障害となるのは、特別性を棄てなくてはならないのが世界の主人公ではなく、実質的には見せられている方の「1つの自己※」だからだ。

それなのに、世界の各主人公が仲間と真実を分かち合う美談なんかを見せられて、世界やその中への特別な感情を「1つの自己※」が棄てられる筈がないだろう。

結婚、子供、家族、友人…あらゆる特別な関係において、幸せや理解やあらゆるプラスな要素を見せられたら、「1つの自己※」は世界の中の全てへの執着を棄てられないのだ。
全てを終わらせる為に必要なのは世界全てへの幻滅だけだ。

故に、【終わらせる為に作用する何か】が真実を知らせる為にエゴに作らせるよう作用するのは、「1つの自己※」が真実を知らなくてはならないからだということだ。

「1つの自己※」が真実を知るように、【終わらせる為に作用する何か】はエゴの作り物を再利用して、エゴに作らせていく。

要するに、根本的に真実を知らせる作業をする段階の、【終わらせる為に作用する何か】に再利用される主人公は、それよりも前にエゴが作った【異世界レベル】の全主人公の領域に影響を与えるような知らせ方をさせられるわけだ。

真実において、知らせる作業をして影響を与えるべきは、【異世界レベル】の全主人公の領域というワケだ。その各主人公を本物:佐藤篤代の領域では【偽者】と呼んでいる。

この段階になると、真実において同じ領域には影響を与えられないと主人公(偽者)自体が知っている。
関わる全ての他者は、エゴの意図の下で、設定としてしか動かないエゴの作り物でしかない。「他は無い・他は幻想」だと経験的に知る。
故に特別性の誘引はなされず、万が一なされた場合は【終わらせる為に作用する何か】の作用により失墜させられる。

主人公(偽者)自体がこれらについて知っているということは、見せられている「1つの自己※」の受け入れが済んでいる段階の内容ということだ。
だからエゴは世界に表現しなくてはならなくなり作らざるを得ない。
無論隠せない内容は採り入れながら、別の切り口から欺くために。

その一切特別性が誘引されない段階において、主人公(偽者)の名前やアイデンティティーは一番完全に棄てられた後に再利用可能になる。

【終わらせる為に作用する何か】はエゴが作った「作り物」を再利用し、別の領域の主人公(偽者)の要素をまた別の主人公(偽者)の領域へ『芋づる式漏れ』にさせる。

この『芋づる式漏れ』作用により【終わらせる為に作用する何か】は、エゴが作った全主人公(偽者)の型を限界へ持っていく。
この点において、最後の主人公(偽者)型が限定されなければ、際限なくエゴは偽者型を作れてしまう。
それ故に、最後の主人公(偽者)は自分の名前やアイデンティティーや出来事を完全に棄てた後でさらけ出す。

全主人公(偽者)型に限界を敷く為の、自分の名前やアイデンティティー等の提示は、【終わらせる為に作用する何か】の再利用として利用できるワケだ。
全てはどちらの何の目的で行うかだ。

その上、全主人公(偽者)の型は何らかの魅力で必ず魅了するので、最後の主人公(偽者)は全主人公(偽者)型を崩す為に、どんどん型崩しさせてきて最終的にエゴが作らなくてはならなくなった最終形態と言える。

最後の主人公(偽者)は『偽者崩し』の為に言動するようにエゴは【終わらせる為に作用する何か】に作らされる。

特別性を喚起させる分かち合いを作るのはエゴだけであり、逆に特別性を棄てさせる【終わらせる為に作用する何か】は否定させる。

「1つの自己※」を世界へ惹き付ける手段としてエゴが作った全主人公(偽者)を全て限界へ持っていくために【終わらせる為に作用する何か】はエゴが作った全てを再利用するということなのだ。

その為には、世界へ惹き付ける全ての要素、特別性を喚起させる全ての引力を限界へ持っていき、その全てを棄てさせるように再利用され、作用するワケだ。
それにより、各主人公(偽者)は失墜し、各主人公(偽者)への信頼と特別性は限界へ持っていかれる。
この目的だけに全てが再利用される。

