西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(17)
西暦2015年3月11日:水曜日

【罪は幻想・罪はない】

①A・Course・in・Miraclesレベルの罪悪感・罪の投影概念:引用:第2弾
②神から分離したという起源の罪悪感は、エゴが作った概念であり、知覚がインチキだという実感で無意味となり終わる
③変えなくてはならない心の領域は、エゴの作り物の領域ではない。見せられ騙されている「1つの自己※」だ


【①A・Course・in・Miraclesレベルの罪悪感・罪の投影概念:引用:第2弾】

前回、西暦2015年3月9日:日曜日に、
西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
(16)『罪の起源』の実態
をブログ掲載した。

それで狙っていたのは、外側に原因を見る原始的な【異世界レベル】の偽者の領域を崩すことだ。スケープゴートの糾弾をするとハマり込み、いずれ崩壊する一手を投じた。この領域は内側に原因を見る心理学レベルから不可能だからだ。
思惑はうまくいったのだろう。その傾向は見えた。

だが、心理学というよりエッセイにしか見えない本の広告を今日、西暦2015年3月9日:月曜日、目の当たりにし、「あーあ、このクソ女でエゴがまた酷く浅く歪めやがったな」と落胆した。
何故なら、「心に原因がある」とかだけやってたら、間違いなくバカみたいな内容だと解るからだ。
恐らく直接的原因、間接的原因、多面的な物事の見方がなされていない閉鎖的なインチキが始まってる。二次的原因を見逃したら、直接的原因究明まで至らない。他にも色々中途半端そうだった。
だから、また心理学レベルから提示する作業が必要になるのかと思い、ガッカリした。
レベル移行するなら一気にやれよ!てか、ユングレベルまで一気に行ってくれ。
めんどくせーな(´-ω-`)

というワケで、心理学レベルにも影響が行きそうな部分を抜粋し、『西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(16)『罪の起源』の実態』にも掲載したが、ゲイリー・R・レナードの『神の使者』からの引用により、【A・Course・in・Miracles】の内容を突きつける( *・ω・)ノ

まだまだ掲載しておきたい箇所があったのでな。

掲載しておくと解りやすいと思った箇所が複数あったので重複部分もある。

因みに、『神の使者』の中のアーテンとパーサは人間ではなく、アセンディッドマスターだ。Jesusと同じく世界から脱出した神の教師だと名乗っている。
だが、神の教師自体が特別性を誘引させる歪みであり、【A・Course・in・Miracles】自体が歪みだ。

それでも歪みの概念を提示するのは、【異世界レベル】の偽者の領域崩しの為だ。この概念過程をまだやっていない原始的領域を次の段階へ移行させる為の再利用だ。
こうして、概念的なレベルを最後の領域で進ませる。

影響を与え、再利用するのは【終わらせる為に作用する何か】だ。そして、影響が行くのは同じ世界の領域ではなく【異世界レベル】だ。

いつもだが、本物:佐藤篤代では、同じ世界の領域には影響を与えようとはしていない。

以下、ゲイリー・R・レナードの『神の使者』からの引用を掲載する。

最初に【A・Course・in・Miracles】は孤独な道だと書いてあるように、自分一人でやっていく道なのだが、その箇所を隠している異世界レベルの偽者用の領域があるのがよく窺えるので引用しよう。
いずれ、その事実を隠している領域を徹底的に崩す時点が来るが、今は引用に留めておく。今はその時ではない。


「コース」が自学自習の原則だということをあなたが強調すれば、人々は自分で確かめようとするだろうし、そうなればきちんと伝わる可能性が生まれるわ。
※「コース」=【A・Course・in・Miracles】

P174より

―これは結果ではなく、原因のコースである。
―したがって、世界を変えようとせず、世界に関するあなたの心を変化させることを選びなさい。
(※【A・Course・in・Miracles】からの引用部分)重複部分

「神の使者」P159
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)


(西暦2014年1月16日:日記掲載分)
(付け足し含め)
アーテン:さて、われわれの物語では、きみたちがエゴを選び、エゴと一体化したところだ。最初の分裂で、きみたちと神との完全な一体化は思い出になった。第二の分裂で、心が二つの部分に分かれた。第三の分裂で、聖霊は思い出になり、エゴがきみたちの関心を捉えた。きみたちは何が起こっているのかについての説明をエゴに求め、エゴはメッセージを与える―きみはここからとっとと出たほうがいいぞ、と。そのあと、理由を言う。混乱した心には、とても説得力がある理由に聞こえる。

「自分が何をしたのか、わからないのか?」―われわれのたとえ話のなかで、エゴは聞く―「きみは神から自分を引き離したんだぞ!『彼(神)』に対してとんでもない罪を犯したんだ。そうさ、やっちゃったんだよ。天国を―それに『彼(神)』が与えてくれたすべてを―『彼(神)』の顔に投げつけて、『こんなもの、いるもんかい』と言ったんだ。『彼(神)』を攻撃したんだぞ!もう、終わりだ。きみには絶対勝ち目はない―『彼(神)』は恐ろしくて大きくて、きみはゼロだ。きみはすべてを破壊した。大変な罪だ。とっととここから逃げ出さないと死よりひどいことが待っているぞ!」

エゴに言われて、大変だときみは思う。自分は何をしたんだろう?そうか、エゴの言うとおりだ―自分はすべてを破壊し、天国を攻撃した!でも、どこへ行けばいいんだ?どこへ行けるというんだ?逃げることはできても隠れられはしない。神自身から隠れる場所なんてありはしない!