特別性は、同じ領域の他者への問題ではなく、全てを見せられている、エゴの欺きの対象である「1つの自己※」レベルの問題だということだ。

特別性の問題のレベルは「1つの自己※」なのだ。

「1つの自己※」へ一切特別性を誘引させない、全てが無意味化した状態下で、初めて主人公(偽者)は自分の名前とアイデンティティーを再利用出来るようになる。



【③全てを終わらせる為だけに、エゴが作った幻想全てを再利用する】

『知覚ある世界はエゴが作った欺きの幻想。そこに例外は一切ない』。

故に、知覚する世界の中の全ての価値を棄てなくてはならない。
それは、一切対象に魅了されず、特別に感じず、未練が残らず、拘束力も持たせず、誘引されない棄て方だ。

「今全てが消滅するからその対象が永遠になくなっても平気か?」ということだ。完全に終わるか、続くかの選択の中で、完全に終わる方を躊躇なく選べる状態。

だから、幻想の全てを棄てる範囲に、【社会的義務を棄てる】項目があるのは当たり前だ。

【A・Course・in・Miracles】読めばそのくらいは解る。

【社会的義務を棄てる】と言っても、価値として全てを棄てるのが大前提だ。
価値として完全に棄てられる状態に全てを持っていく。他の全てを棄てる時にも同じことが言えるがな。
完全に棄てられる状態に持っていく為に、生計を立てる一切の行為をやめる必要は絶対にある。生計を立てる為に生きることは棄てられなくてはならない。これは物凄い死と身体の恐怖を伴うからだ。それほどまでに世界への引力が最終的な要素なのだ。

棄てた後は、法に触れて拘束されない範囲内に対処しなくてはならない。
この時点では再利用段階に入る。
だから本物:佐藤篤代は納税義務を両親に丸投げしたんだけどね。両親も再利用手段でしかないということだ。
拘束されては、『知らせる作業』ができなくなる。エゴに拘束する正当な口実を与えないようにさせなくてはならない。エゴは真実が拡大するのを可能な限り妨げなくてはならないからだ。不味い真実はどうあっても妨害したい。
その点において、世界の法則や法律や規範やルールには最低限従う必要はある。
目的はあくまでも、世界にハマりうまくまともに生きていく為ではなく、エゴが作った全てを終わらせる為にだけだ。
この目的に従ってこの知覚ある世界で成す全てが、個体としては、再利用の為の言動だ。
エゴが作った全てを終わらせる為には、全ての主人公(偽者)の領域を限界へ持っていかなければならない。その為に『知らせる作業』を行える最低限の状態だけが整えばよい。
その為に利用できる全てを再利用する。

ただ、必ず、価値として一度何もかも全部棄てられてなくてはならない。

そうでなければ再利用手段としては見れない上に、再利用手段として機能しなくなる。

自分や他人が現実のアイデンティティーを持つ人間だと信じていたら再利用はできない。 全てが同じエゴが作った幻想でありインチキだと実感していなければ再利用できない。

「他者を利用する」と言うと冷たい感じがするならば世界に未練があるからだ。全てを同じ幻想とは見れていない。

エゴから来るアメは、アメに含まれたエゴの目的のまま受け入れてはいけないということだ。全てを終わらせる為、エゴの目的を潰す為、『偽者崩し』の為に再利用するという目的から受け取り利用すればいいのだ。

すべきなのは、エゴの目的に縛られない利用の仕方だ。

全ては「何のために言動するのか」だ。
エゴの目的とは正反対の【終わらせる為に作用する何か】の目的に従ってエゴが作った幻想全てを利用するのが、再利用だ。

要するに、再利用手段として自動車を運転するなら運転免許をちゃんと更新する。これは丸投げできないからな。
自動車は何のためにのり続けるか、だ。実際、本物:佐藤篤代の欲望や社会的義務の為には乗らない。実際、車、いらないんだよね、本物:佐藤篤代的には。

自動車のように、再利用手段として利用する対象に免許更新や車検などの必須項目があるならば、それはやらなくてはならないという意味だ。

但し、何が再利用となるかは、個体としては判らない場合の方が圧倒的に多い。
エゴが作った全てを再利用するのは【終わらせる為に作用する何か】だからだ。

個体は所詮エゴの作り物であり、エゴの目的としては欺ける判断から作られた。その全てを【終わらせる為に作用する何か】が全てを終わらせる為に再利用する。

個体としては、全てを棄てて再利用して、エゴの作った全てを終わらせる意欲を持って言動しているとしても、その全てもエゴが作ったに過ぎない。

【終わらせる為に作用する何か】は全てを終わらせる為に、最終的にエゴに作らせる方向性を余儀なくさせて定めるようにコントロールするよう作用する。

だから、最終的にエゴが作らされるのは【終わらせる為に作用する何か】がエゴが作った全てを終わらせる為の決定ルートだ。

故に、最後の主人公(偽者)は、終わらせる為に言動させられたロボットに過ぎないだけだ。

主人公(偽者)の意志の下に言動しているように見せられているだけなのだ。

再利用はこの点を踏まえて見なくてはならない。

知覚ある世界の全てをエゴは欺く目的で作った。
その全ての再利用段階では、目的が【終わらせる為に作用する何か】の方向性だ。
一度主人公(偽者)が全部棄てた後で、再利用に効果的なものは使われる場合がある。だから食い続けている。
それは、世界にハマるためではなく、目的が幻想を終わらせる為になっている。

いわば、「そうすれば『偽者崩し』になるという場合」、幻想を終わらせる為に再利用される。
未だ現在にも残っていくものがそうなんだろう。
その目的が終わったら、残らなくなるだろうがな。

自動車は『偽者崩し』に使えるから再利用されてるだけだ。それには法に反しないようにはやる。交通ルールは守る。他の『偽者崩し』の方向性に支障が出ないようにするためだ。自動車がないと極端に行動範囲が狭まり、逆に偽者はやりやすくなるからね。

エゴに拘束する正当性を持たせなくさせるのは絶対に必要だ。
なんせ、本物:佐藤篤代は偽精神科医に無理やり連れてかれて、偽精神病診断で強引に入院させられそうになった位の経験してるからね。
心理学の巨匠カール・ユングの内容を知らない精神科医なんて確実に偽精神科医だ。あり得ない。
それほどエゴは真実の最終的な拡大の元を妨げなくてはならないということだ。

エゴは実際【知らせる作業】を妨害できるならしたいんだよ。それはインターネットやブログやスマートフォンの局所的妨害でもよく解る。

だから、エゴに拘束や妨害の正当性を持たせないようにさせる努力は欠かせない。

偽精神科医の件は「棄て方を知れ」という意味も含まれた経験だったと思うのだ。

棄てた後にどうするかは【A・Course・in・Miracles】では曖昧すぎたし、「神の教師」の方向性しか書いていない。そして、「神の教師」概念は特別性を死守する為のエゴ概念だった。

本物:佐藤篤代は聖霊だけに答えを求めるという姿勢を貫いた。そして聖霊概念も歪みだという答えに行き着いた。

実際『幻想を棄てる』と言っても、最初はどこまでやればいいか解らなかった。【A・Course・in・Miracles】はその辺が曖昧だった。
西暦2010年の大混乱期は実際、極限状態下、結果的に『食べない』というのもやり、そこで本物:佐藤篤代はボーダーラインを超えた。本当に否応なしに、結果的にだった。
そこが本物:佐藤篤代は殺されないし、事故でも死なないと解った時点だ。
そして、そこが最大級に大変だった時点だった。
同時に【A・Course・in・Miracles】の範囲を超え始めた時点だった。

その『食べない』という時点で、その後結果食べるようになったから、まだ取り組みする可能性はあるとその時点では思っていた。

ただ、現在西暦2015年2月の段階では「飲食する」行為自体を完全にやめることはないと考える。
超人や仙人のような魅力が生じてしまうからやめる必要がないのだろう。
飲食する行為を完全にやめるのはどう考えても『偽者崩し』にはなりそうにない。逆に飲食した方が『偽者崩し』になっているのだと窺える経験も多々ある。