「ところが、そうじゃない」とエゴが言う。「わたしが助けてやるんだからな。わたしはきみの友達だ―いい考えがある。一緒に行ける場所を知っているよ。きみは自分自身のボスになれるし、神と対決しなくてすむ。二度と『彼(神)』を見なくてすむ。『彼(神)』だって、この場所には入ってこられないさ!」
(本物:佐藤篤代の注意:
本文には『彼』としかなく"(神)"はわかりやすいようにこちらで挿入した)

ほんとか?きみは思う。そうだったらすばらしいじゃないか。行こう!

「いいとも」エゴが言う。「さあ、わたしの言うとおりにするんだ」

以上P188~189より

アーテン:そこで誤創造という派手で大がかりなショーに戻ると、きみの心のなかのエゴの声は、きみと神の状況について真実とはぜんぜん違ったことを語りかける。きみがそれを受け入れるのは、別個の意志をもっているかに見える個になる、という考え方が魅力的だからだ―ほんとうはそんなことは不可能なんだけどね。神から離れたつもりになり、エゴの声を本気にすると、別個に見える心のなかではそれが神に対する罪に変換される。さあ、きみは罪を犯した。罪人だ。きみは形而上的レベルでそれを感じる―この世界のレベルではつねに感じているというわけではなくてもね。自分はろくでなしの罪人だと思い、きっととんでもない罰を受けるだろうと考える。この世界のレベルでも、心理学者は無意識の罪悪感が懲罰を求めると説明するだろうね―そう考えてみると、いろんなことの説明がつくはずだ。われわれが話している形而上的なレベルでは、きみたちはいまにも神自身によって攻撃され、罰せられると固く信じているんだよ!

この神が与える死より恐ろしい懲罰を免れ得ないという予想から、恐怖が生まれる―自分でも理解できないくらいのすさまじい恐怖だ。だがきみたちはもう何十億年とも思えるくらいの長いあいだ、そこから逃れ続けてきた。だから、そもそもどうしてきみたちの宇宙、世界、身体が心によってつくられたのかを話してあげてもいいころだろうよ。これは直線的に進行する夢のなかではべつべつに怒ったように見えるが、みんな同時に作られたんだ。

この世界をつくることになった動機を理解し説明する霊的な原理はほかにないし、その同じ動機がいまもそのまま働いている。その動機とは恐怖であり、その恐怖はつねに最終的には神への恐怖にゆきつく。時間を超えた、空間のない、一見別個に見える心は、神の罰が下ると信じ込んでいるので、恐怖に麻痺した状態でいる。だからきみたちには防衛が必要だと、エゴは言い聞かせる。その防衛とはきみたちの個別性を通じてエゴ自らの生存を確保するためのものだ、なんてことは言わない。事実、個別性(individuality)という言葉の後半を見れば、それが二元性(duality)だと気づくはずだ。これは偶然じゃないんだよ。

エゴの声は友だちみたいに語りかけ、きみのために見張りをすると言う。神が捕まえに来るから安全なところへ逃げたほうがいい、とエゴが勧めたって話はもうしたね。その安全なところというのがこの宇宙だ。

「神の使者」P191~192
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)


(西暦2014年1月22日:日記掲載分)
パーサ: … エゴはそうとうなやり手よ。心は神から離れたという考えを―それと一緒にあなたを―外部に投影して見せ、それとともにあなたの身体やほかの身体やすべてを含めた宇宙全体がつくり出された話はもうしたわね。そうそう、あなたの身体はあなたにくっついているように見えるけど、ほんとうはほかのすべてと同じくあなたの外にある。あなたの外にあると見えるものはすべて幻想だから、あなたの身体もほかの身体と同じように現実でもないし、重要でもないと思うべきなの。

人は幽霊みたいなもので、ただレベルが違って見えるだけ。自分の身体が生きていると思っているけど、そうじゃない。見たいものを見ているだけよ。だからJ(本物:佐藤篤代の注意:Jesus『イエス・キリスト』を指す)は「死者たちに彼らの死者たちを葬らせよ」と言ったの。人が真実を発見してわが家(本物:佐藤篤代の注意:ここは「元在ったような状態」か「ホーム」と表すべきだ)に戻るには「聖霊の助け」がいるけど、聖霊のほうもあなたが見ているイメージを赦すというかたちで、あなたに助けてもらわなければならないの。
(本物:佐藤篤代の注意:「聖霊の助け」は大袈裟で聖霊を個々の存在とどこかで思わせるエゴ罠。単に、「エゴの幻想から脱するには自分達が幻想を幻想だと認識しなければならないという意味」をエゴの罠を込めて言っている。「助け」なんて明らかなエゴ言語だ)

もちろん、だからって身体を貶めろと言うんじゃないのよ。でもJと同じように、それへのこだわりは捨てないといけない―「コース」のなかにこんな部分があるでしょう。
(本物:佐藤篤代の注意:「コース」は「A・Course・in・Miracles」)

―身体はエゴの偶像である…罪への信念が肉体を生み出し、それが外部に投影した。次に心のまわりの肉の壁と見えるものが作り出され、心を小さな時空の囚われ人にする。その囚われ人は死につなぎとめられ、わずかな一瞬を与えられて主人のためにため息をつき、悲しみ、死ぬ。この聖らかでない一瞬が人生に見える…絶望の一瞬、水もなく忘却のなかにあぶなっかしく据えられた乾いた砂の小さな島。

以上
「神の使者」P213~214
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)


(西暦2014年1月24日:日記掲載分)
パーサ: … もちろん、だからって身体を貶めろと言うんじゃないのよ。でもJと同じように、それへのこだわりは捨てないといけない―「コース」のなかにこんな部分があるでしょう。
(本物:佐藤篤代の注意:「コース」は「A・Course・in・Miracles」)

―身体はエゴの偶像である…罪への信念が肉体を生み出し、それが外部に投影した。次に心のまわりの肉の壁と見えるものが作り出され、心を小さな時空の囚われ人にする。その囚われ人は死につなぎとめられ、わずかな一瞬を与えられて主人のためにため息をつき、悲しみ、死ぬ。この聖らかでない一瞬が人生に見える…絶望の一瞬、水もなく忘却のなかにあぶなっかしく据えられた乾いた砂の小さな島。

ゲイリー:この「テキスト」では、平和への四つの障害の二つ目は、身体はそれが提供するものゆえに価値があるという思い込みだ、って言っているね。

アーテン:よくわかったね。それはきみたちが罪悪感と苦痛に惹かれることに直接関係するのだ。「平和への障害」をていねいに読んでごらん。きみたちはエゴのシステム全体に惹かれていることを理解しなくてはいけない。きみたちは苦痛を快楽と混同している。無意識のうちに罪、罪悪感、恐怖、苦痛、苦しみに惹かれている。きみもほかの人たちとまったく違わないだろう。ただ、それに気づいている者の一人であるというだけ―だからそれを観察し、赦し、最後にはそこから自由になることができる。多くの人たちは、自分たちが罰を受けるようなことを密かに求めているとは知らない。人生のすべての分野がそうではないが、しかしいつも何らかの意味ではそうなんだ。

ゲイリー:蛾が炎に飛び込むように。

アーテン:まったくだ。きみはクラスの優等生になれるかもしれないぞ。
さて、人は無意識のうちに、自分は神を攻撃して天国を放り出したんだから罰を受けてあたりまえだ、と信じていること、そして多くの見え透いたドラマチックな方法でそれを具現化していることを忘れないように―たとえばきみがレッドソックス・ファンでいるみたいにさ。

「神の使者」P214~215
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)

※因みに、平和への障害の二つ目は、「A・Course・in・Miracles」では、原書Second EditionのTEXTのChapter19のP412からある。

B.The Second Obstacle:The Belief the Body is Valuable for What It Offers


(西暦2014年1月25日:日記掲載分)
アーテン: … 誰でも人生に意義と目的が欲しいと思っている。その答えについて、「コース」は謎めかしてはいない。まず、この世界のレベルでエゴの炎をもっときちんと見つめ、なぜ蛾がその炎に惹かれるかを理解することだ。
(本物:佐藤篤代の注意:「コース」は「A・Course・in・Miracles」)

パーサ:あなたが見ているこの宇宙は、あなたが自分を神から引き離したという考えの―さまざまなかたちで提示される―シンボルだってことは、もう説明したわね。そしてあなたはその分離を密かに恐れ、とんでもない罪悪感を抱いている。この身体の世界という新しいレベルでは、分離という考えがあなたの外側に投影されているように見える。こうして罪の原因の代用品、投影された罪悪感のもと、あらゆる種類の恐怖の想像上の原因が、あなたの外側に見出だされるようになったわけ―もちろんほかの人たちも同じように、すべてを自分の外側に見ているんです。

それが理解できれば、分離の行動化と無意識の罪悪感の投影がこの世界で日常的に作用していることが簡単に見えてくるわ。宇宙の歴史という台本全体を通じて、エゴは人々や集団を互いに対立させてきた―そうすれば個々の関係において、何らかのかたちで分離が確実に行動化されますからね。すべての人が夢から醒めたときに初めて、分離という考えが終わるの。

この世界では、一つになることのなかにもまだ分離がある。そのために、エゴは特別の関係をつくり出したのよ。二元性とともにあなたがたは特別の愛と特別の憎悪を抱くようになった。いまや愛はすべてを包むのではなく選択的になり、ほんとうの愛ではなくなったのに、まだ愛として通用している。輪廻のなかに入ったとたん、あなたはすぐに家族の一部になる―つまりほかの家族や経済階級や文化や人種集団や国の一部ではなくなるってことね。あなたはすでに多くの面でほかの人たちとは違う。それどころか家族同士、家族の一部同士、家族のなかの個人同士でさえ競い合う。