本物:佐藤篤代が個体レベルでの再利用段階に入ったのは西暦2011年4月だった。それまでは全てを棄てる方向性だった。明らかに自分のものではない知覚、思考、感情、欲があると気付いたからだ。赦しても赦しても消えないのは、何かを知らなくてはならないからだと考え、消えない種類を表現することにした。実質、やりたくない種類をやり始めた最初だ。
やり始めて直ぐに、生じていたのはやはり自分の感情や思考や欲ではないと判明した。偽者の投影だと考えた。やっと、偽者の影響がこれまでに酷かったのだと判った。
それで偽者の影響を終わらせたいという方向から、やっていることが『偽者崩し』になっていたと気付き、偽者を終わらせる方向性へ移行した。

最初、影響が来る偽者は【A・Course・in・Miracles】系の老齢系の男女だと窺えたので、とにかく老齢系が出来にくくなるものをやり始めた。
マンガ、ゲーム、ピンク、若者がやるようなことをやり出した理由だ。もう全て完全に棄てていたものだ。

そうするうちに、老齢系の男女が、マンガ、ゲーム、ピンク、若者がやるようなことを異様な位にやり出したのが窺えた。実質、異様過ぎた。道を歩く老齢系の男女がピンクを着まくったり、かなりインチキ臭い状態を見せられた時もあった位だ。

それで、老齢系偽者の男女は、年相応を無視し、問答無用に真似する傾向があると気付き、
【43才以上になったらやらない一覧】
を作った。
偽者は老齢系が大多数であり、老齢までやってしまった型が大多数だと判っていたからだ。

この例から全偽者がやらない傾向がある種類は、最後の偽者である本物:佐藤篤代が制限を設けたからだと解ってきた。

そして、偽者の影響は投影でではなく『芋づる式漏れ』による『芋づる式カバー』の影響だったと気づくようになっていった。

そこで、『偽者崩し』の傾向が掴めた。
偽者を型にはめ、制限を設けて、身動きがとれなくさせ、取り繕いを出来づらくさせればいいと判った。
それで偽者はいずれ取り繕いが出来なくなり限界に陥る。
その為だけに、世界にあるように見える全てを利用すればいい。
それが個体レベルでの再利用だ。

エゴが作った幻想である知覚する全てからエゴの目的を知ろうと探る【パズル的知り方】により、偽者用の取り繕いも、偽者型も窺えた。だから、各偽者型に合わせて、『偽者崩し』の為の言動をする。
その為だけに、残りの時間を使う。

エゴが作った幻想でしかない人生をうまく楽しく生きる為でも、生計を立てて食い繋ぐ為でも、特別な絆的なまやかしに甘んじる為でもない。
全てを終わらせる為だけに、エゴが作った幻想全てを再利用する。
それが個体レベルの再利用段階だ。

個体は所詮エゴが作った幻想でありインチキでしかない。神の教師概念のように個体の人格を魅力的にさせたら、本末転倒だ。特別性の誘引は決して終わらない。

個体はエゴに作られて支配され、【終わらせる為に作用する何か】に再利用されるだけのロボットという捉え方にならなければ、個体への特別性の誘引は終わらない。

ロボットという捉え方ならば、『偽者崩し』の為に個体は何でも出来る。自分がなければ言動や人格、見られ方に固執しない。
『偽者崩し』になるならば「バーカ( ・ε・)」とも言える。逆にバカにもなれる。
しかも、この再利用は、攻撃にならない。目的は全てを終わらせること、特別性を誘引させる偽者を崩す為だからだ。
対象を自分にとっての現実にさせることが攻撃だ。しかし、この利用法では対象は現実にはなり得ない。
要するに「バーカ( ・ε・)」と言うのはここでは、ロボットの自覚の上での演技なのだ。『偽者崩し』の為の演技。
だから再利用となる。

しかも、この手の演技は、人格と見られ方が命の【学術系偽者】にはかなり出来にくい。信頼を失う可能性が高い。
偽者は信頼が命だ。

しかし、偽者崩しの為に効果的なら何でもやるロボットの自覚がある最後の偽者には、信頼を得る必要も、保つ必要もない。逆に信頼は失墜させようとしている。でなければ、特別性は終わらない。

実際、本物:佐藤篤代は『偽者崩し』に再利用として効果的ではない全てをやらない。効果がなくなったらやめる。

例えば、偽者が水色を多発させていたら水色を一切やめたりする。
これは、全てを価値として棄てているからだ。

効果的ではない全てをやらない。
効果的な全てをやる。
『偽者崩し』をやる本物:佐藤篤代の姿勢だ。

そして、『偽者崩し』の為に再利用できる全てがどんな状況であれ必ず手に入るが、再利用として使えない全ては絶対に手に入らない。
これが再利用の鉄則だ。

確実に、上記も含めて【社会的義務】を棄てるか否かの選択はエゴの作った欺きのインチキ幻想の中で甘んじて生きたいか、否かの選択だ。

本物:佐藤篤代はエゴの作った幻想を全て棄てて、脱する方向へ向かう選択をしただけの話だ。
最後に作られた主人公(偽者)だからだ。

だから、【社会的義務系偽者】は本物:佐藤篤代の事実が『芋づる式漏れ』になると困窮していく。

世界にハマって生きる選択者が、世界にハマって生きず社会的義務を棄てる選択してる者の真似をしなくちゃいけなくなるんだから、当然だ。

そして一番長く続くやっかいな偽者型が【社会的義務系偽者用】だ。
だから、一番『偽者崩し』で取り組まなくてはならない。
最初のうちは「【A・Course・in・Miracles】を読めば一目瞭然だろ」と相手にもしなかった型がこんなにめんどくさい偽者用だとは思いもよらなかったがな。

各主人公の世界自体が【A・Course・in・Miracles】核心レベルへ達するまでが大変なのだと後で気付いた位だ。


佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(12)
【エゴが作った幻想の再利用】
西暦2015年2月22日:日曜日



西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23

(1)エゴの隠す特質
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11974654245.html
(2)エゴが隠し取り繕う過程
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11975807518.html
(3)2つの正反対の思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11976707775.html
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11978246696.html
(5)スケープゴートの世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11979880043.html
(6)原因と結果の法則
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11982652628.html
(7)繰り返しのサイクルの終わり
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11983485361.html
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11986007920.html
(9)幻想を幻想として見る『赦し』
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11987258358.html
(10)やり直しのスパイラル
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11989740061.html
(11)『全ての幻想を同じ』と見る視点
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11991064187.html


西暦2015年1月
http://simplog.jp/comment/19628362/23
西暦2015年2月
http://simplog.jp/comment/19628500/23


この本物:佐藤篤代のブログは
【A・Course・in・Miracles】の核心「知覚ある世界はエゴが作った幻想」を矛盾なく徹底的に追究し、
【他が幻想であり、他がない】
と証明する、
『世界の起源を扱う』、
『人間レベルではない』、
【自分発信、自分受信】
の自分が知るために自分が自分に知らせる為のブログだ。

敵はいない。
味方もいない。
全部同じだからだ。
全てが同じエゴが作った幻想でしかないからだ。

本物:佐藤篤代は『エゴが作った幻想』という見方でしか何も見ないから、敵も味方もいない。

この『全てはエゴが作った幻想』という視点でしか『全部同じ』としては見ることはできない。

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしている。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

※本物:佐藤篤代が言う「1つの自己」とは【A・Course・in・Miracles】の意味とは違う



西暦2015年(年号:平成27年)
未(ひつじ)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
【A・Course・in・Miracles】セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:【A・Course・in・Miracles】は本という型なので真実を完璧に表現できない。エゴは視界レベルで作り直せると気づいた為。
エゴはあいまいな記憶の水面下をいかようにも作り変えられる。時にはあからさまに作り変える。

同じ理由から【A・Course・in・Miracles】原書は全部はブログ掲載はしない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、後半ではやり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだと考えていた。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

西暦2013年に新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2015年1月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2015年)。
佐藤篤代は西暦2015年1月17日(土)で39才。
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。

メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーション迷惑だからやめて下さい。
なされる全てが【偽者用コメント】でインチキだと判明している為です。
故に、『偽者用コミュニケーション』だと言う突っ込みしか入れません。
(西暦2015年現在)

佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(12)
【エゴが作った幻想の再利用】
西暦2015年2月22日:日曜日

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