家族のなかの特別な関係は、生物学的家族でも養子縁組の家族でも里親の家族でも、良かったり悪かったり、愛しあったり憎悪したり―結果として特別な愛かある種の犠牲者を生むことになる。夢のなかでこの世界にやってくる者は誰でも、自分を最初から身体だと考える。それも特別な身体だ、ってね。犠牲者とか犠牲にするという考えはこの観点から見るしかないし、その結果、罪と罪悪感を―これは忘却という壁に隠されているんだけど―無意識に誰かあるいは何かへ投影する。

こうして、自分自身についての密かな罪と隠れた憎悪は、よその場所に見えることになる。あなたは自分自身の忘れられた心から投影された非現実の夢を見ているという事実、それは完璧に意識から締め出されています。ほかの人たちと外で起こる出来事、あるいはミスリードされたあなたの身体と脳が起こす罪ありげな行動、それが際限ない恐怖とあなたが人生と呼ぶ、さまざまな状況の原因と認識されるわけ。Jが「コース」で、夜ベッドで見る夢と昼間見る夢を比べて教えているわね。

―夢のなかの登場人物やその行動、それが夢をつくっているように見える。あなたがたは自分がそれを生み出していることに気づいていない。自分が生み出しているなら、罪があるのは夢の登場人物ではないし、満足という幻想が消えてしまう。夢のなかではそういう面はごまかされている。あなたが目覚めると夢は消えるように見える。しかし夢の原因は消えていないことにあなたがたは気づいていない。現実ではないべつの世界をつくり出したいという欲望は依然として残っている。あなたが目覚めているように見える世界は、夢のなかで見ているのと同じ世界のべつのかたちに過ぎない。あなたがたの時間のすべては夢見ることに費やされている。寝て見る夢と起きて見る夢はかたちが違うが、違いはそれだけだ。中身は同じなのである。

ゲイリー:人は幻想のなかで自分が否定した罪悪感をよそに投影するんだね。それも自分で気づかずに、実際には―ほんとうはほかに誰もいないんだから―自分の無意識のなかで罪悪感をぐるぐる回転させ、罪悪感もエゴも手つかずに温存しているんだな。Jが「裁いてはいけない。裁かれたくないためである。あなたがたは裁くとおりに裁かれ、計られるとおりに計られるから」と言ったのは、その意味だね。
(本物:佐藤篤代の注意:「 J」とはJesus:イエス・キリスト)
この言葉が真実なのは、じつは自分自身のイメージを批判し、非難しているからだ。そのことが、一見罪あるもののようなエゴが一つの生涯から次の生涯へと継続することにつながる。だって夢を引き起こしているのは罪悪感であり、そこから逃れなくてはならないという思いなんだから。

「神の使者」P216~218
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)


聖霊の赦しという力学は両方のレベルでエゴを解体してくれる。「償い」の原理によって、あなたが認識するものを赦すことで、あなたの心のレベルで否認と投影が解体され、同時にあなたの心の形而上的レベルでは聖霊が否認と投影を解体する

「神の使者」P221
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)


(西暦2014年2月4日:日記掲載分)
パーサ: … ―兄弟を身体と見る者は、彼を恐怖の対象として見る。そして彼は攻撃するだろう。なぜなら彼が見るものは外部化され、いまにも襲いかかりそうな、そして彼と再び一つになろうと咆える彼自身の恐怖だから。投影された恐怖が必ず生み出す瞋恚を見謝ってはいけない。それは怒りに任せて叫び、そのつく手を捕らえて喰らおうと必死になって爪を振り回す。

身体の目はこれを、天国が慈しみ、天使が愛し、神が完璧に創造した者の中に見出だすのである。

アーテン:「コース」のこの教えの続きには、エゴはいつもきみがエゴの思考システムを綿密に観察するのを邪魔しようとすると書いてある。
(本物:佐藤篤代の注意:「コース」とは「A・Course・in・Miracles」)

―エゴは内側を見るなと声高に叫ぶ。もし見たら罪を見てしまうし、神が鉄槌を下してあなたを盲目にするだろう、と。

Jが説明しているとおり、エゴがほんとうに心配しているのはそんなことじゃない。
(本物:佐藤篤代の注意:「J」とは「Jesus:イエス・キリスト」)

―罪ゆえに内側を見ることへの恐怖の下にはもう一つの恐怖があり、それがエゴを震撼させる。

もしあなたが内側を見て、そこに罪がなかったらどうなるのか?この「恐ろしい」疑問こそ、エゴが決して問いかけないものである。それを問いかけるあなたは、エゴの防衛システム全体を痛烈に脅かすから、エゴはもうあなたの友人のふりをしなくなる。


「神の使者」P225~226
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)


―怒りは決して正当化されない。攻撃にはまったく根拠がない。恐怖からの脱出が始まり、完成されるのは、これによってである。
(※【A・Course・in・Miracles】からの引用部分)
(アーテン:)どうしてこれが重要か?なぜならこれも「コース」が教えているように、言葉であれ暴力であれ、きみが自分の考えで誰かを攻撃したり、誰かがきみを攻撃したように見えるとき……。

―救済の秘訣は次のことしかない:あなたはそれを自分自身に対して行っているのだ。攻撃がどんなかたちであっても、これが真実である。敵と攻撃者の役割を誰が担っても、やはりこれが真実である。あなたが感じる痛みと苦しみの原因が何であるように見えても、やはりこれが真実である。夢を見ているとわかったら、あなたは夢のなかの人物に反応しないだろう。どれほど憎むべき悪人に見えても、あなたが夢を見ていることを忘れない限り、あなたには何の影響も及びはしない。
(※【A・Course・in・Miracles】からの引用部分)

きみが夢のなかの人物を批判して、それによって夢を現実にするたびに、まっさかさまにエゴの罠に落ちる―自分が罪を償わなければならないと信じるか、誰かに罪を償わせなければならないとし信じるか、あるいはその人々がきみの糾弾に値すると信じることになるから。

―罪悪感を現実とし、それから償っても、罪悪感を消滅させることはできない。それは消滅させる代わりに罪悪感をもたせようとするエゴの計略だ。エゴは攻撃を通じた償いを信じ、攻撃が救済であるという狂気の考え方を全面的に採用している。
―そしてエゴの教えのなかには、罪悪感からの逃げ道はない。攻撃は罪悪感を現実にするし、それが現実なら克服するすべはない。
(※【A・Course・in・Miracles】からの引用部分)


―聖霊は単に、それが決して存在しないという静かな認識を通じてそれを消滅させる。
(※【A・Course・in・Miracles】からの引用部分)

「神の使者」P234~236
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)


ゲイリー:…考えたんだけど、エゴの思考システムと台本で、いろいろなことが説明できるよね。どうして先天的な病気や奇形をもった子どもが生まれてくるのかってことも。神はそんなことをしないとわかっただけでも、とても楽になるよ。どうして子どもが顔をあわせた瞬間から玩具を奪いあって争うのか、どうして学校でからかいやいじめをしたり、徒党を組んだりして、無意識の罪悪感わ、他者に投影するのか―あれは相手が悪いんだ、ってことにしたいんだな。

人はいつも敵味方に分かれ、生涯を通じて被害者になったり加害者になったりする。人にはいろいろな違いがあって、ある人々のほうが優れているようにみえるし、優れた人々と劣った人々がいるように感じさせる。健康と病気、美しさと醜さのようにどこにでも対立があって、それがあたりまえになっている。でも、何かが美しいか醜いかを判断しているのはぼくたちの身体だけ―だからすべては主観的で、一からでっち上げている。でもそれしか知らないから受け入れているんだな。

それから特別の憎悪という永続的な争いと同じように、特別の愛というのもある。愛する人は何をしても間違っていないし、たとえ間違っていても簡単に赦せる。憎んでいる人は何をしても正しくないし、赦せない。だから生涯を通じていろんな競争相手がいるし、ビジネスや企業の競争があるが、すべては同じエゴのパターンに則っている。多くの人たちは他人の身体に対して権力を奪おうとキャリアを追求するが、そんなものは権力の哀れな模造品に過ぎないんだよね。そういうキャリアは無意識の罪悪感の投影で満ち満ちている。最もわかりやすい例を挙げれば、裁判で勝つのは相手側が悪いとうまく説得し、陪審員の無意識の罪悪感を相手側に投影させる利口な弁護士だ。

選挙で当選する政治家は反対陣営を非難するのがうまい人たち、問題は反対陣営の責任だと有権者に思わせる人たちだ。宇宙的な場で見れば、神からの分離もそれに伴う苦痛や不幸もみんな反対陣営の責任だって非難するのと同じだな。罪があるのは向こうだ、こっちじゃない、ってわけ。どっちもたいていは本気で自分たちが正しいと信じているが、じつはどっちも正しくはない。だって彼らが見ているのは真実じゃないんだから―そういう主張に反応してどっちかの味方になったとたん、ぼくたちは解決策ではなく問題の一部になってしまう。そのあいだずっと赦そうとしない人は、自分たちが自作自演の仕掛けに反応し、エゴの計略に取り込まれているだけだと気づかない。

ぼくたちは問題があると攻撃する。貧困、ガン、麻薬、あらゆることに対する戦争がある―でもどれも効果はないんだ。スポーツだって、子どもからおとなまで戦争のように闘う。

考えてみれば、どうして宗教を信じる人が神に到達するには犠牲や苦しみが必要だと考えるのかも、エゴの台本で説明がつくな。キリスト教ではJ(※)がみんなの罪を背負って苦しみ、死ぬ。でも犠牲ってエゴのものであって、神とは関係ないよね。だから福音書にあるように「『わたしは憐れみを好むが、犠牲は好まない』ということが何を意味するか知っていたら、罪のない者たちを罪に定めはしなかっただろう」という言葉はほんとうにJ(※)が言ったことなんだと思うよ。
(※注:J=Jesus=イエス・キリスト)

誰でも、何らかの方法で特別の憎悪の対象に罪を着せればいいって知っているようだね。そこまではしなくても、事故だの病気だのさまざまなやり方で苦しんで、エゴのシステムを行動化する方法を見つけるみたいだ―だって人は罪悪感を他者だけでなく自分の身体にも投影できるんだから。なにしろすべての憎悪は実は自己嫌悪なんだもの。

そういうことは日常的に起こっているし、トークショーやニュースやメディアでも同じことだよね。残念ながらこの投影が行き着く先は必ず、心のなかで悪者にされた対象への暴力になる―暴力のかたちは違っているだろうけど。だから憎悪による犯罪(ヘイト・クライム)が起こるし、国際的なレベルでは戦争になる。国内では政治闘争があって言葉で攻撃するし、時と場所によっては政治闘争が内戦につながる―アメリカにだってそういうことがあった。

すべては二元性であり、個人的なレベルからマクロなレベルまでの何もかも―自然の力から経済の拡大と収縮まで―分裂による紛争、エゴの心の象徴なんだ。挙げていったらきりがないけど。

「神の使者」P251~253
ゲイリー・R・レナード
吉田利子訳
西暦2007年1月30日:日本語版初版発行
(原書名:The Disappearance of the Universe)



【②神から分離したという起源の罪悪感は、エゴが作った概念であり、知覚がインチキだという実感で無意味となり終わる】

このゲイリー・R・レナードの本の抜粋や【A・Course・in・Miracles】を持ち出し、正当化して、本物:佐藤篤代の再利用段階の全てを同じと見て再利用する様を否定し非難したいならば非難したらいい、【偽者用】の領域。ならば、その非難する偽者も同じ穴のむじなだ。同類ということだ。
本物:佐藤篤代は誰かを信頼させようとは一切していない。逆に信頼されそうになったら自分を崩して信頼をぶち壊すね。同姓同名を使っている『偽者崩し』にもなる。
あらゆる個々の存在への信頼は例外なく特別性でしかないからな。

本物:佐藤篤代でのこの提示目的は、エゴが作った全【異世界レベル】の全領域の概念レベルを更に1段階進ませ、移行させることだけだ。
それで終わりへ近づけるからだ。

本物:佐藤篤代自体、自分を、エゴが作った支配するロボットであり、他の全てと同じように【終わらせる為に作用する何か】に再利用されるだけの道具であり手段でしかない自覚しかない。
無意味なんだよ。全てが。

ロボットが人格磨いてどうするんだ?特別性しか強化されない。よい面だけを強調して取っておくのは例外作りだ。
それではエゴが作った全てを【同じ】としてなど見られる筈がない。

神が聖霊という答えをエゴが作った幻想の中に投じた。
【A・Course・in・Miracles】にはそう書いてある。
それは型ではなく「答え」だ。
だが、「答え」が型を取るには、エゴが作った幻想の中に幻想として作られなければならない。
インスピレーションという逃げ道は通用しない。インスピレーションで答えを受け取った個体の反応、思考、感情、"答えを採り入れたその後"を何が作るのか?
―エゴだけだ。
聖霊は一切幻想を作らないのだから、聖霊は作っていないということになる。

知覚ある世界の全てを作ったのはエゴだけだ。例外はない。
【A・Course・in・Miracles】にもそうあるだろうに。
だから、神概念には無理があるのだ。

神から分離したという起源の罪悪感は、エゴが作った概念であり、知覚がインチキだという実感で無意味となり終わる。その後は罪悪感はその他の知覚と同じ扱いとなるだけだ。

自分の知覚は自分のものではない、インチキだと判った時点で、罪悪感は一切意味をなくす。

これは、スケープゴートを本物:佐藤篤代へ投影(『芋づる式カバー』)していたことによる根拠のない罪悪感を意味付けする為にエゴが作った概念だと考えられる。

【異世界レベル】の各偽者の領域がずっと長い間、高い位置を死守する為にスケープゴートの糾弾をしてきた為、糾弾対象を必要としてきた為、スケープゴートに罪のでっち上げとなすりつけがなされてきただけだった。

罪とは、世界の主人公(偽者)の高い位置を死守することで信頼を保つ為だけの手段でしかなかった。

そして、だからこそ、この罪の投影に関する概念は歪んでいても『偽者崩し』となる。

最後にエゴに作られた偽者である本物:佐藤篤代の唯一の願いは、エゴが作った全て、知覚の全てを完全に終わらせることだけだ。その方向へきちんと向かって行けるなら、他の全ては何であれ、どうでもいいのさ。

重要なのは、全てがきちんと終わる方向へ向かうことだけだ。

そのように最後の偽者:佐藤篤代はエゴに作られているだけだがな。



【③変えなくてはならない心の領域は、エゴの作り物の領域ではない。見せられ騙されている「1つの自己※」だ】

エゴが世界の全てを作ったのだから、全てはエゴの作り物なのだから、因果応報的な罪悪感の流れは、エゴが作った。

起源の罪悪感が無意識下に蓄積されていて、それが世界に浮き上がり表現されているという状態が、エゴの作り物で取り繕いだということだ。
そんな罪悪感の流れはない。

それは、個々の心次第によって変えられるとして、心に力があるように信じさせるエゴ罠だ。
個々の心もエゴが作った作り物でしかないというのを誤魔化す為だ。
作り物は作り物だ。エゴの支配下にしかないという点を誤魔化されているのだ。
だから、エゴの作り物はエゴの意図を超えられない。
エゴにとって出来れば作りたくないものがある時、エゴは不承不承ながら、しかし欺ける判断からしか作らない。
ゆえに、作り物は作り物の領域を超えられない。

エゴが、心によって変えられたという結果の流れを作り出すだけなのだ。

「全ては心次第」ではない。
世界に表されている全てはエゴの作り物だからだ。

変わらなくてはならないのは、
そして変えることが可能なのは、
エゴに作られた幻想である個々の心ではなく、
エゴの欺きの対象である「1つの自己※」だけだ。

「1つの自己※」の願いの方向性を、全てを終わらせたいという方向にさせる為に、エゴの全ての作り物の幻想は、【終わらせる為に作用する何か】の作用により再利用されるだけだ。

その辺の区別をエゴが【A・Course・in・Miracles】で誤魔化してきたのだ。

変えなくてはならない心の領域は、エゴの作り物の領域ではない。
見せられて騙されている側の心の領域だ。
そして、見せられている側は世界には表現されていない。

この知覚ある世界はエゴが作った幻想だ。
故に、この世界の中にあるように見える全ての罪はエゴの作り物であり、現実ではないという点においては、【A・Course・in・Miracles】と一致している。

言うまでもなく、
エゴが作った他の全てと同じように、
罪は幻想であり、罪はない。

罪とは、エゴが欺く目的で作った作り物に過ぎない。
エゴが作った各世界の主人公(偽者)で「1つの自己※」を欺く為に、主人公(偽者)の魅力を保ち、信頼と特別性を死守する為に、貶められる「他」が必要だった為に、そのスケープゴートを落とし、糾弾する手段として罪は作られただけだ。

ヒーローには引き立てる為の悪役が必要だったということだ。
だから罪は作られただけだ。

だからこそ、この世界で現実のように見える【罪は幻想であり、罪はない】という決定的な視点が必要なのだ。

スケープゴート糾弾に走らされて、真実へ向かう足留めにされないようにするためにも。無論、「1つの自己※」が、だがな。

だから、罪を現実として、罪を糾弾したり呪縛されて囚われている原始的な世界の構造にハマらず、この作り物の実態を見て超えろ。

西暦2014年段階の佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/18717650/23
(6)偽者概念
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11970074185.html

佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(17)
【罪は幻想・罪はない】
西暦2015年3月11日:水曜日


西暦2015年段階の概念:佐藤篤代
http://simplog.jp/comment/19063121/23

(1)エゴの隠す特質
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11974654245.html
(2)エゴが隠し取り繕う過程
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11975807518.html
(3)2つの正反対の思考システム
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11976707775.html
(4)知覚ある世界はエゴが作った幻想
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11978246696.html
(5)スケープゴートの世界構造
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11979880043.html
(6)原因と結果の法則
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11982652628.html
(7)繰り返しのサイクルの終わり
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11983485361.html
(8)知覚ある世界の全てを棄てる
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11986007920.html
(9)幻想を幻想として見る『赦し』
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11987258358.html
(10)やり直しのスパイラル
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11989740061.html
(11)『全ての幻想を同じ』と見る視点
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11991064187.html
(12)エゴが作った幻想の再利用
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11993159401.html
(13)身体の脆さと死におけるエゴの目的
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11994375354.html
(14)身体は幻想・死はない
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11995592527.html
(15)【死の超越】の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11998096555.html
(16)『罪の起源』の実態
http://s.ameblo.jp/universalacim/entry-11998915374.html


西暦2015年1月
http://simplog.jp/comment/19628362/23
西暦2015年2月
http://simplog.jp/comment/19628500/23
西暦2015年3月
http://simplog.jp/comment/20021719/23


この本物:佐藤篤代のブログは
【A・Course・in・Miracles】の核心「知覚ある世界はエゴが作った幻想」を矛盾なく徹底的に追究し、
【他が幻想であり、他がない】
と証明する、
『世界の起源を扱う』、
『人間レベルではない』、
【自分発信、自分受信】
の自分が知るために自分が自分に知らせる為のブログだ。

敵はいない。
味方もいない。
全部同じだからだ。
全てが同じエゴが作った幻想でしかないからだ。

本物:佐藤篤代は『エゴが作った幻想』という見方でしか何も見ないから、敵も味方もいない。

この『全てはエゴが作った幻想』という視点でしか『全部同じ』としては見ることはできない。

この本物:佐藤篤代のブログは、
『the Foundation for Inner Peace』の
【A・Course・in・Miracles】
原書second editionの概念をベースにしている。

本物:佐藤篤代がブログで言う核
【A・Course・in・Miracles】の核心
・知覚ある世界はエゴが作った幻想
・他は無い・他は幻想
・エゴが世界に留める為の最大の欺きの手段は特別性だ。
故にエゴの欺きから脱するには特別性を棄てなくてはならない。
・知覚もエゴが作った。
エゴの作った世界の終わりとは知覚の終わりだ。

本物:佐藤篤代はこの【A・Course・in・Miracles】の核心を基本に、【A・Course・in・Miracles】の歪みを削ぎ落としながら、『世界は幻想』という実体験に基づきながら真実へ向かっている。
この点を徹底的に矛盾なくしながら追究している。

矛盾がない概念を採用し、その方向性を目指す。こうして矛盾と歪みをそぎおとしていけば、いずれエゴの欺き(幻想)の完全な終わりへ向かえると本物:佐藤篤代は考えるからだ。

※本物:佐藤篤代が言う「1つの自己」とは【A・Course・in・Miracles】の意味とは違う



西暦2015年(年号:平成27年)
未(ひつじ)年現在

【佐藤篤代について】

西暦2012年7月16日:月曜日:海の日
【A・Course・in・Miracles】セカンドエディション(1976年発行:※生まれ年)の2回目日本語直訳、意訳をやめて直訳でやり直し始める。西暦2011年秋にある所へ送付し自分用が手元にないので、これは自分用。(西暦2012年10月末頃から中断し、西暦2013年11月2日:土曜日にやめた)

理由:【A・Course・in・Miracles】は本という型なので真実を完璧に表現できない。エゴは視界レベルで作り直せると気づいた為。
エゴはあいまいな記憶の水面下をいかようにも作り変えられる。時にはあからさまに作り変える。

同じ理由から【A・Course・in・Miracles】原書は全部はブログ掲載はしない。

この佐藤篤代が手紙を送った宛先のA Course in Miraclesに関連する組織とはthe Foundation for Inner Peace(Mill Valley;アメリカのカリフォルニア州)とthe Foundation for A Course in Miracles(Buecking Drive;Temecula:アメリカのカリフォルニア州)のみ。手紙のみのやり取りだった。
だが、後半ではやり取りは上記組織の個体ではなく、他の存在達こと過去の時点の自分達だけだと考えていた。実際は組織には届いてないと思われる。
西暦2009年から西暦2012年6月29日(金曜日)付の手紙で一切のコンタクトを終了し、以後、今後一切どのA Course in Miracles関連組織とは関わらない。

佐藤篤代はあらゆる全ての思想的布教や教えの組織も含め、A Course in Miraclesに関するあらゆる機関、組織、同人誌を含めた全ての出版、講演、workshop、慈善事業、ボランティア、あらゆる公的活動には一切関わっていないし、永久に関わらない。その他相談的なもの、カウンセリング、ヒーリング等同等の行為にも一切関わっていない。また、イエス キリスト的な偉人系、隠れ偉人や仙人系でもない。

佐藤篤代は生涯本籍変わらない。小学高学年で新築した際1年位近い親戚の家にいた以外、ずっと同じ場所に住んでいる。栃木県宇都宮市。

西暦2013年に新車購入全プロセスは終了済。日本車(国内車)。

佐藤篤代はパスポートを生涯取せず、海外渡航歴なし。

佐藤篤代は生まれてからずっと大病なし、入院もなし。

本物の佐藤篤代は36才(西暦2012年)から風邪も引かない。何らかの症状は代用の偽物の一過性の影響に過ぎないので病気ではない。アレルギーもならない。

本物の佐藤篤代は清潔。潔癖。

まだパソコン持ってなく、基本はスマートフォンがメインでブログ書いてる。あとは祖母の携帯電話をたまに使用。スマートフォンは機種交換し現在XPERIAに。

西暦2012年冬から今ずっと通販してない。めったにしていなかったが。西暦2014年1月19日:日曜日にNissen登録削除しもう通販しない。通販は他でもやってない。
(西暦2015年1月現在)

本物:佐藤篤代は43才になったら、ピンクと可愛い系(フリルやリボンやハートや星等マーク含め)や短いスカートやパンツ系をやめる。
現在の髪型をガラリと変え茶髪もやめる。前髪はなくし、髪色は黒。 現在の髪型(おかっぱ、前髪パッツン、茶髪 )は35才(西暦2011年夏の終わり)から継続中。
暖色系は極力やめ寒色系を主にする(白アイボリー系は多少やる)。ババアはババアらしくする。若づくりやらない。

西暦2007年12月から西暦2008年秋までが第1次インターネットblog活動。西暦2012年1月17日から現在に至るまで第2次インターネットblog活動。それ以外何もない。

本物は将来性のないニート
(西暦2015年)。
佐藤篤代は西暦2015年1月17日(土)で39才。
日本人(血縁すべて日本人)。
生まれてからずっと中肉中背。
普通の容姿。
西暦2009年から無職。それ以前は全部バイトかパート。
生涯未婚で子無し。

メール、コメント、いいね等その他全部のコミュニケーション迷惑だからやめて下さい。
なされる全てが【偽者用コメント】でインチキだと判明している為です。
故に、『偽者用コミュニケーション』だと言う突っ込みしか入れません。
(西暦2015年現在)

佐藤篤代

西暦2015年段階の概念:佐藤篤代(17)
【罪は幻想・罪はない】
西暦2015年3月11日:水曜日

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